名乗り
フィッケに蹴り飛ばされたプラーは、地面に横たわったまま動かない。
焦げ臭い匂いの漂う森の空き地は、奇妙な静寂に包まれていた。
アインはエメリアとフィッケの肩を抱くと、声を潜めて手早く説明した。
アインが口を動かすたび、その額や頬からまるで真夏のような汗が滴る。だがそれが暑さのせいなどではないことは二人にも分かっていた。
「できるか」
アインは鋭い目で二人を見る。
「最後まで無茶を言って悪いが」
「できるさ」
フィッケが即答した。
「できるよ。アインに言われて、俺がやらないなんて言ったことがあるかよ」
「私もできる」
エメリアが低い声で言う。
「1組はお前のクラスだ。どうせ、お前に従うと決めていた」
「頼りになる二人だ」
アインは口元に笑みを浮かべた。
「君たちを連れてきてよかった」
「お前こそ、できるのか」
エメリアは徐々に血の気を失っていくアインの顔を見た。
「そんな身体で」
「僕がやると言って、できなかったことがあるか」
アインの返答に、エメリアは肩をすくめる。
「色々とあった気もするが、今は忘れてやるよ」
「ありがとう」
アインは苦笑して、それから二人の背後を見た。
「さあ、お目覚めだぞ。配置に付け」
アインの視線の先で、プラーがゆっくりと上体を起こしていた。
フィッケとエメリアがアインから離れて走る。
プラーは右手で頬と顎に手を当てて、獣のように低く唸った。
「おはよう、赤のプラー」
アインは声をかけた。
「目覚めの気分はどうだ」
プラーはそれに答えず、周囲を見まわす。
正面にアイン。右と左には、フィッケとエメリア。それぞれに十分に距離を取って杖を構え、プラーを囲んでいた。
プラーの口元が笑うように歪んだ。獣のような犬歯が覗く。
「俺にとどめを刺すための隊形ってわけか」
そう言うと、ゆっくりと立ち上がる。
「負け犬。一生懸命よく考えるな」
「追い詰めてしまったからな、お前を」
アインは答える。
「おとなしく石に戻るというのなら、とどめを刺すまでもない。こちらとしてはそれでも一向に構わないが」
「冗談よせよ」
プラーは地面に唾を吐いた。
「魔法ならともかく、拳だの脚だの、そんなもんばかり食らっておめおめと戻れるかよ」
その赤い目が、鮮血のような輝きを宿す。
「こっからは、本気だ」
そう言うと、三人の顔をぐるりと見まわした。
「三本か。まあ、余裕だな」
次の瞬間。
プラーの周囲に、三つの巨大な火柱が噴き上がった。
「三つだと」
アインが目を見開く。
「行くぞ」
プラーが腕を振る。
天を衝かんばかりの三本の火柱が、アインたち三人に向けてそれぞれ動いた。
まだ離れているのに、皮膚をちりちりと焼くような、膨大な熱量。
「話が違うぞ」
フィッケが呻く。
アインは舌打ちした。
プラーの魔力の巨大さを見誤った。今までの戦闘から、火柱は両手からそれぞれ一本ずつの二本までしか出せないと思っていたのに。
「凌げ、フィッケ、エメリア」
アインの言葉に、フィッケが走り出す。エメリアは杖をかざして不可視の盾を展開しようとしていた。
「何かまた、小賢しい作戦を考えたんだろ?」
プラーがアインを見て笑う。
「一生懸命考えて、こいつらを動かして」
火柱が、ぐんぐんとアインたちに迫る。
「俺は嫌だね、そんなことはごめんだ」
プラーは吐き捨てた。
「考えるのなんて、めんどくせえよ。それなら、圧倒的な力で蹂躙した方が、面白いしかっこいいに決まってる」
「それがお前の遊びか」
アインは杖を突き出したままで言った。
「相手の力を自分の力でねじ伏せるというのが」
その言葉にプラーは頷く。
「そうだよ。それが一番面白いんだ」
「そうか」
アインの魔力が杖の先端に凝縮する。
そこから吹き出したのは、風。
強い風がプラーの火柱を押し戻した。
「ならねじ伏せてみろ、この僕を」
「もうその手には乗らねえ」
プラーは嗤った。
「自分に注目させておいて、フィッケとエメリアを動かすのがお前のやり方だ。そうだろ、負け犬」
