魔獣
「おい、レイドー」
ネルソンが眉をひそめて、自分の肩を抱くレイドーに囁く。
「いい加減なこと言うなよ。俺が最も正しき生徒だって? はったりにしても言いすぎだろ」
「少なくとも僕はそう思ってるよ」
レイドーはさらりと答える。
「ネルソンの正しさがあの白のプーティの屁理屈に劣るものだなんて、僕にはとても思えないからね」
「俺の正しさって何だよ」
そう言ってなおも躊躇うネルソンにレイドーは問いかける。
「じゃあ君はあいつの言う正義が正しいと思うかい?」
「いや」
間髪入れず、ネルソンは断定した。
「それはねえな。どこがどうとかは俺にはうまく言えねえけど、あいつの言う正義は違う」
「それだけ分かってれば十分さ」
レイドーはそう言うと、口元にいつもの彼らしくない、けれど職人の息子らしい粗野な笑いを浮かべた。
「さあ、あんな正義漢ぶったくそ野郎、ぶっ潰してやろう」
「お前」
ネルソンは呆れた顔をする。
「普段は物静かな顔してるくせに、こういう時に言うことは俺よりよっぽど過激なんだからよ」
「そうかい?」
レイドーはもう穏やかな笑みを浮かべていた。
「ネルソン」
その声に、ネルソンは振り返る。ノリシュだった。
レイドーがそっとネルソンから離れると、今度はノリシュがネルソンの肩に手を乗せた。
「おう、ノリシュ」
ネルソンはその手を軽く叩く。
「大丈夫か」
「ええ、平気よ」
ノリシュは言った。
「私も、レイドーと同じ意見だわ」
「あ?」
「うちのクラスで一番正しいのは、あんただと思う」
「お前までそんなこと」
ネルソンは反射的に否定しかけて、辛そうな顔でそれでも自分を真っ直ぐに見るノリシュの表情を見て言葉を止めた。
「……俺が、正しいって?」
「そうよ」
ノリシュは頷く。
「誰よりも間違うのもあんただけど、誰よりも正しいのもあんただもの。私もそう思う」
「間違うのに正しいとか」
ネルソンは困惑した顔で頭を掻いた。
「それっていいのかよ。俺はばかだから、うまく言えねえけど、何だかおかしくねえか」
「おかしくない」
ノリシュは首を振る。
「さっきも言ったでしょ。考える必要はないって」
そう言うと、ノリシュはネルソンの肩に置いていた手を上げて彼の頬に触れた。
「難しいことなんか考えることないの。間違うこともいっぱいある。でも、あんたはいつも正しい方向を向いてる」
ノリシュは微笑んだ。
「それだけは、私が保証する」
「……ノリシュ」
ネルソンが呟いた次の瞬間、周囲の空気が大きく震えた。
「あっ」
悲鳴を上げてノリシュがうずくまる。
「ノリシュ!」
ネルソンがノリシュの肩を掴む。
「しっかりしろ」
だが、今度はノリシュは顔を上げなかった。
「耳が」
弱々しい声でそう呟く。
「終わりが迫っているのでな。周囲が不安定になっている」
三人のやり取りを黙って見ていたプーティが、静かにそう言って笑った。
「意見のすり合わせは終わったかな」
「てめえ」
ネルソンが怒りの目を向ける。プーティは涼しい顔でそれを受け止めた。
「だが、すり合わせの必要な正義など、もはや語るに落ちるというものだがな」
「言いたいことはそれだけかい、白のプーティ」
レイドーがノリシュとネルソンを庇うように前に出た。
「ネルソンの正義がどんなものか、試してみればいいさ。さっきまでのような卑怯な方法で測れるものならね」
「挑発はうまい」
プーティは真っ白い目を細めてレイドーを見る。
「汝のそれは能力として認めよう」
そう言うと、プーティは両腕を上げた。
その姿が再びかき消すように見えなくなる。
代わりにそこに現れたものを見て、三人は目を見張った。
それは、巨大な黒い魔獣だった。
「図鑑で見たことあるぞ」
ネルソンが叫ぶ。
鋭い牙と爪。しなやかな四肢を持つ、黒い毛皮のその魔獣の名は。
「確か、モルド」
「でもこんなに大きいはずはないね」
レイドーが冷静に呟く。彼の言葉通り、現れた魔獣モルドは通常のものをはるかに凌ぐ、見上げるような巨躯を持っていた。
「プーティの作った紛い物だろうね」
「それでも、危ないわ」
立ち上がったノリシュがそう言って二人の肩を後ろに引っ張る。
「崖から離れましょう」
「大丈夫なのか、ノリシュ」
「ええ」
ノリシュは頷く。その髪が風で小さく揺れた。
「自分の耳の周りに風を吹かせてるの。それでずいぶん楽になったわ」
「なるほどな」
「さすが」
ネルソンが頷き、レイドーが微笑む。
「ノリシュはやっぱり風の魔法の名手だね」
「うずくまってなんていられないもの」
ノリシュはそう言って魔獣を睨んだ。
「戦うわ」
「さて、準備はいいかね」
どこからか、プーティの声が響いた。
「第三者に対する汝らの正義はもう見せてもらった。だが、最も正義が問われるのは自分たちの身に危険が迫ったときだ」
プーティの声は相変わらず平板だったが、そこに微かに嗜虐的な感情が混じっているようにも聞こえた。
「始めたまえ」
その声と同時に、魔獣モルドが吼えた。
周囲の空気までびりびりと震わせるほどの野性の威圧感。
「ほら、レイドーが煽るから」
ネルソンが言った。
「あの白目野郎、怒っちまったぜ」
「よく言うよ、ネルソン」
レイドーは涼しい顔で答える。
「僕が言わなかったら、どうせ君がやってただろ?」
「まあな」
ネルソンも口元を緩める。
「俺の場合は口じゃなくて手しか出ねえけどよ」
「さあ、軽口はそこまでよ」
ノリシュが言う。
「あいつをどうにかしないと」
「そうだね」
レイドーが頷く。
「それで、ノリシュ。君に頼みがあるんだ」
「ええ、何でも言って」
頷いたノリシュは、囁かれたレイドーの言葉に目を見開いた。
「そんなことしていいの?」
「いいさ」
レイドーは笑う。
「できるかしら」
「大丈夫。失敗したって僕らにはネルソンがいる」
「おい、俺にあんまり期待しすぎんなよ」
ネルソンがモルドから目を離さずに言った。
「まあ、難しいことはお前らに任せる。あいつとの戦いなら俺に任せとけ」




