青のアスル
「下ろせ、下ろせ、おーろーせぇ!」
森の一本道。
仲間たちのもとを離れるときから続いていたキリーブの叫びが絶叫に変わり始めた頃、ようやくコルエンは腕の力を抜いた。
「おーろー、ぐわ」
地面に落ちたキリーブは、コルエンを見上げて睨む。
「貴様、よくもやったな」
「下ろせって言ったから下ろしたんだろうが」
コルエンが涼しい顔で答えると、キリーブは音が出るほど激しく歯軋りして、コルエンをそれだけで焼き殺せそうなほどの目付きで睨む。
「僕が下ろせと言ったら、丁寧に下ろせ。次からは必ずだ」
「おう。覚えてたらな」
コルエンは笑顔で答える。
「絶対だぞ。それから、下ろせと言ったら必ずすぐに下ろせ。僕をこんなに何度も叫ばせるな」
「キリーブ。君はコルエンの小脇に抱えられることがこれからも起こる前提で話しているのか」
やや呆れた顔でポロイスが口を挟み、それから地面に這いつくばったままのキリーブを見た。
「それで、君はどうするんだ」
「どうする?」
荒い息をしながらキリーブがポロイスを見る。
「何をだ」
「もうずいぶん来てしまったが」
ポロイスはそう言って、ここまで歩いてきた道を振り返った。
あたりは木々や茂みに覆われ、歩いてきた道以外には分かれ道もない。
「どうする。ここまでずっと一本道だった。帰ろうと思えば帰れないこともないぞ」
キリーブもその言葉につられたように背後に伸びる道を見た。
「それは、確かにそうだな」
「なんだよ、帰るのかよ」
コルエンが不満そうに言う。
「つまらねえな。残れよ、キリーブ」
「面白いとかつまらないじゃないんだ、こういうことは」
キリーブはコルエンを再び睨んだ。
「自分のおかしな感覚を基準に物事を考えるのをやめろ」
ポロイスがそれに頷く。
「コルエン。これは確かに遊びじゃない。命の危険も十分にある戦いだ。覚悟がないのなら、ここから先に進むのはやめた方がいい」
「ま、別にいいけどよ」
コルエンはそう言うと、身をかがめてキリーブに顔を近付けた。
「魔影に気を付けろよ」
声を潜めて、にやりと笑う。
「一人で帰るんならな」
「僕を誰だと思ってる」
キリーブは憤然として立ち上がった。
「あんな影みたいなもの、僕一人でどうとでもなる」
「君も魔術師だからな。確かに大丈夫だろう」
ポロイスが冷静に頷く。
「だが、奴らに触られたら魂を抜かれるらしいからな。十分気を付けろよ」
ポロイスの言葉に、キリーブは、ふん、と鼻を鳴らした。
「僕の魂を抜けるものなら抜いてみろと伝えておけ」
「誰にだよ」
コルエンが笑い、それから歩き出した。
「じゃあな。気を付けて帰れよ、キリーブ」
「危なくなったら、大声を出すことだ。この森には僕らの後から他の生徒たちも入っているはずだ。聞こえたら誰か助けてくれるかもしれない」
ポロイスもそう言って、コルエンの後に続く。
「誰が、そんな情けないことをするか」
キリーブはもう一度鼻を鳴らすと、二人に背を向け、もと来た道を大股で歩き出した。
それをちらりと振り返ってから、コルエンとポロイスはしばらく無言で歩く。
「帰れると思うか」
ぽつりとポロイスが言うと、コルエンは口元だけで笑って答える。
「無理だろ」
じきに、背後から大きな声が聞こえてきた。
「コルエン! ポロイス! どっちでもいいから早く来い!」
「あんなにいるなんて聞いてないぞ」
憤懣やるかたないといった表情で、キリーブが言う。
「一つや二つ、せいぜい三つだろう。出るにしても」
「大人気だな、キリーブ」
にやにや笑いを噛み殺してコルエンが言った。
「女にはモテねえのに魔影にはくそみてえにモテるじゃねえか」
「やめろ、コルエン。品がない」
ポロイスは冷静にコルエンの言葉遣いを咎めた後で、キリーブを見る。
「だが、いいのか。結局僕たちと来ることになったが」
「そうだぜ。俺たちと来るってことは青の石と戦うってことだぞ」
「僕は戦わん」
キリーブは即答した。
