前
ネルソンたち三人の前でその威容を誇示する魔獣モルド。
巨大な口が、ぐぱっと開いた。
ごおっという地鳴りにも似た轟音。
モルドがまた吼えたのだ。
野性の強烈な圧力。
びりびりと空気が震える。
「ネルソン」
杖を構えたレイドーがネルソンに囁いた。
「これだけ大きな魔獣」
そう言って、モルドを睨む。
「それだけでも十分危険だけど、あのプーティの出してきた魔獣だ」
その目が魔獣から離れ、姿を消したプーティを探すように周囲を抜け目なく見まわした。
「こいつもただのモルドだと思わない方がいいよ」
「おう」
ネルソンはじっとモルドを見据えたままで頷く。
「でかいだけじゃねえってことだな」
「多分ね」
「じゃあどうする、レイドー」
ネルソンは恐れる様子もなく、言った。
「とりあえず敵の出方を伺うか?」
その言葉とは裏腹に、ネルソンが一歩踏み出す。
「ネルソン。待つんだ」
レイドーが咎めるが、ネルソンは首を振った。
「待つ? 違うぜ。敵がどう出るかをじっと待つなんて、俺じゃねえ」
ネルソンが笑う。
さっきまであれだけプーティに怒りを向けていたのに、今はもう、この魔獣を相手にすることしか考えていない。
その切り替えの速さに、レイドーは驚嘆する。
「悩んだら前だ、レイドー」
屈託のない、明るい声。
屈することも懲りることも知らない、真っ直ぐなわんぱく少年の笑み。
巨大な魔獣にまるで怯むことなく、ネルソンがさらに前に出た。
「欲しいもんは、いつだって前に進んで掴んできた」
いつでも最初の一歩を踏み出すこと。
ネルソンのその言葉には、自分への信頼があった。
「分かったよ」
レイドーが頷いて一歩後ろに下がる。
「それでこそネルソンだ。付き合うよ」
「おう」
そう言いざま、ネルソンはレイドーを振り返りもせずに駆け出した。
「頼むぜ、レイドー」
駆け寄ってくるネルソンを見て、モルドがぐっと体勢を低くする。
その後ろ脚に巨大な力が溜められるのがレイドーにも見てとれた。
「どーん!!」
ネルソンの叫び声と、モルドの咆哮が重なった。
ネルソンが放った風切りの術はその地鳴りのような叫び声にかき消された。
「叫び声で、俺の魔法を消すだと」
ネルソンは目を見張る。
「くそ。いやなことを思い出したじゃねえか」
クラン島。
ライヌルの罠に右肩を砕かれた闇の魔術師グラングは、それでも叫び声一つでアルマークたちの魔法を消し飛ばしてみせた。
ネルソンの苦い記憶を断ち切るかのように、背後から光の矢が立て続けに飛んだ。
レイドーの打ち込んだ魔法の矢。だが、やはりそれも魔獣の咆哮にかき消される。
しかしその時には、ネルソンはモルドに相当接近していた。
杖に魔力が凝縮する。
「くらえっ」
火炎の術。
杖から噴き出した炎が、モルドを包む。
「レイドー!」
叫ぶネルソンに呼応するように、レイドーが放った光の網が魔獣を捉えた。
輝く網の中で、もがきながら燃えていく魔獣モルド。
「よっしゃ」
ネルソンが握りこぶしを作ったとき。
「ネルソン、下がって!」
ノリシュの叫び声。
魔獣が、身体を起こした。まるで伸びでもするかのように、ゆっくりと身体を動かす。
レイドーの作った網がぶちぶちと捩じ切られていく。
モルドが身をよじるたび、炎が霧散していく。
その身体が、薄い靄のようなものに覆われていた。
「なんだ、これ」
慌ててモルドから距離を取りながら、ネルソンが呻く。
「おかしいぞ。あの靄。何かに守られてやがる」
「やっぱりだ」
レイドーが頷く。
「この魔獣は、白のプーティが守っている」
「ってことは」
「最初に言ってたじゃないか、あいつが」
苦々し気にレイドーは、自由を取り戻したモルドを見た。
「正義が問われるのは、自分たちの身に危険が迫ったときだとか何とか」
