混乱
「さあ、本当の卒業試験を始めようじゃないか」
ライヌルの声が、講堂に響いた。
多くの生徒がぽかんとする中で、真っ先に動いたのはアルマークだった。
足もとのマルスの杖を引っ掴みざま、獣のような速さで前の椅子を飛び越えた。
そのまま身を低くして演壇に向かって駆け出そうとするアルマークに、壇上のライヌルが鋭い声を発した。
「待ちたまえ、アルマーク君」
アルマークにはライヌルの言葉を聞く気など毛頭なかったが、ライヌルがウェンディの身体を抱えた腕にこれみよがしに力を入れたのを見て、足を止める。
「君の気持ちは分かる」
ライヌルは自分を睨むアルマークを柔和な笑顔で見た。
「大事なウェンディお嬢様の危機だ。今すぐにでも私を殺したいくらいだろう。だが、まずは状況を把握してもらおうか」
そう言うと、ライヌルは右腕を振り上げた。
中指に光る、金の指輪。
ライヌルは右手に何か筒のようなものを握っていた。
ライヌルの挙動とともに、講堂が弾けた。
生徒たちの座っていた椅子も、床も、壁も演壇も、全てがまるで脆い飴細工のようにばらばらに飛び散って、消えていく。
風が、アルマークの髪を揺らした。
風?
アルマークは一瞬、自分の感覚を疑う。
だが、間違いではなかった。
アルマークたちは、いつの間にか草原に立っていた。
足もとで、くるぶしくらいまでの丈の草が、風にそよいでいる。
草原の向こうには、鬱蒼とした緑の森が見えた。
ノルク島の冬の景色ではない。
これは、まるで初夏の風景だった。
「なんだよ、これ」
ネルソンが声を上げる。
「講堂が消えちまった」
「それだけじゃないぞ」
レイドーが応じる。
「ここは、ノルク島じゃない。こんな草原も、あんな森も、ノルク島にはない」
「それって」
ノリシュが息を呑む。
「私たち、どこかに転移させられたってこと?」
「決まってるさ。これは闇の罠だ」
バイヤーが甲高い声を上げた。
「あいつは、闇の魔術師だ」
「で、ここはどこなのさ」
ピルマンの問いに答えられる者はいない。
2組の生徒からして、この混乱ぶりだ。1組と3組の生徒たちはなおさらだった。
「なんだ、これ」
フィッケが呆然と辺りを見回す。
「試験は? 学院は?」
「おい、どうなっちまったんだ」
フレインが叫ぶ。
「何だ、この草原。嫌な予感しかしねえぞ」
「本当の試験だと」
エストンが険しい声を上げる。
「どういうことだ。ウェンディを抱えているあの男は誰だ。学院の教師ではないだろう、何か聞いているのか、ルクス」
「俺に聞くんじゃねえよ」
ルクスが答える。
「俺だって何も分からねえ。なんだかやばいことになってるってこと以外はな」
他の生徒たちも口々にざわめいていた。
不安そうに周囲を見まわす者。声高に喚き立てる者。
反応は様々だが、皆、ひどく混乱していることでは一致していた。
「異空間だ」
最初にそう声を上げたのは、やはり冷静な頭脳を誇る1組のクラス委員だった。
「これは転移ではない。牢獄の術の応用だ、それも極めて高度な」
アインは言った。
「慌てるな、みんな。慌てたら相手の思うつぼだぞ」
そう言って、1組の生徒たちを振り返る。
「この空間自体に害はない」
アインは言い切った。
「出られなくなる可能性はあるが、差し当たっての危機はない」
「アインの言う通りだな」
涼やかな声で同意を示したのは、2組のクラス委員だった。
「僕たちの身体は、あの男によって異空間に閉じ込められた。この世のどこかではなく、ここは小さな異空間だ。周囲にとりあえずの危険は感じない」
そう言うと、ウォリスは頼れるクラス委員としての顔で、クラスメイト達に頷く。
「大丈夫だ。出る方法は、これから探せばいい」
それから、眼前に立つライヌルを一瞥した。
「あの男がこれから話そうとしているのも大方そんなところだろう」
ウォリスは、ライヌルが口を開く前に付け加える。
「だが、これだけの空間の展開はどれだけ優れた魔術師でも一人でできることではない。おそらくあの手の筒が」
そう言って、ライヌルの手に握られた筒を顎でしゃくってみせた。
「なんらかの魔法具だ」
二人のクラス委員の冷静な言葉に、生徒たちは落ち着きを取り戻しつつあった。
「そうか、魔法具か」
さっきまで叫んでいたネルソンもそう言って頷く。
「騙されたぜ。自分の魔法みてえに使いやがって」
「異空間」
セラハが呟く。
「じゃあここはあの魔法具が作った空間ということなのかな」
「きっとそうだわ」
ノリシュが頷く。
「講堂がばらばらになったのも、幻よ。私たちの劇の、演出と同じようなものね」
うっふっふ、と嬉しそうにライヌルが笑った。
「優秀な後輩たちだ」
そう言うと、アインとウォリスに目をやる。
「君たち二人はクラス委員なのだろう? 状況を冷静に見極め、クラスをまとめる。いつの時代も、クラス委員とはそういうことのできる生徒が務めるものだ」
その言葉に、ルクスが肩をすくめる。
「もったいぶるな」
冷たい声で、ウォリスが言った。
「話を進めろ、闇の魔術師」
「君のことはよく知っている」
そう言って、ライヌルはウォリスの顔を見た。
柔和な笑顔。だがその奥の瞳は、笑ってはいなかった。
「こんなところでクラス委員とは、涙ぐましいことだ。どうやって自分のプライドと折り合いをつけているのかな? 本来ならば君とて」
そこまで口にしてから、値踏みするようにウォリスを見る。
「おっと。さて、どこまで言ってもいいものか」
「闇を転がすな、汚い舌で」
ウォリスは答えた。
「話したければ好きにしろ。だがいずれにせよ、恥をかくのは貴様だ」
普段のクラス委員らしからぬその鋭い言葉に、生徒たちがウォリスの顔を見る。
自分の言葉に混ぜた闇に気付かれたライヌルは、苦笑して肩をすくめた。
「さすがに君であれば気付くか」
そう言うと、もう一度ウォリスを見る。
「まあ、いい。私は別に君になど興味はない」
ライヌルは今度は間違いなく、ウォリスを見る瞳に侮蔑の感情を込めていた。
「せいぜい頑張るがいい。悲劇の英雄気取りで、な」
その言葉に、ウォリスがかすかに顔を強ばらせる。
「子供相手にむきにならずに始めたらどうだ、試験官」
冷静な声でそう言ったのは、アインだった。
「事前に聞かされていない試験をするからには、丁寧な説明が要る」
アインの泰然とした態度は、普段と変わらなかった。
「僕たちは、どうすればいい。それを教えるのは試験官の役目だろう」
ライヌルはアインを見て、微笑んだ。
「君のような男は嫌いじゃない。いいだろう」
それから、左腕にかき抱いたウェンディの身体をそっと地面に横たえる。
ウェンディは完全に意識を失っていた。
アルマークがじわりと動く。
「焦るな、アルマーク君」
ライヌルはアルマークに顔を向ける。
「説明はすぐに済む」
その言葉とともに、ウェンディの右腕に嵌められた腕輪が、鈍く禍々しい光を放った。
「ウェンディ……」
セラハが小さな声で呟く。
ライヌルは、生徒たちをぐるりと見回した。
「それでは、試験の説明をしよう。よく聞きたまえ」




