正義
「貴様ら」
ノリシュに頬を張られたプーティが、口元を拭う。
「ふざけた真似を」
「ふざけた真似だって?」
レイドーが答える。
「あなたが言ったんだ、命の危機に対処しろって」
そう言って、前脚を一本失った巨大なモルドを顎で示す。
「別にあの魔物を倒せとは言われていない」
「屁理屈をこねて、その場を切り抜ける。それが汝の正義か」
プーティは言った。
その口調に、レイドーは身構える。
「言っただろ、僕は正義なんて示すつもりはないって」
「正義も大義もなく、ただ生き延びようと小賢しい知恵を絞る。醜い」
そう言ってプーティはレイドーを指差した。
「減点1」
「生き延びようとすることの何が悪いんだ」
レイドーの言葉に構わず、プーティはノリシュを指差した。
「汝は目の前の状況に向き合わず、裏からのくだらぬ小細工に手を貸した。減点1」
「言ってることがむちゃくちゃじゃないか」
そう言いかけたレイドーのすぐ脇の木が白い靄に包まれて見えなくなる。
「あっ?」
異変を感じて周囲を見まわすと、森がぼんやりと霞んでいた。
いつの間にか、白い靄のようなものが森全体を包んでいた。
そのせいで、仲間もプーティも、モルドの姿もほとんど見えない。
「持ち点が尽きるのだ。靄に包まれて、汝らは息絶える」
靄をまとうようにして、プーティは厳かに宣言した。
「このまま汝らが淘汰されるのを眺めるのもいいが、頬を張られた借りだけは返しておかぬとな」
プーティの白い目がぎらりと光った。
「危ない」
レイドーが叫ぶ。
「ノリシュ、離れて」
慌ててノリシュが身を退く。
だが、プーティから魔法は放たれなかった。変化が起きたのは、ネルソンが相手をしていたモルドの方だった。
白い靄が集まり、モルドの身体をすっぽりと覆っていく。
それは、さながら白い霧の魔獣。
魔獣は大きく跳躍してノリシュを襲った。
とっさにかわそうとしたノリシュだったが、魔獣の動きは速かった。
鋭い爪がノリシュの身体を弾き飛ばす。
鮮血が舞い、ノリシュは地面に投げ出された。
「ノリシュ!」
レイドーが冷静な仮面をかなぐり捨てて杖をかざした。
「よくも」
その周囲に冷気が渦巻き、無数の鋭利なつららが出現する。
レイドーが杖を振るうとつららは一斉にプーティに向かって飛んだ。
「ふん」
余裕の表情のプーティがゆっくりと両腕を振るうと、つららは全て向きを変え、逆にレイドーに襲い掛かってきた。
「うっ」
かわしきれず、そのうちの一本を腕に受け、レイドーは呻く。
「これがあなたの正義か。こうやって僕らを嬲り殺すのが」
「借りは返すというだけのことだ」
涼しい顔で言うプーティに痛みをこらえてなおも言い返そうとしたレイドーの肩を、背後から力強い手が掴んだ。
「レイドー、下がってろ」
「ネルソン。でも」
そう言いながら振り向いたレイドーは、息を呑んだ。
ネルソンが、怒っていた。
普段から直情的なネルソンのことだ。怒ることもよくあった。レイドーにしても、声を荒げるネルソンの姿を目にするのは別に珍しいことでもなかった。
だが、今まで見たことがなかった。こんな風に静かに怒りを滾らせた彼の姿は。
「おい、てめえ」
そう言いながら、ネルソンはレイドーを押しのけて前に出た。
「やっちゃならねえことをやったな」
「何」
プーティが薄く笑う。
「何のことだ」
「正義だ大義だと、しゃらくせえ」
ネルソンが血混じりの唾を吐く。
「正義を示せって言ってたよな」
そう言いながら、ネルソンはプーティに向かって真っすぐに歩いていく。
「だから、お前に俺の正義を教えてやるよ」
ネルソンがプーティを見据えた。その表情に、プーティがわずかに顔をしかめる。
「よく聞け」
ネルソンは言った。
「ノリシュを傷つけるやつは、絶対に許さねえ」
森全体に響くような声だった。
「それが俺の正義だ」
「ばかな」
プーティが笑う。
「そんなものは正義とは言わぬ」
「文句は言わせねえ」
ネルソンが大きな声でプーティの言葉を遮る。
「これが俺の正義だからだ。お前には関係ねえ。これは、俺の正義だ」
そう言うと、ネルソンはプーティの顔に指を突き付けた。
「お前みたいに採点してやるよ。白のプーティ。お前はノリシュの治癒術を未熟と罵った。減点1。ノリシュの優しさを偽善と蔑んだ。減点1」
「何のつもりだ。汝に減点する権利は」
言いかけるプーティの言葉はやはりネルソンに遮られる。
「ノリシュの真剣な質問にちゃんと答えなかった。減点1。くだらねえ幻術の試験でノリシュを悩ませた。減点1」
「待て」
だがネルソンは止まらない。モルドも怯むような獣の表情でプーティに言葉を叩きつける。
