三人の夕食
校舎に戻ってきたアルマークを怪訝な顔で出迎えたイルミスは、アルマークが不思議な少女に出会って不穏な預言めいた言葉を聞いたという報告を聞くと、静かに頷いて、そうか、と呟いた。
イルミスは、少女についての詳しい事情は全く聞かなかった。
「その少女が何者なのか私には分からないが」
イルミスはそう前置きした。
「だが、君はおそらく今までに何度も救ってもらってきたのだろう」
「はい」
アルマークは頷く。
「武術大会でも、魔術祭でも、クラン島でもです。闇の危機の前にはあの子が現れたんです。あの子の言葉が生死の境を分けたこともありました」
「そうか」
イルミスは頷き、既に三回、と言って指を三本立てる。
「その少女にそれだけ救われているのなら、君にとっては信頼できる人間ということになるのだろうな」
「はい」
「それならば、自分の直感を信じたまえ」
イルミスは微笑んだ。
「アルマーク。君の直感は命に深く結びついている。それは君が厳しい環境で育ってきたからでもあるのだろうし、君自身がもともと持っている特性でもある。だから、君が信用できると思ったのなら」
そう言って、アルマークを見る。試験官としての厳しい眼差しとは違う、慈しむような目。
「君はその少女を信じればいい」
「はい」
頷くアルマークに、イルミスは付け加えた。
「だが、明日からはしばらくマルスの杖を持ち歩くようにしたまえ。試験中でも、常に傍らに」
「分かりました」
マルスの杖には、学院長のかけた護りの魔法が施されている。それは、ある程度の闇であれば近寄らせない効果を持つと言われていた。
だから、アルマークは用のない時は寮の自室に置いていた。
だが、少女が口にした、“今までで一番大きな力”という言葉。
マルスの杖は、手元に置いておくべきだろう。万が一の時、ウェンディに危機が迫っているのにマルスの杖がありませんでした、では話にならない。
北の大地。ほとんど鎧を脱ぐことのなかった父レイズの姿を思い出す。
「鎧を着こんどきゃよかった、なんて思ったときにはもう手遅れなんだよ」
危機に備え、いついかなる時でも決して油断しないこと。
敵が、いつ襲ってくるか分からない以上、ここはもう、戦地だ。
「一番大きな力」
イルミスは少女の言葉を繰り返した。
「だが、その渦の中に本人はいない、か」
「どういう意味でしょうか」
アルマークはイルミスを見上げた。
「僕にはよく分からなくて」
「私にも、何とも言えんな」
イルミスは首を振った。
「だが、油断はできない。君のクラスの生徒たちにも伝えておくべきだろうな」
「それは、僕から」
アルマークは言った。
「ウォリスを通じて伝えてもらいます」
「うむ。ウォリスなら間違いないだろうな」
イルミスは頷いた。
「学院長には私から伝えておこう」
「お願いします」
アルマークは頭を下げた。
「それはそれとして」
イルミスは言った。
「試験は明日もあることは分かっているね。最後まで気を抜かずにやり遂げたまえ」
その顔はもう、厳しい試験官のそれだった。
「はい」
アルマークは頷くと、慌てて教室を後にした。
一人残ったイルミスは、厳しい表情のまま床に目を落とした。
「ライヌル。君はまさか」
そう呟く。静まり返った教室で、イルミスは何かを考えこんだまま動かなかった。
急いで寮に駆け戻ったアルマークだったが、玄関に近付いたところで、食堂の方から鍋が叩かれる大きな音が聞こえてきて、足を止めた。
ああ。間に合わなかった。
がっかりして、嘆息する。
今日は夕食抜きか、と考えながら寮に入ると、ウェンディとモーゲンが待ち構えていた。
「あ、アルマーク。やっと帰ってきた」
ウェンディがほっとした声を上げる。
「ずいぶん遅かったね。ほら、こっちこっち」
モーゲンが手招きする。
「え?」
アルマークは二人の顔を見た。
「何がだい」
「いいから、いいから」
モーゲンがじれったそうに言って階段を上がっていく。
