見知らぬ森
森全体が、ざわざわと揺れている気がする。
けれど、ほとんど音はしない。
いつもなら聞こえるはずの鳥の声も、獣の鳴き声も、まるでない。
ただ、木の葉擦れの音だけが微かに聞こえるだけだ。
得体の知れぬ危険を孕んだかのように、周囲を不穏な空気が包んでいた。
慣れ親しんだはずの森は、いまやまるで見知らぬ世界のようになってしまっていた。
「道、どっちだったっけ」
セーダが、泣きそうな声を出した。
「私、分かんなくなっちゃった」
その惨めったらしい声が、クコを苛立たせた。
「あなたがこっちだって言ったんじゃない」
クコはそう言ってセーダを睨んだ。
「何よ、いまさら分かんなくなったって」
「さっきはこっちの気がしたんだけど……」
セーダの声が萎む。
「でも、なんだか、こんなところ見覚えがない気がして」
「そんなに深いところまで入ったわけじゃないのよ、私たち」
クコは自分たち二人を囲む木々を見上げた。
「ここだって何度も通ったことのある道に決まってるわ」
しかし、そう言いながらもクコの視線も木々の上をさまよった。
知っている気がする。けれど、まるで知らない気もする。
「そんなはずはないのよ」
クコは自分に言い聞かせるように言った。
「ここは、いつもの森なんだから」
卒業試験最終日の午後。
最後の試験のために森へ入ったクコたち初等部2年生に、突然不慮の事態が襲った。
森に魔物が現れたのだ。
ペアを組んで歩いていたクコとセーダの女子二人組は、最初、教師からの風に乗せた警告でそのことを知った。
森に魔物が出た。1年生から救出していくので、出口に近いところにいる2年生は自力で森から出ること。出口から遠いところにいる2年生はその場から動かず、教師の助けを待ちなさい。
そんな内容だった。
クコたちのいる場所は、まあ出口から遠いと言えば遠いところだったので、落ち着いてその場で教師を待てばよかったのだ。
だが、魔物が出た、と聞いてすっかり怯えて取り乱したセーダが、茂みが揺れた拍子に大きな悲鳴を上げて駆け出した。
それで、クコも驚いてしまって慌ててセーダを追いかけた。
今にして思えば、あんなのは硬い木の実でも落ちた音か何かだったのだ。だが、セーダの悲鳴で冷静な判断ができなかった。
走り出すと、何だか魔物にすぐ後ろから追いかけられているような気がしてきて、足を止める勇気がなくて二人は闇雲に森の中を走った。
それで、気が付くとこんな場所にいた。
見たことがあるような、ないような、中途半端な場所。
密集する木々のせいで、目印になる岩場や巨木を見付けることができない。
最初に悲鳴を上げて駆け出したセーダが責任を感じたのか、この道は知っている、と言って歩き出した。
それで、クコも彼女についてきたのだが、ずいぶん歩いてから振り返ったセーダは、泣きそうな顔をして言ったのだ。
分かんなくなっちゃった、と。
「ああ、もう」
クコは大きなため息をついて、近くの石に腰を下ろした。
「もういいわ。ここで先生たちが来るのを待ちましょう」
「う、うん」
頷いたセーダが、おずおずとクコの隣に腰を下ろす。
クコはそちらを見もせずに、自分の水筒を開けて中の水を飲んだ。
水を喉に流し込むときに、自然と顔が上を向く。
それで、木々の間から覗く青い空が目に入った。
まだ、日はあんなにも高い。
大丈夫だ。こんなに明るいのに、魔物が活発に動くわけがない。
クコは自分に言い聞かせた。
大丈夫に決まってる。すぐに先生が来てくれる。
「そういえば」
遠慮がちにセーダが言った。
「夏くらいに、1年生の男の子が森で魔物にさらわれかけたんだよね。あれも、これくらいの時間だったよね」
何だ、この子。
クコは信じられないものを見る目でセーダを見た。
何で、今、そんなことを言うのだ。
よりによって、こんな状況、こんな場所で。
それを今言ったからといってどうなるというのだ。