「ノリシュが仲間に流されたなんて言いやがったな。あれはノリシュの優しさだろうが。減点1。そのノリシュの優しさを甘い認識だと言いやがったな。くそが。減点1」
「そんなものは正義ではない!」
ついにプーティが声を荒げた。
「汝の言っていることは」
「聞かねえって言ってるだろ!」
ネルソンもさらに大声でそれを遮る。その目には一切の迷いがなかった。
「これは俺の正義だ。お前に認めてもらう必要はねえ」
ネルソンはさらに詰め寄りながら、プーティに指を突き付ける。
「ノリシュを泣かせやがったな。減点2。おかしな耳鳴りを起こしてノリシュを苦しめたな。減点1。いや、ノリシュはそれで何度も苦しんだ。ノリシュを苦しめやがって、くそ。減点3だ。その後で懲りもしねえで、でけえ魔獣を出してノリシュを驚かせた。減点1。それよりも何よりも、てめえは自分がよけられもしなかったくせにノリシュに殴られたことを根に持って仕返しをしたな。ノリシュの身体を傷つけやがった。許せねえ」
ネルソンは噛み付かんばかりに叫んだ。
「減点100だ!」
ネルソンはプーティのローブの胸ぐらを掴む。
「さあ、全部で減点は何点だ。数えてもねえけどよ。お前の持ち点はまだ残ってるか」
「そんなものは」
プーティがなおも言う。
「正義ではない」
「これが俺の正義だ!」
ネルソンは叫んだ。
「逃げも隠れもしねえ。文句も言わせねえ。これはお前の正義じゃねえ。俺の正義だからだ」
プーティが言葉を失う。
ネルソンはその身体を激しく揺さぶった。
「答えろ、プーティ! お前の持ち点はあと何点だ!」
プーティは答えず、ネルソンの目を覗き込む。ネルソンはそれを真っ直ぐに見返した。
一瞬の静寂。
「あっ」
ネルソンたちを見つめていたレイドーが、気がついたように周囲を見まわした。
「白い靄が、消えた」
その言葉通り、今にも森全体を覆わんとしていた白い靄が、魔獣とともに跡形もなく消えていた。
「なんだと」
それに動揺したのは、プーティだった。
「ばかな。なぜ」
その表情を見て、レイドーも悟る。
「そうか」
そう言って頷く。
「そういうことか」
「何が、そういうことだ」
ネルソンに胸ぐらを掴まれたまま、プーティがレイドーを見る。
「靄が消えたのは」
レイドーは答えた。
「認めたからだ、あなたが。白のプーティ。あなたはネルソンの正義を認めたんだ」
「違う」
プーティは首を振った。
「こんなばかげた、幼稚な正義など、聞いたこともない。認めてなどいない」
「それじゃあどうして靄が消えたんだい」
レイドーは微笑んだ。
「あなたは認めたんだ。ネルソンの揺るがない正義を。その言葉の正しさを」
「違う」
「それなら答えてあげなよ。あなたの持ち点は、あと何点なんだ」
次の瞬間、プーティのローブにまるで石のようなひびが入った。
「ばかな」
プーティは叫んだ。
「認めぬ。こんな、こんなものは正義とは呼ばぬ」
「うるせえ!」
ネルソンが叫ぶ。
「ノリシュに謝れ!」
その真っ直ぐな言葉と真っ直ぐな目に、プーティは絶句する。
ローブに、顔に、次々にひびが入っていく。
「後付けの理屈で立派な正義を語る人なんて、いくらでもいる」
レイドーが言った。
「正義を武器にして他人を殴る人もね。あなたが求めていたのはそういう正義かもしれないけれど」
そう言うと、レイドーは背後のノリシュを助け起こした。
「本当の正義は、もっと単純で力強いところから生まれるんだ。僕はネルソンの正義に賛同する」
ひびだらけの顔で、プーティがレイドーを見た。レイドーは首を振る。
「僕も、仲間を傷つけたあなたを許せない」
レイドーに支えられながら、ノリシュが悲しそうな顔でプーティを見た。
「白のプーティ。あなたの正義では」
ノリシュは言った。
「誰も幸せにはなれないと思う。それならそれは、何のための正義なの」
「ばかな」
プーティは呻く。次々に入るひびに、身体が足元から砂のようになって崩れていく。
「おい、消えるな」
ネルソンが叫ぶ。
「その前にノリシュに謝っていけよ!」
「認めたというのか、この私が」
呆然とした顔でプーティが呟いた。
「こんな、野蛮で感情的な」
「でも、まっすぐだ」
レイドーがプーティの言葉を継いだ。
「正しきものは歪まぬ。あなたの言った言葉だ」
プーティは目を見開く。その身体に、最後の大きな亀裂が入った。
「私が、こんなものを正義だと認めただと」
呻くようにそう言った顔がぼろぼろと崩れていく。
「謝れよ!」
そう叫ぶネルソンの顔を、プーティはまじまじと見た。
「……考えてみることにしよう」
ついにプーティは言った。
「時間はたっぷりとあるからな。次に現れるときまで、じっくりと」
その身体が全て、砂のように崩れ落ちていき、後には白く輝く石だけが残った。




