救出
少し走った茂みの裏は、息を呑むほどの高い崖になっていた。
崖のきわの縁に、幼い少年がうずくまっていた。
「どうした、大丈夫か」
ネルソンが駆け寄りながら声をかけると、振り返った少年は苦しそうな真っ赤な顔を少し緩めた。
「ああ、よかった。人が来てくれた」
安心したように、少年は言った。
「大丈夫よ、三人いるわよ」
励ますようにノリシュがそう言って、ネルソンとともに少年に近付く。
「立てないの? どこか怪我をした? ……あっ」
少年がそこに屈みこんでいる理由に気付いたノリシュが絶句した。
「うっ」
ネルソンも思わず声を上げて足を止める。
「どうしたんだい」
二人の背後から近づいたレイドーも、少年の手元を覗き込んで息を呑んだ。
少年は、腕を伸ばして崖から落ちそうになっている誰かを助けようとしていた。
その誰かが、たとえば少年の仲間の子供であったなら、ネルソンもノリシュもためらうことなく手を貸しただろう。
だが、少年が手で掴んで崖から引き上げようとしているのは。
それは、見たことのない醜い怪物だった。
体つきは少年とさほど変わらないが、四つの奇怪な目、大きく裂けた口から覗くギザギザの牙、全身を覆う鱗と、そのはげかけた隙間に見えるぶよぶよとした粘質の皮膚。
しゅうしゅう、という吐息。
魔術師であれば、分かる。闇とまでは言わないが、邪悪な雰囲気をまとっていた。
どう見ても、人間と相容れる存在のようには見えなかった。
「僕の友達を引き上げたいんだ」
三人の動揺も気にせず、少年は言った。
「お兄ちゃんたち、手を貸して」
「友達」
その言葉に、ノリシュがおずおずと少年を見る。
「友達なの、あなたの」
「そうだよ」
少年は苦しそうに頷く。
「僕の大事な友達だ」
「あなたを襲ったりしないの」
「何言ってるんだ。そんなことするわけないじゃないか」
その言葉に呼応するように、怪物が口を開けた。涎が糸を引き、牙ががちがちと鳴る。
躊躇するノリシュの横で、ネルソンが少年の横にしゃがみこんだ。
「助けるぞ、ノリシュ、レイドー」
「ネルソン」
「ありがとう、お兄ちゃん」
困惑したノリシュの声に構わず、ネルソンは腕を伸ばして怪物の腕を握る。
「見た目はあれだが、いい奴かもしれねえ。友達って言ってるなら、とりあえずは助ける」
ネルソンはきっぱりと言った。
「手伝ってくれ、二人とも」
「……分かったわ」
「ああ」
ノリシュとレイドーも怪物の腕を掴む。
体格のわりに怪物は重かったが、それでも四人の力で、難なく崖の上に引き上げることができた。
「ああ、よかった」
少年が汗まみれの顔を綻ばせた。
「ありがとう、お兄ちゃんたち」
「いや、なんてことねえよ」
ネルソンが快活な笑顔を見せた時だった。
助け上げられたばかりの怪物が動いた。
牙がぎらりと光る。怪物は少年の首元に飛びかかった。
「危ないっ」
叫んで、ノリシュが杖を突き出した。
ネルソンがとっさに少年の身体を引き寄せる。
牙がかすめて、少年の首から赤い血が舞った。
ノリシュの得意とする風の魔法をまともに受けて、怪物の身体が宙を泳ぐ。
「ああっ」
少年が絶望的な声を上げた。
怪物が吹き飛ばされた先に、地面はなかった。
空中をもがくようにして、怪物は崖下へと落ちていった。
ネルソンもレイドーも、とっさのことにどうすることもできなかった。
「僕の友達を」
少年は叫んだ。
「どうして」
「ごめんなさい」
ノリシュは青い顔で呟く。
「強い魔法じゃないと、間に合わなかった」
「あいつ、お前を食おうとしたんだぞ。首を怪我しただろ」
ネルソンが言うが、少年は首を振る。その拍子に、赤い血がまた首から舞った。
「そんなことないよ。僕の友達を、どうして崖に落としたの」
少年はノリシュに掴みかかった。
「せっかく助けてあげられたのに。返してよ」
「しっかりしろ。あいつは友達じゃねえ、化け物だ」
ネルソンが少年の肩を掴んでノリシュから引き離そうとするが、少年は全身の力でそれに抵抗した。
