胸当て
「よシ」
青い体毛の猿がそう声を上げて、アスルの肩から飛び降りた。
「話はついたナ」
「ついてない!」
「胸当てを着けたらここへ来イ」
キリーブの言葉を無視して、猿はすたすたと人間のような動きで歩いていき、木々が開けた場所で振り向いた。
「このあたりがちょうどいいだろウ。足元が動きやすイ」
そう言うと、猿はアスルを見る。
「アスル、それでいいナ」
「構わん」
アスルは鷹揚に頷くと、自分の長衣を脱ぎ捨てた。
長身。
その引き締まった身体を覆う、濃紺の鎧。
「まるで戦士だな」
コルエンが笑った。
「お前、本当に魔術師かよ」
「汝らが魔術師にどのような姿を求めているのかは知らぬが」
アスルは答える。
「魔術師であれば、ときに過酷な戦闘もこなさねばならぬ。たとえ闇との戦いであっても恐れてはいられぬ」
「闇との戦い、だと」
コルエンは鼻で笑う。
「闇の手先がよく言うぜ。ぬけぬけと何を言い出すかと思えば」
「闇の手先とは、心外な言葉だな」
アスルはコルエンをじろりと見た。
「使役する術者本人が闇の手の者であったことをもって、我らを闇の手先と呼ぶことは許さぬ」
「同じことじゃねえか」
コルエンは吐き捨てた。
「闇の魔術師に従ってんだ。闇の手先だろ」
「汝は、相手の考えが間違っていれば、その者の纏う服も、履く靴も、手に持つ杖も、全てが間違っていると考える人間か」
アスルは淡々と言う。
「浅い思慮。幼い考えだ」
「なんだと?」
コルエンは険しい顔でアスルを睨んだ。
「まわりくどいこと言ってんじゃねえ。はっきり言えよ」
「我らは、腕輪の宝玉」
アスルは言った。
「腕輪の使用者に従い、力を発現する。だが使用者がその力をどのように用いるのかは、我らの与り知るところではない」
「お喋りが長イ」
猿が口を挟んだ。
「アスル。久しぶりの戦いニ、はしゃいでいるナ」
「そうかもしれんな」
アスルは認めた。
「確かに喋りすぎた。最初の相手。ポロイスと言ったな」
そう言って、目をコルエンからポロイスに転じる。
「待たせたな。さあ、準備をするがよい」
「望むところ」
ポロイスが気合の入った返事をして、地面に剣を置いた。
勢いよくローブを脱ぎ捨てると、胸当てを着け始めるが、すぐに困惑した表情に変わる。
「……これは」
ポロイスは呟いて手を止めた。
アスルの出した胸当ては、学院の授業で使う武術の防具とはまるで違っていた。
「時代物だな」
コルエンが笑ってポロイスの背中に回る。
「実家の倉庫の奥で似たやつを見たことあるぜ。着けてみようとしたら慌てて止められたんだよな、先祖代々のなんとかとやらで」
そう言って、胸当ての紐を手に取った。
「これは分からねえよな。手伝ってやるよ」
「すまない」
コルエンは複雑に締められた紐をところどころ緩めたり引っ張ったりしながら、ポロイスに胸当てを着けてやる。じきに、ポロイスはまるで少年剣士のようないでたちとなった。
「よし。こんなもんだろ」
縛り終えた紐の張り具合を見て、コルエンは頷く。
「どうだ。動きやすさは」
「そうだな……」
ポロイスは屈んで剣を拾い上げると、それを持ったまま肩をぐるぐると回した。
「大丈夫そうだ」
「足を動かしてみろ」
コルエンは言った。
「授業の防具よりも、だいぶ重いぞ」
「ああ」
ポロイスは、その場で小さく二、三度ジャンプすると、剣を構えて腰を落とす。そのまま軽くステップを踏んだ。
「本当だ。確かに重い」
そう言って、身体をひねって突きを繰り出す。
「だが、まあこんなものだろう」
「軽くするわけにもいかねえからな。向こうはよほど重そうな鎧を着こんでる」
コルエンはポロイスの肩を叩いた。
「行ってこい」
「ああ」
頷いたポロイスが、その先で待つ猿のところへ歩み寄っていく。
「待て待て」
キリーブが叫んだ。
「勝手に始めるな。まだ僕がいいと言っていない」
だが、ポロイスも青のアスルもキリーブの声にはまるで構わず向かい合う。
「よし。始めるゾ」
猿がそう言って、長い手を頭上で交差する。
ポロイスとアスルは互いに相手を見て、頷く。
後ろで頭を抱えたキリーブがまだごちゃごちゃと叫んでいたが、ポロイスは気にしなかったし、アスルも反応しなかった。
せいぜい、楽しそうな表情のコルエンが、
「うるせえぞキリーブ」
とたしなめた程度だ。
「一本勝負ダ」
猿はそう言うと、器用に指を一本立てた。