プラーは両腕をぐい、と突き出した。
フィッケを追う火柱の動きが速さを増し、エメリアに迫る火柱は不可視の盾を造作もなく砕いた。
アインの風に押し戻されていた火柱も、じわじわと前進を始める。
初等部の生徒であれば、一本出しただけで全身の魔力を失ってしまうような火柱を三本も、それもこれだけの時間にわたり維持しながら自在に動かす力。
やはりプラーの地力は、アインたちとは隔絶していた。
「うわ、くそ」
フィッケが走りながら叫ぶ。
「こいつ、速え」
小さな火球をかわすのであればフィッケの俊敏さが生かされたが、こうまで巨大な火柱に真正面から迫られると、そういうわけにもいかなかった。
「お前は一番最後だ、フィッケ」
プラーは笑う。
「お前の蹴りが一番痛かったからな。一番最後にじっくり炙ってやる。だからそれまでその火柱に捕まるなよ」
「勝手なこと言いやがって」
叫ぶフィッケの背後で、火柱が更に速度を上げた。
「うおお」
フィッケが叫んで、プラーから遠ざかるように逃げていく。
「お前ら二人も同じだ」
プラーはアインとエメリアを見た。
「俺の圧倒的な力で、焼き尽くしてやるよ」
二人に迫る火柱の勢いが強まる。
エメリアが光の網を出して火柱を止めようとするが、火柱が太すぎてまともに包み込むこともできないうちに網が引きちぎられていく。
「くっ」
エメリアは呻いて身を翻し、火柱から距離を取った。ぶちぶちと光の網を引きちぎった火柱が、倒れ込むようにエメリアに迫る。
アインはその二人と比べると善戦している方だった。
強風の術で火柱を押さえ込み、わずかずつの前進しか許していない。
「頑張るじゃないか、負け犬」
プラーは言った。
「お前が一番、火柱を押さえ込んでるぞ」
その声には、からかうような響きがあった。
「だけど、一番余裕がないのもお前だ」
アインは答えない。その顎からまた汗がこぼれた。
「動けないんだろ」
プラーがゆっくりと腕を上げる。
「足がもう止まってる。風身の術も切れた。だから、そこで頑張るしかないんだ。そうだろ」
その目が、闇のように濁った赤色を呈す。
「頑張れよ。力の限り」
アインに迫っていた火柱が、さらに太さを増した。まだ離れているのに、アインの前髪がちりちりと音を立てる。
「ぐううっ」
アインは歯を食いしばった。
「うおお」
冷静なアインが、必死の叫び声を上げて杖に全身の魔力を注ぎこむ。
火柱は、アインとプラーの間でぐらぐらと揺れた。
「そうだ。もっと頑張れ」
プラーは楽しそうに言うと、右手を突き出す。
「お前の振り絞ったちんけな全力を、俺の力が蹂躙する」
火柱が、かつてない程に猛り狂った。
アインの突き出していた杖が、弾かれたように跳ね上がる。
アインの起こしていた風が、こらえきれなくなったように霧散した。
後に残ったのは、全力を出し切って足元も覚束なくよろめく、無防備なアインの姿。
「あばよ、負け犬」
勝ち誇ったプラーの声。
火柱が目前に迫る。その時、アインの身体がふわりと浮いた。
「引き寄せの術か」
プラーが歯を剥き出す。
「エメリア。無駄なあがきだぞ」
自分のもとにアインの身体を引き寄せたエメリアが、その肩を支える。
二人に向けて、プラーは腕を振った。二本の巨大な火柱がエメリアとアインに同時に殺到する。
「二人でまとめて死ぬか」
だが、顔を上げたアインの表情を見て、プラーは眉をひそめた。
汗にまみれ、血の気を失い青ざめた顔。だが、その表情は。
「何がおかしい」
プラーが喚く。
アインは微笑んでいた。
「プラー。僕の誤算は、お前の火球が実体を伴っていたことだ」
迫る火柱を気にもせず、アインは言った。
「そのせいで、ずいぶんと痛めつけられた。だがそれが光明にもなった」
「何?」
プラーが顔をしかめる。
「負け犬。お前、何を言ってやがる」
「フィッケ」
アインは叫んだ。
「待たせたな。教えてやれ」
「あいよ」
プラーの背後で火柱から逃げ回っていたフィッケが返事をした。
「おい、プラー」