「ほら、アルマーク」
ウェンディも笑顔で手招きをする。アルマークは分からないながらも二人の後を追って階段を上る。
「こっちだよ」
廊下の奥でモーゲンの丸っこい身体が弾んでいる。
「試験の後なのに、ずいぶん元気だね」
アルマークが言うと、隣に並んだウェンディが微笑んだ。
「試験も山場を過ぎたからかしら。終わりが見えてきたから」
「そうだね」
頷きながら廊下の角を曲がると、陰からモーゲンがひょっこりと顔だけ出していた。
「いらっしゃい」
「何が始まったんだい」
笑顔でそう言いながらアルマークが覗き込むと、そこに小さなテーブルが設えられていた。
その上に置かれているのは。
「今日の夕食じゃないか」
アルマークは目を丸くする。
「もう諦めていたのに。どうして」
「アルマーク、変化の術の試験で順番が一番最後だったでしょ」
ウェンディが答える。
「だから、もしイルミス先生の解説か何かが入っちゃったら、夕食に間に合わないんじゃないかと思って。それでモーゲンと相談したの」
「こっそり君の分をここまで運び込んだんだ。マイアさんが来る前だったからね」
モーゲンが胸を張る。
「前にも夕食が足りなくて持ち帰ったことが何回かあるんだ。そのへんは任せてよ」
「すごいな。ありがとう」
アルマークは諦めた筈だった夕食をまじまじと見つめる。
スープからはまだ湯気が立っていた。
ふと、心配なことに気付いてアルマークはモーゲンを見る。
「でも、食べ終わった後の食器はどうすればいいかな。今からじゃもう食堂に返しに行けないけど」
「真面目だね、アルマークは」
モーゲンは笑う。
「洗っておいて明日の夕食のときに、ローブに忍ばせて持ってくればいいんだよ。それで片付けるときにいっしょに戻しちゃうのさ」
「なるほど」
アルマークは頷く。
「明日の夕食か。確かに、朝食だと皿が違うからばれてしまうね」
「そういうこと」
モーゲンは頷いて、アルマークに促す。
「さあ、食べてよ」
「スープは私が少し温め直したの」
ウェンディが口を挟んだ。
「ほかは、もう冷めちゃってるんだけど」
「いいんだ。ありがとう」
アルマークはウェンディに微笑む。
「温かいスープが飲めるだけで嬉しいよ」
「その代わり、デザートを付けたからね」
モーゲンの言う通り、皿には普段の食事に付くことのない焼き菓子が載っていた。
「モーゲンのお菓子だね。ありがとう」
アルマークは椅子に座る。
テーブルを囲んだウェンディとモーゲンがにこにこと見つめてくるので、アルマークは照れくさくなって二人を見上げた。
「そんなに見られると、ちょっと食べづらいな」
「そうかい」
モーゲンがウェンディと顔を見合わせる。
「じゃあ、僕らも座ろう」
「そうね」
モーゲンとウェンディもそこに並べていた丸椅子に腰かけた。
「多分、誰も来ないと思うけど」
そう言ってウェンディが廊下の先を覗く。
「でもこんなところ見られたら怒られちゃうから、アルマーク、その前に食べて」
「そうだね」
アルマークは頷いた。
そうなれば、二人に迷惑が掛かってしまう。
「いただきます」
そう言って、アルマークは食べ始めた。
アルマークが料理を口に運ぶのを、二人はにこにこと見守る。アルマークはやはり少し照れくさかったが、もう何も言わなかった。
スープの暖かさと菓子の甘さが身に沁みる。
相変わらずの速さでアルマークが夕食を食べ終えると、それを待っていたかのようにモーゲンが尋ねてきた。
「どう?」
「おいしかったよ」
アルマークは答えた。
「ウェンディの温めてくれたスープも、君のくれたお菓子も。どれもおいしかった」
「それならよかった」
モーゲンとウェンディは顔を見合わせて頷いた。
「明日はまだ試験が残っているから」
ウェンディが言う。
「夕食抜きは絶対よくないもの。しっかり食べておかないと」
「うん」
アルマークは頷く。
「そうだね。ありがとう」