「剣が相手の胸当てをとらえたら勝ちダ。いいナ」
「ああ」
ポロイスが頷く。
「構わない」
「我もそれでよい」
アスルが言った。
「それでハ」
猿がまるで人間のように咳払いをした。
「剣を合わせテ」
長い両手を挙げて促す。
二人の剣が重なったのを見て、猿が厳かに宣言した。
「はじメ」
ポロイスはその声とともに、まず距離を取った。
アスルは動きもせず、剣を中段に構えたままゆったりと構えている。
二人の姿を見て、キリーブが、ああ、とうめき声を漏らした。
「見てみろ、コルエン。お前ら何も考えずに勇ましいことばかり言ってたが、一目瞭然じゃないか」
そう言ってコルエンのローブの袖を引っ張って揺らす。
「僕は背が低いから知ってるんだ。魔法と違って、武術というのは体格がものを言うんだ。たとえお前みたいなばかだろうと、体格さえよければ勝つ。そういう不公平な競技なんだ」
「お前が武術が弱いのは、そのへっぴり腰のせいだ」
コルエンが答える。
「アルマークの強さを、お前だって武術大会で見ただろ」
「誰がへっぴり腰だ」
キリーブがコルエンの袖を激しく揺さぶる。
「あれは僕の作戦だぞ」
なおも何かを言い続けるキリーブを放っておいて、コルエンは二人を眺める。
だが、キリーブの言葉にも一理あった。
大人と子供の体格の違い。
それが大きな差であることに間違いはなかった。
持つ剣の長さは同じでも、二人のリーチはまるで剣と槍くらい違うように見えた。
同時に打てば、ポロイスの剣はアスルに届かない。
ポロイスも正面から突っ込むことの愚を早々に悟ったようで、じりじりと左に回り始めた。
それを見たアスルが、口を開いた。
「来ぬのか」
そう言うと、剣を大きく振り上げる。
「ならば、我からいくぞ」
「来るぞ、ポロイス!」
コルエンが叫ぶ。
アスルの身体が、まるで宙を飛ぶように駆けた。
一瞬でポロイスの前まで殺到すると、そのまま剣を肩口目がけて振り下ろす。
それを間一髪かわしたポロイスは転がるように後方に逃れた。
アスルがさらに踏み込む。
その威圧感だけで、ポロイスは気圧されたようによろよろと後退した。
アスルが剣を振り上げる。
「待テ」
猿の冷静な声が響いた。
「なんだ、パグフス」
アスルが振り返る。
「もう我の勝つところであったのに」
「そこから先ハ、場外ダ」
猿は答えた。
「足場が悪イ」
確かに猿の言うように、ポロイスの足元は地面がでこぼことして低木の茂みがそこまで迫っていた。
「中央に戻レ」
猿が長い腕を振る。
アスルはため息をついて剣を下ろすと、ポロイスに背を向けた。
「ポロイス」
コルエンがポロイスに駆け寄る。
「危なかったな」
「突きだけじゃないのか」
ポロイスはすでに額にじっとりと汗を滲ませていた。
「あんな風に斬りつけてもいいのか」
「武術の授業じゃねえからな」
コルエンは頷く。
「あの猿は、胸当てに当てた方が勝ちだとしか言わなかった」
「おかしいじゃないか」
ポロイスは吐き捨てた。
「ガライの決闘とは、流儀が違う」
その言葉に、コルエンは苦笑する。
「そりゃここは多分ガライじゃねえだろうしな」
それに、と言ってポロイスの握る剣に目を落とす。
「その剣を握ったときに気付かなかったか? 俺たちの授業で使うものとは違って、刃が広い」
「ああ」
ポロイスは頷く。
「だが、単なるデザインの違いだと」
「用途の違いだ」
コルエンは言った。
「斬るために作られた剣だ。俺たちが普段の授業で使っているのは、突くための剣だ」
「やったことないぞ」
ポロイスは絶望的な顔をした。
「斬り合いの練習なんて」
「早く中央に戻レ」
猿の冷静な声が響いた。
「仲間と相談したけれバ、審判に申告しロ」
コルエンが頷いてポロイスから離れる。
「相談はひと試合に三回まで認めル。あと二回ダ」
そう言って猿はまた器用に指を二本立てて見せる。
「さア、戻レ」
ポロイスがのろのろと猿の方へ戻っていく。
その様は、まるで死刑宣告された罪人のようだった。
「おい、ポロイス」
コルエンはその背中に声をかけた。
ポロイスが振り向く。その青ざめた顔を見て、コルエンはにやりと笑った。
「しっかりしろよ。俺が何のために一番手をお前に譲ったと思ってんだ」
「……何のために?」
「見届けるためだよ」
コルエンは言った。
「お前が自分の枠から思いっきりはみ出すところをな」