「ああ、そういや言ってたな」
ネルソンも顔をしかめる。
「偉そうに下らねえことを」
「そういう状況を作りたいんだ、プーティは」
レイドーは言った。
「つまり、僕らはモルドに勝つことができないようになってる。その上で、僕たちが命の危機にどう対処するかを試そうとしてるんだ」
「認めねえぞ、そんなこと」
ネルソンは吐き捨てる。
「あいつの思い通りになんてさせるかよ」
その時だった。
モルドが、初めて動いた。
強い後脚が地面を蹴ると、地響きのような音がした。
「うおっ」
「うわっ」
ネルソンとレイドーはとっさに身体を投げ出してモルドの突撃をかわした。
鋭く振られた前脚が近くの木に当たり、勢いのままになぎ倒す。
「離れて!」
ノリシュの叫び声。
二人は素早く立ち上がってモルドから距離を取った。
「ひとたまりもねえな、あんな攻撃受けたら」
ネルソンは、言葉とは裏腹に楽しそうな表情でレイドーを見る。
「でも何か考えがあるんだろ、レイドー」
「あるよ」
レイドーは頷く。
「だけど、もう少し時間がかかる」
「いいよ、それを頼む」
ネルソンはそう言うと、モルドに向かって駆けた。
その身体を、光の膜が包む。
光の衣の術。
直情的なネルソンが使うのは珍しい魔法だった。
「それまでは俺に任せろ」
ネルソンがモルドの目の前を横切るように走る。
その挑発的な動きに苛立ったように、モルドが叫び声をあげて突進した。
かろうじてそれをかわして地面に転がったネルソンの身体を、真綿のような光が包み込んで守る。
派手に転がったのに怪我一つなく、ネルソンは立ち上がった。
「さあ、化け物。こっちだぜ」
ネルソンはまた元気にモルドの周囲を走り始める。
「ネルソンが頑張ってくれている」
レイドーは背後のノリシュに囁いた。
「いけそうかい、ノリシュ」
「うん」
ノリシュの額を汗が伝う。
杖を前にかざし、ノリシュは集中していた。
「あと少し。あと少しだけ待って」
「分かった」
レイドーは頷く。
「モルドのことは気にしないで。君は自分の仕事に集中してくれ」
またモルドの突撃が空を切った。
「ははっ」
ネルソンは笑う。
「分かってきたぜ、化け物。お前の攻撃は単調だ」
そう言いながら、ネルソンがモルドの目の前で足を止める。
「ネルソン!」
レイドーが思わず叫び声を上げる。
それほどに無謀な行為だった。
次の瞬間、モルドの鋭い一撃が地面を抉った。
だが、ネルソンは軽やかにそれをかわして走り出していた。
と思うとまた止まる。
そのすぐ横に、モルドの前脚が炸裂した。
「ほら、な」
ネルソンは涼しい顔で笑う。
「当たらねえだろ」
それは、人一倍野性的な感性の鋭いネルソンだからこそなせる業なのか。それとも本来彼の持っていたそちらの方面の才能が一気に開花したものか。
まるで魔獣をからかうかのように、ネルソンはその周囲を跳ね回った。
魔獣は前脚を振るい、時には突進を繰り出すが、ネルソンはその攻撃がまるで予測できるかのようにひらりひらりとかわす。
「今度はこっちからくれてやるぜ」
やがて、魔獣の後ろに回り込んだネルソンは杖を突き出した。
「どーん!」
ここまで接近した背後からの魔法では、咆哮で打ち消すこともできなかった。背中をざくりと斬られた魔獣が怒りのうめき声を上げる。
「すごい」
レイドーは素直に称賛した。
「さすがネルソンだ。これなら一人でモルドを倒してしまうかもしれない」
「へへっ」
ネルソンは、牙を剥き出して振り向いた魔獣から距離を取ろうとする。
だがその瞬間、周囲にざわりと悪意のようなものが満ちた。
突如、ネルソンの足に草がきつく絡みつく。
「あっ!?」
声を上げてつまずきかけたネルソンを、モルドの前脚の一撃が襲った。
