闇の力
「相性がいいだと」
トルクは言った。
「俺が、闇の力と」
「左様」
イディムは頷く。
「汝の魂の形は、闇の力を操るのに向いておる」
「くだらねえな」
トルクは吐き捨てた。
「闇の力の勧誘か。誰がそんなもんに与するか。他を当たれ」
「人の子らは皆、闇を毛嫌いするな」
イディムは薄く笑う。
「確かに闇の力は強い。だが、数ある力の一つであることに変わりはないというのに。人の子は皆、闇だけを特別視して、畏れ、遠ざける」
そう言うと、イディムは右手を挙げた。
「まあ、我ら石の魔術師の中にもそう考える者がいるくらいだ。忌み嫌われるのは、闇を背負う者の宿命なのかもしれぬがな」
イディムの掲げた手の中に、黒い力が凝縮されていく。
「ちっ」
トルクは不可視の盾を展開しながらさらに距離を取った。
「お前らも下がれ」
トルクにそう指示され、デグとガレインも足元のアンチュウマソウを踏みしだきながら後退する。
「臭え」
デグが吐き捨てた。
「これが、闇の臭いか。何かが腐ったみたいな臭いじゃねえか」
「死ねば皆、その臭いを放つのだ」
イディムは笑う。
「だが、確かに畏れられても仕方のない面もある」
そう言ったイディムが不意に手をトルクに向けた。その手の中で、闇の力が爆発するように弾けた。
トルクの不可視の盾は、薄氷のような脆さで砕け散った。
「トルク!」
デグが叫ぶ。
闇はまるで刃物のような鋭さでトルクの身体を切り刻んだ。
「がはっ」
鮮血を撒き散らしながら、トルクが地面に沈む。
「闇にはこれだけの力があるのだからな。切り刻むも叩き潰すも自由自在」
イディムはそう言いながらトルクに歩み寄った。
「トルク、しっかりしろ」
駆け寄ろうとするデグとガレインを、トルクは手を挙げて制した。
「離れてろ」
唸るようにそう言うと、トルクは倒れたままでイディムに向かって杖を突き出した。
「それで力を見せつけたつもりか。その程度で折れるなら、俺はとっくにこんなところにはいねえ」
気弾の術。
鋭い音を立てて、凝縮した空気の塊がイディムの身体を打ち据える。
「当たった!」
デグが嬉しそうに叫んだ。
「むっ」
立て続けにいくつもの気弾を浴び、苦しそうに身体をくの字に曲げたイディムは慌てて間合いを取る。
「逃げんのか」
起き上がったトルクは、杖をイディムから逸らさなかった。
「それなら、腕の一本でも置いてけよ」
風が唸りを上げる。
風切りの術。
身をかわそうとしたイディムの右腕が、切断されて宙に舞った。
「ぐうっ」
呻いたイディムの腕から血が迸る。
「すげえ」
デグが歓声を上げた。
「俺たちとは段違いだ。やっぱりトルクだ」
トルクは止まらない。
強烈な風の術でイディムの足元を揺さぶると、その身体にもう一度空気の弾丸を突き刺した。
「がっ」
たまらず後ろによろめいたイディムに向けて、トルクはもう一度杖を突き出す。
杖から、またも炎が上がった。
今度は先ほどのものとは比べ物にならないほどの高熱を伴った炎だった。
イディムとトルクの間の地面に生えたアンチュウマソウが音もなく焼け焦げる。
イディムが自分の身を守るように両手を前に突き出すが、それは強大な炎の前では、あまりに非力に見えた。
だが、次の瞬間。
炎はイディムに届く直前に消えた。
イディムがかき消したのではない。
トルクは杖を下ろしていた。炎を消したのは、トルク自身だった。
「なぜやめるのかね」
イディムが言う。黒い目が、値踏みするようにトルクを見つめていた。
「あと少しで、我を倒せそうであったのに」
「てめえ」
トルクは額にじっとりと汗をかいていた。
「……嵌めやがったな」
「さあて」
イディムは首を傾げると、地面に落ちた己の右腕にゆっくりと歩み寄った。
黒衣の魔術師が右腕を拾い上げるその足元で、焼け焦げたアンチュウマソウの代わりの新しいアンチュウマソウが湧き出すようにして地面を覆っていく。
「嵌める? 何のことかね」
黒い油のようなものがイディムの腕の切断面から染み出して、身体と繋がっていく。