クコも、もちろんその話は耳にしていた。そのせいで、しばらくの間は森が立ち入り禁止になったのだ。忘れるわけがない。
確か、3年生の男子二人が魔物を追いかけて1年生を助けたんだと聞いた。
ずいぶんと無茶をする、とクコは呆れたものだ。
そんなことをしないで、さっさと先生に伝えればよかったのに。
「怖いな。魔物が出たらどうしよう」
セーダが言った。
「クコ。あなたは怖くないの?」
怖いに決まってる。
「怖くなんかないわよ」
クコはぴしゃりと言った。
「こんなに明るいのに。あなたは怖いの? ばかみたい」
そう言われて、セーダは安心するどころかまた泣きそうな顔をした。
クコはもうそちらを見ることもやめた。
早く先生が来てくれないか。もうこの際、向こう見ずな3年生男子の二人組でもいい。
とにかく誰か助けが来てくれれば。クコはそれだけを考えることにした。
不意に、がさり、と茂みが動いた。
クコは目だけでそちらを見たが、茂みからは何も飛び出してくる気配はなかった。
何も見ない。聞こえない。
「……ねえ」
セーダが震える声で言った。
「今、あそこの茂み、揺れたよね」
「揺れてない」
「うそ」
セーダは首を振る。
「揺れたよ」
気弱なくせに、変なところで頑固だ。
面倒な子。
「揺れたから、どうだっていうの」
クコは言った。
「気になるならあなたが見てくればいいじゃない」
「嫌だよ」
セーダは首を振る。
「だって、もし魔物だったら」
「もし魔物だったとしたら、それこそ、こんなところにのんびり座ってたら」
食べられちゃうじゃない。早く逃げないと。そう言おうとしたが、また茂みががさりと揺れた。
今度は、嫌な揺れ方だった。
それはクコにも分かった。
「行こう」
そう言って、クコは立ち上がった。
セーダの返事を待たず、揺れた茂みとは逆方向に歩きだす。
「あ、待ってよ。クコ」
慌てて追いかけようとしたセーダが木の根っこにつまずいて転んだ。
「いたっ」
「もう」
何してるの、と言おうとして、クコは固まった。
セーダの背後の茂み。
そこから、単眼の小鬼が醜悪な顔を覗かせていた。
「ひっ」
息を呑んだクコの表情に、状況を察したセーダが後ろを振り返り、それから大きな悲鳴を上げた。
悲鳴は小鬼にとっては、格好の獲物がいることを示す合図でしかなかった。
牙の覗く口を歪め、小鬼はゆっくりと歩み寄ってきた。長い爪が、異様だった。
「あ、ああ」
セーダが地面を這って逃げようとするが、震えていて身体がうまく動かない。
「何やってるの、急いで」
クコも震えた声でそう言うが、セーダは立ち上がれないようだった。
小鬼が迫る。
「セーダ!」
クコは叫んだ。
「助けて。助けて、クコ」
セーダが必死の形相で叫ぶが、クコの身体も動かない。セーダの背後に迫ってくる小鬼を見ていることしかできない。
「立って」
クコは叫んだ。
「セーダ、早く」
「助けて」
立ち上がることもできずにセーダが叫ぶ。
その時だった。
クコの背後から、何かが飛んだ。
それは、石つぶてだった。
勢いよく飛んだ石は、小鬼の単眼に直撃した。
「ぐが」
小鬼が目を押さえてうずくまる。
「よく当たったな」
そう言いながら、クコの横を誰かが駆け抜けていく。
「しっかりしろ。逃げるぞ」
そう言いながらセーダを助け起こし、その背中を叩いたのは、クコたちと同じローブをまとった少年だった。
「ほら、自分で立て」
少年はそう言ってセーダを立たせると、クコを見る。
「お前も逃げるぞ。こっちだ」
その顔に見覚えがあった。
同じ2年生だ。
クコが頷くと、少年はセーダの手を引いて駆け出した。
現金なもので、男の子に手を引かれるとセーダは元気に走った。
しばらく走ったところで、少年は不意に方向を変えた。
「こっちはだめだ。向こうから行く」