よける暇のあるはずがない。
鈍い音とともに、ネルソンは吹っ飛んだ。
「ネルソン!」
レイドーが叫ぶ。
「来るな、レイドー」
ネルソンは立ち上がった。
小さく咳き込んで、口から流れた血を拭う。
「大丈夫だ。まだ動ける」
光の衣の術が、ネルソンを致命傷から救っていた。
「くそ、急に草が絡みつきやがった。これはモルドじゃねえ。あいつだろ」
「プーティの妨害だね」
レイドーもその冷静な口調に怒りを滲ませる。
「汚いぞ、白のプーティ!」
レイドーの叫びに、プーティの嘲るような声が答えた。
「さて。何のことかな」
声だけで、その姿は見えない。
「姿を隠して、人の足を引っ張る。それがあなたの正義なのか」
「何を言っているのか分からぬ。汝らを淘汰しようという世界そのものの意志ではないのかね」
プーティは低く笑った。レイドーは歯軋りする。
声の聞こえてくる方向も、魔法で巧妙に隠しているのか、はっきりしなかった。
「ほら。魔獣が動くぞ」
プーティの言葉通り、再びモルドがネルソンに狙いをつけていた。
「ちっ」
ネルソンは杖を構える。
モルドの攻撃は読める。だが、プーティの妨害がいつ入るのか分からない。そして、致命傷ではないとはいえ、かなりの傷を負ってしまった。
ローブの内側が血でじわりと湿ってくるのが分かる。
まあ、仕方ねえ。
ネルソンは口元を緩める。
前に出るってのは、そういうことだ。
人よりも前に出りゃ、傷つくし嫌な思いもする。
そんなのは当たり前だ。
そういうこと全部吞み込んで、俺はそれでも前に出るんだ。
モルドの身体をまた薄い靄が包む。
ネルソンが与えた傷が、たちまち癒えていく。
「汚ねえな、治すのかよ」
「ふん」
姿の見えないプーティが鼻で笑う。
「余計なことに気を取られるな。減点1」
「ああ?」
次の瞬間、モルドが地面を蹴った。
ネルソンを襲う、モルドの死の突進。
前だ。
無意識にまで徹底したその信念が、考えるよりも先にネルソンの身体を動かした。
ネルソンはモルドに突っ込むようにして、自らも前に飛び出していた。
ぶつかる直前、身体を捻りながら腕を伸ばし、モルドの前脚に杖を押し付ける。
プーティの白い靄の、さらに内側。身体に直接杖を当てる。
「どーん!!」
交差するようにモルドとすれ違い、ネルソンは魔獣の風圧で地面に転がった。
だが、突進をかわされたモルドはそのまま木に激突して怒りの叫び声を上げた。
モルドが止まれなかった理由は明白だった。
地面に血がぼたぼたと落ちる。その前脚が一本、すぱりと切断されていた。
ネルソンの、ゼロ距離からの風切りの術。
直に魔獣に触れられては、その身体を包む靄でも防ぎようがなかった。
「なに」
プーティの驚いた声。
次の瞬間。
一陣の風。
ノリシュが駆け出していた。
ネルソンとモルドのいる方向とは、まるで逆に。
モルドの前脚が切り飛ばされたとき、はっきりと風が乱れた。
ネルソンが魔獣と対峙している間、ノリシュはずっと周囲に微かな風を送り続けていた。
全神経を集中してその風の動きを感じていた。
レイドーに頼まれた、ノリシュの役割。
それは、姿を消しているプーティの居場所を炙り出すこと。
あいつの決めたルールになんて従う必要はない。
倒すのは魔獣じゃない。
あいつ自身だ。
レイドーはノリシュにそう囁いた。
そしてその期待通り、プーティも認めたノリシュの鋭敏な感覚は、風の一瞬の乱れを見逃さなかった。
「そこぉ!」
全力疾走で勢いをつけたノリシュが思いきり腕を振る。
「がっ」
鈍い音とうめき声。
よろめく白のローブの男。
「やっと姿を見せたね」
レイドーがにやりと笑う。
思いもよらぬ一撃を受け、白のプーティが姿を現した。




