ポロイス
「すまない、待たせたな」
そう言いながら歩み寄ってきたポロイスの表情を見て、アスルが目を細めた。
「覚悟は決まったという顔をしているな」
「ああ」
ポロイスは頷いてアスルの前に立つと、審判の猿に目を向ける。
「すまない、審判。一つ頼みがある」
「なんダ」
「勝負をするにあたって、大事なことをするのを忘れていた。もう勝負は始まってしまったが、やらせてもらえないか」
「大事なこト」
猿はじろりとポロイスを見る。
「それはなんダ」
「名乗りだ」
ポロイスは答えた。
「我がガライ王国の貴族は、決闘に際して対戦相手に対し、正式に名乗りを上げる。僕としたことが、それを忘れていた」
「ここはそのなんとか王国ではなイ」
猿は言った。
「だからそのしきたりに従う必要はなイ」
そう言ってから、アスルに顔を向ける。
「だがまア、対戦相手の承諾があれば認めよウ」
「我は構わぬ」
アスルは鷹揚に頷いた。
「名乗りを上げることで汝の士気が高まり、面白い勝負になるのであれば、好きにするが良い」
「だそうダ」
猿はポロイスを見て顎をしゃくった。
「やってもいいゾ」
「感謝する」
そう言うと、ポロイスは一歩後ろに下がった。
その真剣な表情に、アスルは薄く笑って居住まいを正す。
ポロイスは左手を腰に当て、右手に持つ剣をゆっくりと左肩まで振りかぶった。
「ポロイスのやつ」
キリーブが目を見張る。
「正気か。この期に及んで名乗りを上げようとしてるぞ」
「いいじゃねえか」
コルエンが楽しそうに笑う。
「一生懸命叩いてんだ。自分の殻を、内側から」
「は?」
キリーブはコルエンを睨む。
「何を言ってるんだ、お前は。ついに狂ったか」
「分からなきゃいいよ」
コルエンは笑う。
「黙って見とけ」
ポロイスが剣を振り下ろした。
鋭い風切り音。
その切っ先がぴたりとアスルを捉える。
「スタウツ家当主メリクが次子、ポロイス!」
ポロイスの声が、静かな森の中に響き渡った。
「いいぞ、ポロイス!」
コルエンが叫ぶ。
「やっちまえ!」
「スタウツ家、か」
剣を下ろしたポロイスを見て、アスルが頷く。
「良き名乗りであった」
それから、猿を振り向く。
「パグフス。我も返してもよいか」
「好きニ」
猿は片手を上げて応じる。
「それでは」
アスルは剣を天に突き上げた。
その瞬間、轟音とともに青い光が剣から天に噴き上がった。
「うお」
「ひっ」
コルエンとキリーブも思わず声を上げる。
「青のアスルだ」
アスルは言った。
「楽しき勝負をしようぞ」
ポロイスの背中を冷たい汗が流れる。
名乗りの瞬間、ごく一瞬とはいえアスルの身体を駆け巡った魔力の巨大さ。
剣から放たれた光など、その一端に過ぎないことが彼にも分かった。
「望むところ」
だが、ポロイスはそう答えた。
「よシ、名乗りは終わりダ」
猿が両腕を頭上で交差する。
「剣を合わせテ」
アスルとポロイスは同時に剣を上げた。
二振りの剣が交差するのを見届けて、猿が声を上げた。
「はじメ」
ポロイスはその声と同時に後ろに飛びずさった。
それを見たアスルがわずかに顔を曇らせる。
「ほら、やっぱり」
キリーブが失望を口に出す。
「また下がった。結局は怖気づいてるんじゃないか」
「あいつは、貴族としてのプライドの高さじゃこの学院の誰にも負けねえ」
コルエンは答えた。
「お前だって知ってるだろ、キリーブ」
「知ってるとも」
キリーブは頷く。
「あいつはそういうところが面白いがたまに厄介だ。だから、なんだ」
「だから、貴族として名乗りを上げたあいつが下がるとしたら、それは怖気づいたからじゃねえ」
じりじりと下がっていたポロイスが、アスルとの距離が十分に開いたところで足を止めた。
剣を中段に構える。
「それは」
コルエンは言った。
「助走をつけるためだ」
ポロイスの脚が、大地を蹴った。
剣を構えたまま、ポロイスは駆けた。アスルに向かって、真一文字に。
無謀な突貫。
誰の目にもそう見えた。
「汝の勇気とは、無謀のことか」
アスルは腰を落とした。
「ならば、一太刀にて応えん」
ポロイスが走る。その勢いのまま、アスルに剣を突き出そうとする。
だが、体格の差。技量の差。アスルの剣の方が速く、長かった。
アスルが剣を振り抜く。
駆け寄ってくるポロイスの胸当てごと身体を両断しそうな勢いの一撃。
鈍い音とともに、アスルの剣が弾かれた。
「不可視の」
キリーブが目を見開く。
ポロイスが己の前面に展開していたのは、不可視の盾。
アスルの一刀でそれが砕け散るのと同時に、ポロイスが剣を突き出した。
「むうっ」
アスルが身をよじってそれをかわす。
剣は鎧の表面を滑って、耳障りな音を出した。
その勢いのまま、ポロイスは駆け抜けて再びアスルとの間合いを取る。
「当たったぞ!」
キリーブが声を上げる。
「おい、審判! 今ポロイスの剣が当たったぞ!」
「よせ」
コルエンがそれを制止する。
「かすっただけだ」
「当たっていなイ」
