命を懸ける
固く握られた、それはまるで女戦士の拳だった。
ノルク魔法学院初等部の寮で、1、2年生の男子に最も恐れられている拳。
今年の3年生には、一学年上のジェビーやモルフィスのように下級生を威圧して回る男子生徒がいないせいもある。
下級生のやんちゃな男子たちにとって、いたずらが過ぎた時に怖いのは、寮の管理人のマイアの怒声と、それからこの大柄な女生徒が無表情で振るう拳だった。
「この学院には、毎年一人はいるのさ」
寮の壁を殴って壊してしまい、謝罪に訪れたエメリアに、マイアがそう言ったことがある。
「下に威張り散らしたいわけじゃない。畏れられることで寮の治安を保とうって健気なことを考える生徒がね」
安楽椅子に半ば埋もれるように座ったマイアは、そう言ってエメリアを見た。
その目が意外なほどに優しくて、エメリアは戸惑ったのを覚えている。
「それが、今年はあんたなんだろ」
拳が風を切る。
目の前で目を見開いた赤毛の少年が何か叫ぶが、気にしなかった。
やりすぎた奴は、罰を受ける。
罰を与えるのは、誰だ。
誰もやらないのなら、その嫌われ役は私が引き受ける。
それが、今年はあんたなんだろ。
マイアに認められた、ノルク魔法学院伝統の制裁の拳。
エメリアの拳がプラーの頬にめり込んだ。
がしっという鈍い音とともに、プラーの上半身が捻じれ、後ろによろける。
「む」
アインは目を見張った。
エメリアの強烈な一撃は、もしも本当にプラーがその見た目通りの年齢の少年であればまともに受けきれるはずもないものだった。だが、プラーはわずかによろけただけでそれを耐えてみせた。
「やはり」
魔力だけでなくその肉体も、見た目の年齢は紛い物に過ぎないということか。
「殴ったな」
プラーがそう言いながら右手の甲で口元を拭った。そこに赤い血が付く。
「この俺を」
答えることなく、追撃を叩き込むべくもう一歩踏み込んだエメリアに、アインが叫ぶ。
「だめだ、エメリア」
アインは杖を振るった。プラーの赤い瞳がぎらりと光る。
次の瞬間、空に残っていた火球たちがエメリアに向かって降り注いだ。それはプラー自身にも当たりかねない勢いだったが、全く意に介する様子も見せず、プラーは躊躇なく腕を振るった。
それとほぼ同時、アインがとっさに発動した引き寄せの魔法がエメリアを自分の方へと引き寄せる。
だが、プラーの周囲を包む強烈な魔力磁場に捩じ切られるようにして効果は中途半端に途切れた。
後方に引っ張られたエメリアは地面に降り注ぐ火球の直撃は避けたものの、プラーからさして離れていないところに倒れ込んでしまう。
「お前ごときが、俺を殴ったな」
プラーがエメリアを見た。その赤い目が、さらに鮮血のような輝きを宿していた。
剥き出しの殺意をぶつけられたエメリアの顔が強ばる。
「ちっ」
アインがもう一度杖を振るおうとした時だった。
「エメリアに触れるんじゃねえ!」
プラーの背後から叫び声が上がった。
フィッケだった。
杖を振りかざし、猛然とプラーに駆け寄っていく。
振り返ったプラーは面倒そうに目を細める。
「うるさいぞ、フィッケ」
プラーは空に残る火球を指差した。
「これでも食らっていろ」
火球の雨。
それをフィッケに降らせておいて、プラーはエメリアに向き直った。
「さあ、この血をどうやって返してもらおうか」
立ち上がろうとしたエメリアが、プラーの背後を見て息を呑んだ。
「ん?」
プラーが振り返る。
フィッケが、すぐそこまで迫っていた。
火球の雨の中をかいくぐり、飛び越し、身体にかすらせることもなく。
「何だ、お前」
プラーが目を見開く。
「いつの間に風身の術を使った」
「使ってねえよ!」
叫びながらフィッケが猿のような俊敏さでまた火球をかわす。走る速度はまるで落ちない。
「そんなもの、要るか」
アインが口元を緩めて呟いた。
「そいつを誰だと思ってるんだ」
フィッケが横殴りに襲ってきた火球を飛び越した。
高い跳躍。もうプラーの目の前だった。そのまま空中で身体を捻る。
「うおっ」
プラーが目を剥いた。
アインが笑う。
「僕のフィッケだぞ」
フィッケの右足が一閃した。
鈍い音。
顎をまともに蹴り飛ばされたプラーが今度こそ吹っ飛び、地面に転がった。
着地したフィッケは、エメリアに駆け寄る。
「大丈夫か、エメリア」
「あ、ああ」
エメリアは差し出されたフィッケの手を掴んで立ち上がると、眩しそうにその顔を見た。
「フィッケ。お前意外とやるんだな」
「言っただろ、俺は魔獣殺しだって」
フィッケはそう言ってにやりと笑う。
「この程度、なんてことねえよ」
その横を、アインの放った気弾が通り過ぎていく。
「わぷっ」
思わず目を閉じたフィッケの背後で、空気の塊が霧散した。
「そこを離れろ、二人とも」
冷静な声で、アインは言った。
「まだプラーはやる気だぞ」
「え?」
フィッケが振り返る。
プラーはまだ地面に寝転がったまま動かない。だが、アインの気弾の術はかき消された。
それは、その身体にまだ凶悪な魔力が渦巻いていることの証。
「アイン」
エメリアが低い声で言った。
「お前、どうした。その汗」
「いい」
アインは首を振った。
「気にするな」
エメリアはその返事に状況を察したが、フィッケには通じなかった。
「アイン。まさかどっかやられたのか?」
そう叫んでアインに駆け寄ると、その汗の量を見て目を丸くする。
「ほんとだ。すげえ汗だ。まさか」
「よせ。平気だ」
アインは首を振ってため息をつく。
「敵に余計な情報を与えるな」
「平気じゃねえよ」
フィッケはローブから覗くアインの身体を見て泣きそうな顔をした。
「アイン。血が出てるぞ」
「フィッケ」
エメリアがフィッケをたしなめようとするが、フィッケは首を振る。
「エメリア。治癒術だ」
そう言ってエメリアを振り返る。
「この血を止めねえと」
「血までか」
エメリアも、もう心配の表情を隠さなかった。
「火球をまともに受けていたからな」
そう言って、アインに駆け寄る。
「骨はどうだ。折れていないか」
「君たちは、本当に」
アインは諦めたように笑った。
「水の衣で熱は防げても、火球を受けるときの衝撃までは防げなかった。骨は分からないが、身体のあちこちが痛むのは確かだ」
「血は」
フィッケの言葉に、アインは苦笑する。
「転んだ時のかすり傷だ。心配するな」
そう言って、表情を引き締める。
「あの日のアルマークはもっと傷だらけだった。だが、もっと走っていた」
アインは、エルデインとの戦いでのアルマークの姿を思い出していた。
全身血まみれで、おそらくどこかの骨も折れていた。けれど、その動きは最後までいささかも衰えることはなかった。
「命を懸けるとは、ああいう姿のことを言うんだろうな」
その顎から、ぽたりと汗が滴る。
「僕も命を懸ける。治癒術はその後だ」
有無を言わさぬ口調。1組の独裁者の本気の目に、フィッケもエメリアも口をつぐんだ。
「あと少しでプラーを倒せる。二人とも、よくやった」
アインは二人の肩を抱く。
「勝負を決めるぞ。僕の言うことをよく聞け」