振り向いたプラーに、フィッケは会心の笑みを見せる。
「聞きたがってたから、教えてやるよ。俺がどうやってエルデインを倒したのか」
フィッケは空を指さした。
「こうやってだ」
「あ?」
上空を見上げたプラーが目を見開く。
プラーの上に浮かんでいたのは、無数の小石を一つにまとめた岩塊と、それを包む炎。
小石は、プラーが先ほど無数の火球を作り出した時の、その核となったものだった。水の衣で防ごうとしたアインの身体を打ち据えたその石たちと、プラーの出した天を衝く火柱の炎。フィッケは逃げ回りながらそれらを少しずつ引き寄せの術で固めていた。プラーの上空に。
それは、図書館の罠での戦いでエルデインにとどめを刺したときと同じ戦法だった。
「火柱をお前から引き離すのに苦労したぞ」
アインは言った。
「三本も火柱が立つとは思っていなかったからな。よくやった、フィッケ」
「くっ」
プラーがとっさに火柱を消して上空の巨大な火の玉を防ごうとした。だが、もう間に合わなかった。
「くらえ」
フィッケが腕を振り下ろす。
無数の小石を赤熱させるほどに燃え盛る、巨大な火の玉。
それが上空から一直線に、宙を切り裂いて炸裂した。
炎が弾け、石が飛び散る。
「がああっ」
まともに受けたプラーの身体を、炎が包み込んだ。
「やった」
エメリアが叫んだ。
「いいぞ、フィッケ」
「おう。見たか、魔獣殺しの実力を」
フィッケが腕を突き上げる。
「待て」
エメリアに支えられていたアインが鋭い声を発して、エメリアを突き飛ばした。
その瞬間、炎の中から人影が飛び出した。
プラーだった。
終始余裕を見せていたプラーが初めて見せる、本気の速度。
全身を炎に包まれながらも、プラーはフィッケもかくやというすさまじい速さでアインに突っ込んできた。
「負け犬、てめえ」
プラーが吼えた。
炎に包まれたその腕が、アインの腕を掴む。
「アイン!」
エメリアが叫んだ。掴まれたローブが、じゅう、と白い煙を上げる。水の衣の術が、かろうじてその炎を防いでいた。
「負け犬の分際で、よくも」
炎の中でプラーが叫んだ。先ほどまでの無邪気さを装った少年の表情をかなぐり捨て、悪鬼のような形相となっていた。
「この俺をこんな目に」
だが、アインは腕を振りほどこうともしなかった。
「負け犬はお前だ、プラー」
アインは答えた。
「なに」
「考えることを放棄した者に、勝利などない」
炎の魔人のような姿と化したプラーを前にしても、アインの表情は変わらなかった。
「まだ名乗っていなかったな」
アインがプラーを真っ直ぐに見る。汗にまみれ、血の気を失い、それでもその顔から気高さが失われることはなかった。
「僕の名は、アイン・ティムガバン」
アインは言った。
「それ以外の名で僕を呼ぶことは許さん」
プラーが目を見開く。
「何人たりともだ」
常に思考し、考えることをやめない者こそが、最後に勝利を掴む。それはアインの信念であり、誇り。
アインの眼光の鋭さに、一瞬気圧されたようにプラーがアインを見返した。
だがすぐに炎の中でその顔を大きく歪める。
「何だ、お前。やっぱりムカついてたんじゃねえか。俺に負け犬って呼ばれて」
プラーは、大きな口を開けて笑った。
「あはは、最初からそう言えばよかったんだ。分かりづらい奴だぜ」
アインは答えない。その腕を掴んでいたプラーの腕が、ぼろりと崩れた。
炎がプラーを焼き尽くそうとしていた。
「ああ、くそ。もっと遊びたかったな」
プラーは悔しそうに言った。
「次は、最初から本気でやるのによ」
「僕の後輩たちにでも遊んでもらえ」
アインは答える。
「何十年後か知らんが、未来の後輩たちにな」
「ずいぶん先の話じゃねえか」
炎の中で、プラーの身体が崩れていく。
「仕方ねえ。時間だ」
消えゆくプラーがもう一度笑った。
「まあ、それなりに面白かったぜ。フィッケ。エメリア。……アイン」
その声が途切れた時には炎の中にすでにプラーの姿はなかった。
そこには赤く光る宝玉だけが残されていた。