猿は答えた。
「審判の裁定に口を出すナ。次に同じことをしたら退場させるゾ」
「退場だと?」
キリーブは鼻を鳴らした。
「どこからだ」
「この世からダ」
猿の答えに、キリーブは顔を引きつらせて口を閉ざす。
「良い攻撃だった」
アスルは、自分に向き直ったポロイスにそう声をかけた。
「もう少しで胴を打たれるところであった」
それに答えず、ポロイスは再び剣を構えた。
「先に言っておく」
アスルは言った。
「二度、同じ手は食わぬぞ」
そんなことは、分かっている。
ポロイスはアスルに向かって駆け出した。
アスルは、受ける気でいる。
斬り合いの経験のない自分が受けに回ってしまえば、万に一つも勝機がないことをポロイスは悟っていた。
攻め続けなければならない。
アスルの予想を超える方法で。
アスルの足元の草が伸びて、その身体に巻き付いた。
「おう」
アスルは右腕を振って草を引きちぎるが、草は意思を持つようにその身体に絡みつく。
まだだ。そこにいろ。
ポロイスは走りながら光の矢を立て続けに放った。
アスルはよけようともしなかった。
二発の矢が鎧を叩くが、その身体は微動だにしない。
「矢が当たったぞ!」
キリーブが嬉しそうに声を上げるが、コルエンは首を振る。
「剣が当たらなきゃ勝ちじゃねえ。そういうルールだろ」
そこにポロイスが飛びかかった。
草に巻き付かれて体の自由を奪われたアスルの胸目がけて剣を振り下ろす。
だが、アスルは右腕に持つ剣で軽々とそれを受け止めた。
もう一撃打ち込むが、それも簡単にあしらわれる。
「ふむ」
アスルが、巻き付いた草など何の障害でもないかのように一歩踏み出した。
ポロイスは慌てて距離を取る。
「次だ、ポロイス・スタウツ」
アスルは言った。
「我が鎧には、まだ遠いぞ」
それから、そんな攻防が数度繰り返された。
しかし、疲労の色を濃くするポロイスとは裏腹に、アスルの表情は全く変わらなかった。
「良き闘志であった」
霧の魔法と火球による攪乱を織り交ぜたポロイスの渾身の攻撃が空振りに終わると、ついにアスルがそう言ってゆっくり一歩踏み出した。
「先ほどの攻撃が汝の頂点だったように思う。魔力はもはやほとんど残ってはいまい。これ以上のやり取りは不要だ」
ポロイスは肩で息をしながら、それでも汗まみれの顔を歪めて自分の前に不可視の盾を展開した。
「時間稼ぎは無用だ。もはや汝にはわが剣を防ぐ手立てはない」
その言葉にポロイスは答えない。
だが、尽きかけの魔力で作った盾でアスルの攻撃を防げるようにはとても見えなかった。
「ああ」
キリーブが呻く。
「ポロイスが負けてしまうぞ。あれだけ魔法を使ったらもう動くこともできないんじゃないのか。コルエン、乱入しろ」
「黙って見てろ」
腕組みをしたままコルエンは言った。
「まだポロイスはやる気だろうが」
その言葉通り、ポロイスは剣の構えを解かなかった。
だが、走り出そうとした足がふらつき、顔を歪めて足踏みをする。
「心配するな。こちらから行く」
そう言って、アスルが体勢を沈めた。
地面を蹴ったと思ったときには、もう距離を潰していた。
宙を駆けるようにして一瞬で、アスルはポロイスの眼前まで迫っていた。
最初に見せた、アスルの凄まじい脚力。
その勢いのまま、ポロイス目がけて剣を振り上げる。
その瞬間、ポロイスが目を見開いてアスルを見上げた。
歯を食いしばった必死の顔。
だが、その表情に絶望はなかった。そこに浮かんでいたのは、勝利への確信。
「むっ」
それを見たアスルが一瞬、逡巡した。
次の瞬間、アスルの背中に強い衝撃が走る。
「なに」
ポロイスの仲間が乱入したのか、とアスルが目だけで猿を見る。
だが、猿は首を振った。
アスルを背後から撃った稲光の出どころは、地面に転がった杖。
それは一番最初にアスルが真っ二つに切り裂いた、コルエンの杖の切れ端だった。
何度かの攻防を経て、ポロイスはアスルがその杖に背を向けるよう誘導していた。
たくさんの魔法を使い、自分の身を危険に晒しながら、ポロイスは勝利を手繰り寄せようとしていた。
そして放たれた、満を持しての背後からの一撃。
「むうっ」
まんまとポロイスの策に嵌った形となったアスルが、それでも剣を振るった。
だが、無防備に背後から電撃を受けたその一撃には本来の威力はなく、不可視の盾を砕くに留まる。
アスルの胴が、ポロイスの眼前に露わになった。
ポロイスが剣を振り上げる。
その顔に、会心の笑みが浮かんだ。
「いけ、ポロイス!」
コルエンが叫ぶ。
一瞬の静寂。
「ああ」
キリーブが呻いた。
「そんな。コルエン。ポロイスのやつ」
「……見事」
アスルが、ポロイスの胸当てを剣で軽く叩いた。
「そこまデ」
猿の声が響く。
剣を振り上げたまま、ポロイスは意識を失っていた。
「くそ真面目過ぎるんだ、ポロイスは」
コルエンがぽつりと呟いた。
「最後の力も残らねえくらい、全力で自分の殻を破りやがって」