「それにしても、ずいぶん遅かったね」
モーゲンが言った。
「イルミス先生から何か指導があったのかい」
その言葉で、アルマークは先ほどのイルミスとのやり取りを思い出した。
アルマークは二人の顔を改めて見る。
「そうだ。二人に話しておきたいことがあるんだ」
「なあに、改まって」
「どうしたの」
「実は」
だが、そう言いかけて、アルマークは、どこから話せばいいのか分からなくなった。
大急ぎで走って帰ってきたので、まだ少女の話をうまく自分の中で咀嚼できていない。
イルミスには断片的なことを話しただけで、ある程度の事情は察してもらえ、深い事情は聞かれなかった。
しかしそれはイルミスだったからこそ、とも言える。
ウェンディやモーゲンに、そんな断片的なことを話しても無駄に不安を煽ることになるだけだろう。
とはいえ最初からきちんと話そうとすれば、下手をすると今夜一晩がかりになってしまうかもしれない。
試験期間でウェンディもモーゲンも疲れ切っている中、そんな長時間付き合わせることはできない。
だが、重要なことだ。
大事な仲間である二人と、危機感は共有しなければならない。
詳しくは、試験の終わった後で話すとしても、必要なことだけでも。
……少女のことを話すのは、今は無理だ。
アルマークは思った。
どこからどこまで話せばいいのか、分からない。それに、理由は自分でもはっきり言えないけれど、ウェンディにはまだこの話は聞かせてはいけない気がする。
少女の存在について話さなくても、そのメッセージは伝えられるはずだ。
「マルスの杖が、おかしいんだ」
代わりにアルマークはそんな嘘をついた。
「何か、すごく大きな力が来る気がする。もしかしたら、ライヌル本人かも」
「試験期間だっていうのに、かい」
モーゲンが目を丸くする。
「まあ向こうにはそんなこと関係ないか。それに、かえって狙い目かな。みんな疲れてるもんね」
「うん、そんな気がするんだ。僕の勘違いかもしれないんだけど」
言いながら、アルマークは自分でも苦しいことを言っている気がした。
「ううん」
ウェンディが首を振った。
「気を付けましょう」
ウェンディの口調は静かだったが、そこには強い意志が込められていた。
「アルマークがそう感じたのなら、きっと来るよ。私たちは覚悟してちゃんと備えよう」
「ありがとう」
ウェンディの、無条件の信頼。
アルマークの胸は詰まった。
試験が終わったら、きちんと話そう。
罪悪感とともに、アルマークは思った。
あの少女のことを。
彼女はウェンディのことをとても心配していた。
それに、ウェンディの中の魔力の声も、彼女の声にとてもよく似ていた。
そんなことを、全部。
僕の話は長いから、丸一日かかってしまうかもしれない。
それでもいい。全部、ウェンディに伝えよう。
だけど。
アルマークは衝動に負けそうになる自分を、ぐっと抑える。
だけど、今はだめだ。まだ明日の試験が残っている。
明日は中等部に上がるための、大事な試験の最終日なんだ。
「ウォリスに話して、みんなに伝えてもらおうと思うんだ」
アルマークの言葉に二人は頷いた。
「そうね。クラン島でのこともあるし、みんなが狙われる可能性だってないとはいえない」
「うん。話しておくに越したことはないね」
モーゲンも同意する。
「とはいえ、みんな今は試験のことで手一杯だと思うけど」
「そうだね」
アルマークは頷く。
「それは私たちも同じね」
そう言ってウェンディが微笑んだ。
「じゃあ、解散しましょうか。明日の試験が終わったら、みんなで街で食事でもしようね」
その言葉に、モーゲンが張り切って胸を叩く。
「候補の店を十五個準備しておくよ」
「もう少し絞ってくれないか。多すぎて選べないよ」
アルマークの言葉に二人が笑う。
「ありがとう、二人とも」
アルマークはもう一度言った。
「明日の試験、頑張ろう」
「ええ」
「うん」
そうして、三人は別れた。