「お前ら二人で戦えばいい。僕は見届けてやる」
「さて、そう都合よくいくといいがな」
ポロイスが首を傾げる。
「なんでだ」
「融通の利かなそうな顔をしているからさ」
ポロイスの指さす方向を見たキリーブが、目を見開いて妙なうめき声を上げた。
道の先に、青い髪に青い目の、長身の男が立っていた。
「我が名は、青のアスル」
長身の男は言った。
「待ちくたびれたぞ」
古いデザインの長衣の下に、濃紺色の鎧が覗いていた。
年のころ、三十代半ばといったところか。イルミスやライヌルとちょうど同じくらいの年齢に見えた。
「汝らが、我が相手か」
その細い目が値踏みするように、三人を見る。
「おう」
コルエンが快活に答えた。
「俺の名は」
「我が名はポロイス・スタウツ」
コルエンの名乗りを遮るように、ポロイスが名乗った。
「青のアスルといったな。青の石の魔術師と見受ける。友人の命が懸かっている。いざ、勝負を」
「良き名乗り」
アスルはにこりと笑った。
「汝らとの勝負はもとより望むところ。だが、果たして勝負になるかな」
「なに」
コルエンが眉を寄せる。
その瞬間、アスルの身体に魔力が渦巻いた。その巨大さにポロイスが目を見張る。
「これは」
「おう」
コルエンは嬉しそうに笑った。
「いいぞ。こうでなきゃな」
「何がこうでなきゃ、だ」
震える声でキリーブが言う。
「冗談じゃないぞ。なんだ、こいつの魔力は。人の皮をかぶった化け物じゃないか」
「我は子供を嬲り殺すような戦いを望まぬ」
アスルは言った。
「そのような戦いに価値を見出さぬ。勝負にならぬのであれば、やらぬ方がましというもの」
「言うじゃねえか」
コルエンが好戦的に笑う。
「そんなもん、やってみなきゃ分からねえだろ」
そう言って、握っていた杖を振り上げる。
その瞬間だった。
アスルがコルエンに向かって駆けた。その手にいつの間にか、青く光る剣が握られていた。
「うおっ」
コルエンがとっさに放った光の矢を、アスルの剣が叩き落す。
「魔法の剣かよ」
たちまち眼前に現れたアスルにコルエンが再度杖を突き出すが、間に合わなかった。
アスルの剣が閃き、切断されたコルエンの杖の上半分が宙を舞う。
それと同時だった。
コルエンの左足が軸足となり、地面に捻じ込まれるかのように回った。
初等部としては規格外の長い脚が、鞭のようにしなってアスルの顎を狙う。
「む」
強烈なコルエンの蹴りを片手で受け止めたアスルは、それでも目を見張った。
「良い蹴りだ」
飛びずさったコルエンが嬉しそうに地面に唾を吐く。
「そりゃどうも。次は当ててやるぜ」
アスルは足を止め、目の前のコルエンと、杖を構えるポロイス、逃げ腰のキリーブの三人を、もう一度初めて見るかのように眺めた。
「三人か。なるほどな」
そう呟いて、剣を下ろす。
「何がなるほどだ」
コルエンが燃えるような瞳でアスルを見た。
「もう来ねえのか。それならこっちから行くぜ」
「魔術では、勝負にならぬ」
アスルは答えた。
「魔術ならば我は、今この瞬間に汝ら三人を殺すことができる。それを防ぐ手立ては、汝らにはない」
「おもしれえ」
コルエンが笑う。
「やってみろ」
「よせ、コルエン」
ポロイスが諫める。
「無駄な挑発はやめろ」
「やってしまえば、それで終わりだ。やる前に戻すことは叶わぬ」
アスルはあくまで淡々と答える。
「だが、今回の我らの主は、勝負の方法は我らに委ねると言った」
そう言うと、コルエンを見て表情を緩めた。
「汝はまるで魔術師に似合わぬ身のこなしだ」
「てめえが言うか」
コルエンが顔をしかめる。
「いきなり剣を振り回したくせによ」
「よし。決めたぞ」
そう言ってアスルは左手を天に突き上げた。
その上空の空間に突如現れたものを見て、コルエンが目を見開く。
「あ?」
「剣だと?」
キリーブが呻く。
「どういうことだ」
現れたのは、一振りの剣と胸当てだった。
「汝らと、剣の勝負をする」
アスルが言った。
「剣の勝負?」
「そうだ。剣だ」