「素晴らしい魔法の数々であったな。先ほどとは見違えるようだ。これこの通り、我が腕も切り飛ばされてしまった」
そう言いながらも、イディムの右腕は油のような粘性の闇で元通りになりつつあった。
「擦り込みやがったな、さっきの攻撃で」
トルクの顔が青ざめていた。見たことのないその表情に、デグとガレインも息を呑む。
「俺の身体に、闇を」
「調子が良かったであろう、いつもよりも格段に」
イディムは微笑んだ。
「どの魔法も、的確に我を捉えていた。威力も申し分なかった。あれこそ才能のある者の魔法というもの。汝もさぞかし心地よかったことであろう」
「どの口が、そんな白々しいことを」
トルクの言葉は、力を失って途切れた。
魔法を使うたびに、身体の奥から無尽蔵に力が湧き上がってくるようだった。
今までは漠としていた魔力が、まるでその一粒一粒まで鮮明に見えるような研ぎ澄まされた感覚があった。
イディムの動きの一つひとつが、手に取るように分かった。
それが、自分の力ではないことをすぐにトルクは悟った。
これは、闇の力だ。
そしてこれが、闇を得た者が見ている景色。
「それはほんの触りだ」
イディムは言った。
「なに、すぐに消える程度の薄い闇よ。我とて、望まぬ者を闇に浸すほど無粋ではない」
それから、何も答えないトルクを見て、微笑む。
「だが、汝にも見えたであろう。本来は才能ある者たちにしか見ることのできぬ景色が」
才能ある者たちにしか見ることのできぬ景色。
その言葉は、トルクの胸にずしんと響いた。
「汝の先を走るあの連中は、そんな世界に生きているのだ」
イディムはもうすっかり元通りになった右腕を大きく振り上げた。
「普段の汝に見えているのは何だ。我には分かるぞ。答えてみせようか」
その言葉に、トルクは顔を引きつらせた。
「よせ」
トルクは呻くように言った。
「やめろ」
「背中だ」
イディムが笑った。
「汝に見えているのは、いつも先を行く連中の背中ばかりだ」
背中。
トルクの前を、風のように走っていくアルマーク。
走っても走っても追いつかない、あの背中。
そのさらに前を、金髪のクラス委員が走っている。
差は縮まらない。どうにか離されないように食らいついていけるのは、果たしていつまでのことだ。努力でその絶望的な差をごまかし続けられるのは。
「あとどれだけ努力を重ねれば、汝はあの連中の前に立てるのだ」
イディムの声に、じっとりとした重みが加わっていた。
これは、こいつの手だ。この言葉には、何らかの魔力が込められている。
トルクにもそれが分かった。
だから、歯を食いしばろうとした。
みすみす、罠に嵌るな。
そう自分に言い聞かせようとした。
だが、さっき魔法を使ったときの、あの甘美な煌めき。
自分の魔力が隅々まで行きわたる感覚。
あれが、本当に俺のものであったなら。
「必要以上に闇を恐れることはない」
優しい声で、イディムが言った。
「全ての力は、使い方次第だ。闇とてそれは変わらぬ。自分できちんと制御すればいいだけのことだ」
イディムの言葉は、まるで耳ではなくトルクの魂に語り掛けているかのようだった。
「汝には」
イディムが言った。
「闇を操る才能がある」
その言葉に、トルクの手から力が抜けた。
杖がアンチュウマソウの葉の上にぱさりと落ちる。
才能。
俺にも、あいつらの才能を超える力が。
「授けよう。闇の力を」
その言葉がトルクにもたらした解放感たるや。
必死に歯を食いしばって積み上げていた、あれも、これも。
もう努力などせずともいい。それが全て手に入るのだ。
望むのであれば、今この瞬間にでも。
トルクが返事をしようとした、その時だった。
不意に、大きな身体がトルクの横から割り込んできた。
イディムとトルクの間に立ちはだかったのは、ガレインだった。
トルクにも、その横顔が見えた。
普段は無口で無表情なガレインが、鬼のような形相をしていた。
そんな顔をしたガレインを、トルクは初めて見た。
「トルクを」
怒りに顔を真っ赤に染めて、ガレインは言った。
「トルクを、侮辱するな」