「そんなことない! 僕の友達だ!」
少年に掴まれたまま、ノリシュは唇を噛む。
「返してよ!」
「ごめんなさい。でも、あなたを救うためには」
ノリシュが、もう一度そう言いかけたときだった。
不意に少年の姿が消えた。
「減点3」
その声とともに、純白のローブの男がゆっくりと崖下から浮き上がってきた。
「てめえ」
ネルソンが杖を突き出す。
「出やがったな。何が減点だ」
「まずは、汝」
白のプーティは、ネルソンを指差す。
「事情も分からぬまま、怪物を救い上げた。どう見ても、人に害をなすものにしか見えぬのに」
「だけどあいつは、あの怪物を自分の友達だと言ったんだ」
ネルソンは言った。
「だから、俺はそれを信じた」
「初めて出会った者の言葉を、信じるも何もあるまい」
プーティは鼻で笑った。
「信じるという行為は、それなりの関係があって初めてできることだ。汝のように会ったばかりの者の言葉に簡単に乗せられることを、信じるとは言わぬ。それは、流されただけだ」
「そんなのはお前の理屈だろうが」
ネルソンは首を振る。
「お前の言うことは、これっぽっちも俺の心に響かねえ。お前の言葉は、イルミス先生が授業で言ってくれた言葉とか、劇の前にアルマークが俺に言ってくれた言葉とは違う」
「響かぬのは、正しさを理解しておらぬからよ」
プーティは肩をすくめる。
「感情のみに動かされる獣と変わらぬ。減点1」
プーティはそう言うと、次にノリシュを指差した。
「次は、汝だ」
その言葉に、ノリシュは涙をためた目でプーティを見る。
「汝は今回も、怪物を助け上げることをためらった。その判断は正しかったであろうに、結局は仲間に流された」
「流されたわけじゃないわ」
ノリシュは首を振る。
「ネルソンの言うことが、正しいと思った。まずは助けて、もし危険だったらその時に対処すればいいと思った」
「その結果が、あれか」
プーティは崖の下を見た。
「怪物を友達と信じる子供の目の前で、怪物を崖に突き落とした」
「それは」
ノリシュの瞳が揺れる。
「とっさに、間に合わなかった」
「使える魔法はほかにいくらでもあったはずだ」
プーティは追及を緩めない。
「怪物の動きを封じるだけで良かった。こんな崖の近くであのような強い魔法を使う必要はなかった。もっと言えば、最初に怪物を引き上げるときに、魔法の網にでも包んでしまえばよかったのだ」
プーティは白い瞳で、冷たくノリシュを見据えた。
「甘い認識が、悲劇につながったのだ。これは汝が引き起こしたことだ。減点1」
ノリシュの目から、ぽろりと涙がこぼれる。
「おい、てめえ」
ネルソンが低い声を発した。
「さっきからお前が言ってるのは全部、後付けの結果論じゃねえか。俺たちはその場その場で最善を尽くそうとしたんだ」
「頑張れば、それでよいのか」
プーティは唇の端を吊り上げる。そうすると、ひどく冷酷で辛辣な表情に見えた。
「経過に意味などない。残るのは結果だ」
「好きじゃねえ」
ネルソンは吐き捨てるように言った。
「嫌いだ。お前の考え方は」
「正義とは、好きとか嫌いで語るものではない」
プーティは冷たくそう言い放つと、最後にレイドーを指差した。
「最後に、汝。汝は今回もほとんど何もしなかった」
そう言うと、蔑むような目でレイドーを見る。
「責任を持たぬ、卑劣な傍観。仲間に流されるだけの無能。減点1」
プーティが、減点1、と口にするたび、森がざわざわと揺れた。そのたびに、周囲を包む目に見えない息苦しさのようなものが深くなる。
「白のプーティ」
レイドーは言った。
「いや、サーキス」
その名に、プーティが怪訝な顔をして眉を上げる。
「何だ、その名は」
「僕の兄の名さ。ちょうど、あなたにそっくりなね」
レイドーは答えた。
「さっき、あなたは傍観と言ったね」
そう言って、レイドーはプーティを見返す。
「違うな。傍観じゃない」
その穏やかな表情に、ちらりと彼の素顔が覗いた。
「僕は、観察していたんだ」