アスルは頷き、左手の人差し指をコルエンの足元に向けた。
そこに、剣と胸当てがゆっくりと下りてくる。
「それならば、面白い勝負になろう」
アスルは三人の顔を見た。
「汝ら三人のうち二人が勝てば、汝らの勝利だ。我は石に戻る」
「おう」
真っ先に声を上げたのは、キリーブだった。
「いい話じゃないか。コルエン、ポロイス。お前らが勝てばそれでいいということだ。僕の出番はない。残念だが仕方ない」
「ちょっと黙ってろ、キリーブ」
コルエンがキリーブの言葉を遮る。
「剣の勝負ってのは、武術の試合ってことか」
「呼び方は、何でも構わぬ」
アスルは答えた。
「我は、この剣しか使わぬ。相手の胸当てに先に一撃を加えた方の勝ちだ。汝らは、剣のほかに魔法を使ってもよい」
「舐められたもんだな」
コルエンが殺気立った声を上げる。
「俺たちが魔法を使おうが、お前は剣一本で勝てるってのか」
「不満があるのなら、我に勝ってみせれば良い」
表情も変えず、アスルは言った。
「それとも汝は、言葉で功を稼ぐ徒か」
その言葉に、コルエンは舌打ちして口をつぐむ。
「仮に三人全員が我に勝てば、汝らの望むものを一つ与えよう」
アスルのその言葉に、キリーブが「はあ?」と声を上げた。
「三人? いやいや、やる必要ないだろう。三人勝負の意味が分かるか。二人勝てばそこで終わりだろう」
「出番があってよかったな、キリーブ」
ポロイスがそう言って、アスルを見る。
「まだ、僕らが負けた時のことを聞いていないぞ」
「汝らのうち二人が敗れれば、そこで勝負は終わりだ。汝らの魂は肉体を離れる」
アスルの言葉に、ポロイスが声を低くする。
「それは、つまり」
「死ぬということだ」
アスルは答えた。
「汝らは生身の人間なのだからな。魂が離れては生きられぬ」
「死ぬ……!」
キリーブがごくりと唾を飲む。
「いいぜ」
コルエンが言った。
殺気立った表情。だが、その口元には抑えきれない笑みが浮かんでいた。
「それでいい。いや、それがいい。やろうぜ」
「待て、お前。勝手に決めるな」
キリーブが叫ぶが、その声を遮るように、ポロイスが頷く。
「僕もそれでいい」
「なっ」
「決まりだな」
アスルが微笑んだ。
「待て待て、まだ僕が頷いていないぞ」
「勝負には、審判が要るな。我の方で用意しよう」
「おい、聞いてるか。まだ決めるな。このばか二人しか頷いていないだろう。僕の意見を聞け」
アスルが再び左腕を上げると、今度はそこに青い体毛の猿が現れた。
ちょうど初等部1年生くらいの体長の、南では見かけない種類の猿だった。
「審判は、この猿が務める」
アスルが言うと、猿は俊敏な動作でアスルの肩の上に乗り、歯を剥き出した。どうやら、笑ったようだ。
「よろしク」
獣訛りのひどい言葉で、猿は言った。
「俺が審判を務めル。アスルをひいきしたりはしないから安心しロ」
「いや、待て。勝手に話を進めるな。審判が猿だと? 信頼性皆無じゃないか」
「構わねえ」
コルエンが頷く。
「やろうぜ」
「ばかか!」
「コルエン」
剣を拾おうとするコルエンに、ポロイスが声をかける。
「最初は、僕にやらせてくれ」
「何言ってんだよ、ポロイス。俺はもう待ちきれねえんだ、分かるだろ」
そう言いかけたコルエンだが、ポロイスの表情を見て動きを止めた。
「なんだ、お前」
コルエンは拾い上げた剣をポロイスに手渡す。
「そんな思いつめた顔しやがって。それじゃ譲るしかねえじゃねえか」
「ありがとう」
ポロイスは剣を受け取った。
「魂を抜かれる勝負。それくらいが、今の僕にはちょうどいいのかもしれない」
「いいぞ、ポロイス」
コルエンがにやりと笑う。
「はみ出す気満々だな」
「ばかか、お前ら。負けたらこの世からはみ出してしまうんだぞ!」
「最初に出る相手は決まったようだな」
アスルが頷いた。
「では、始めようか」
「勝手に始めるなと言ってるだろう!」
キリーブの叫びが、森の中に虚しくこだました。