まるで、魔物の場所が分かってでもいるかのように、少年はクコとセーダを連れて森の中を走った。
気が付くと、三人はいつの間にか見覚えのある森の出口近くの道に出ていた。
「ここならもう分かる」
セーダが嬉しそうな声を上げる。
「あなた」
ようやく足を緩め、セーダの手を離した少年に、息を弾ませながらクコは言った。
「ラドマール。ラドマール・トレイホルムね」
「ああ」
少年はぶっきらぼうに頷く。
「よく知ってるな、僕の名前など」
「ええ。まあ」
クコが少年の名を知っていたのは、決して良い理由からではなかった。
中原の小国の王族の少年。
気位ばかりが高く、実力はまるで追いついていない。
偉そうに振る舞っているくせに、魔法も勉強も運動も、全部からっきし。
クコが聞いたことのある少年についての噂は全てそんな感じだった。
事実、魔術祭の初日に見た彼のダンスはひどいものだった。
だが、今目の前にいる不愛想な少年は、魔物の徘徊する森の中で、奇妙なほど落ち着いていた。
「どうして、そんなに落ち着いてるの」
クコが尋ねると、ラドマールは少し嫌な顔をした。
「初めてじゃないからだ」
ラドマールはそう答えた。
「これに近い経験をしたことがある」
それ以上は何も言うつもりのない様子のラドマールに、クコはふと疑問に思ったことを尋ねた。
「そういえばあなた一人なのね。あなたのペアは?」
「ペアを組んだやつなら、先に森を出た。僕はお前らの魔力が遠ざかっておかしな方向へ行くのを感じたから、追いかけてきた」
「私たちの魔力って」
クコは目を見張る。
そんな遠くの魔力を感じて追いかけてくるなんて高度なことが、まだ2年生の、それも落ちこぼれ寸前の少年にできるとはとても思えなかった。
「魔物が出たからといって取り乱すのは無様だぞ。お前らも魔術師の端くれなら、ありのままを見て、落ち着いて行動することだな」
ラドマールはそう言って、ふん、と鼻を鳴らした。
クコがむっとして言い返そうとしたとき、セーダがはしゃいだ声を上げた。
「ああ、森の出口よ。見て、みんなもいる」
急に元気に走り出したセーダの背中を呆れて見送り、クコは気を取り直して隣の赤毛の少年を見た。
「助けてくれてありがとう、ラドマール。私はクコ」
「知っている」
ラドマールは頷く。
「クコ・カサラーナン。僕も同じ中原の出だからな」
「あら、そう」
クコはラドマールの不愛想な顔を覗き込んだ。
「私の聞いた噂と、あなたはずいぶんイメージが違うわ。今度、放課後にでもゆっくりお話ししましょう」
「補習がなければな」
ラドマールは答えた。
「補習? あなた、補習を受けてるの?」
不思議そうにそう言ったクコに、ラドマールは何も答えなかった。首を傾げたクコは、もう一度ラドマールにお礼を言うと、セーダの後を追いかけた。
「セーダ! ちょっと待ちなさい!」
それを見送り、ラドマールはちらりと森を振り返った。
「道は、身体が覚えていた」
誰に言うでもなく、ラドマールは呟く。
悔しいが、アルマークの言った通りだった。頭ではなく身体が、皮膚の感覚で道を覚えていた。
それが、命を懸けたということの証なのかもしれない。
闇はもう身体に残っていないと、セリア先生も言っていたのにな。
ラドマールは自分の感覚に戸惑ってもいた。
まだ魔物の場所が分かるとは思わなかった。
夜の薬草狩りの日。闇を体内に取り込んだ代償として、ラドマールは一時的に闇を感じ取る力を得た。
だが、闇払いの薬湯による辛い治療を経て、その力も消えたと思っていたのだが。
なぜかまだ残るその力は、今は恐ろしく禍々しい闇の力を講堂の方角から感じ取っていた。
そこは、アルマークたち3年生の集まっている場所。
その意味が、ラドマールにも分かった。
「あいつのことだ。どうせ、どうにかしてしまうんだろうが」
ラドマールは呟いた。
「こんなところで負けるんじゃないぞ。アルマーク」




