変化の術
分かったぞ。
アルマークは、高い台の上の甕を見上げながら、思った。
さすがに最難関の試験というだけのことはある。この試験は、変化の術を一回使うだけでは対応できないんだ。
アルマークは小さく息を吸う。
必要な変化の術の回数は、三度だ。
高いところまで行くために、一度。
甕の水の中から小石を取り出すために、一度。
そして、小石を自分の手元まで運ぶのに、一度。
最後の最後で、なんて厳しい試験なんだ。
「さあ」
イルミスが、アルマークを促す。
じっくりと考える暇は与えてもらえないようだ。
仕方ない。
実戦も同じだ。いくらでも時間を使っていい、なんていう状況の方がそもそも特殊なのだ。
まずは、高いところまで行くための変化を。
時間がない以上、慣れない生き物を作っている余裕はない。
作り慣れたもので、高いところへ。
よし。
アルマークは杖を掲げた。魔力を杖に込めていく。
素早く、だが丁寧に。
杖が徐々に形を変えていく。
「行け」
アルマークは、杖から手を離した。
一羽の小鳥が、軽やかな羽ばたきとともに台の上の甕に向かって飛んだ。
変化の術がきちんと制御されてさえいれば、動物に姿を変えた杖は、ある程度のコントロールができる。
小鳥は、アルマークのコントロール通り、甕の縁に止まった。
難しいのは、ここからだ。
アルマークは右手を小鳥に向けて突き出した。
戻れ。
魔力の供給を絶たれた杖が、小鳥から元の姿に戻り、甕の口の上にからん、と転がった。
離れたところにある物を変化させるのは、手に持って直接魔力を注ぎ込むよりも遥かに難しい。
本当は、小鳥の姿から直接、次の生き物に変化させられればかっこいいんだろうけど。
次なる魔力を練りながら、アルマークは思った。
僕にはまだそこまでの技術はない。
でも、自分にできることを積み重ねていけば、同じ結果にたどり着くことができるはずだ。
魔力の飛ばし方は、浮遊の術で、遠くのものを引き寄せるときのイメージの応用だ。
デグが教えてくれた。
引き寄せの術は、手で掴んでこちらに引き寄せるというのが一般的なイメージだ。
離れたところにある物に変化の術をかけるときには、手で掴んでそこに魔力を注ぎ込むというイメージが応用できる。
アルマークは甕の上の杖に向けて手を突き出し、精神を集中した。
次の生き物は、あれだ。
心に決め、魔力をそのイメージに固めていく。
アルマークの額に汗が滲む。
杖が、ゆっくりと形を変え始めた。
離れているせいで、先ほど小鳥に変わったときよりも遥かに遅い。だが、杖は確実にその姿を変えていく。
アルマークが選んだのは、両手に大きな鋏を持った甲殻類、ザリガニだった。
石を持ち運ぶのなら、魚に銜えさせるよりもこちらの方がいいだろう。
甕の縁で身体を反って両手の鋏を掲げ、それからザリガニはするりと甕の中に滑り込んだ。
水音はしなかったが、水に入ったのだということが分かった。
変化の術で変わったザリガニを操れるとはいえ、その感覚まではほとんど共有できない。
アルマークは杖と繋がっている魔力を途切れさせないよう、神経を集中した。
そうすることで、多少なりともザリガニとの感覚を共有することができる。
甕の底の小石に鋏が当たる感触。
集中していなければ感じ取れないであろう、ごくわずかなその感触を、アルマークは逃さなかった。
よし。掴め。
硬い物を挟んだ感覚。アルマークはそのまま、ザリガニを一気に上昇させる。
水面から鋏を突き出したザリガニが、まず石を甕の外に転がり落とす。その後で、ザリガニも甕の外に這い出した。
小石の隣に落ちたザリガニを見て、アルマークは長い息を吐いた。
あと少し。
アルマークは、ザリガニを杖に戻すと、最後の魔力を注ぎ込む。
杖が、三度姿を変える。
鳥に。今度は先ほどの小鳥よりも、一回り大きい。
それは、小石を運ぶためだ。
鳥は嘴で小石を銜えると、羽を広げた。
わずか数度の羽ばたきで、鳥はアルマークの目の前まで飛んできた。
黄色い円の手前の床に小石を落とすと、鳥がそのまま力尽きたように杖に姿を戻す。
アルマークはゆっくりと屈み、小石を拾い上げた。
「小石を掴みました」
アルマークがそう言って小石を掲げ、汗まみれの顔を綻ばせる。
イルミスはそれを見て、厳かに頷いた。
「よし。それまで」
「三度も変化の術をきちんと成功させたのは、見事だった」
イルミスは言った。
「鳥、ザリガニ、そしてまた鳥。発想も良かった」
「ありがとうございます」
アルマークは汗だくの顔で微笑んだ。
「うまくいってよかった」
「確かに難度は高かった。だが、決して一か八かではない。きちんと実力の裏打ちがあっての挑戦だった」
イルミスは率直に認めた。
「夏の試験ではまだ瞑想の段階だった君が、わずか半年で。本当に大したものだ」
アルマークを見るイルミスの目は、優しかった。
「誇ってもいい。まだ明日の試験もあるが、少なくとも今日のところは自分を誉めてあげたまえ。君は素晴らしいことをやり遂げた」
「ありがとうございます」
そこまでまっすぐに誉められることは滅多になかった。
アルマークは嬉しさと照れくささを笑いでごまかす。
「みんなが僕を鍛えてくれたからです。先生や、クラスのみんなや、それに」
繰り返し襲ってきた蛇の罠が。
ごく自然にそう答えそうになって、アルマークは、はっと口をつぐんだ。
「あ、いえ」
そう言ってごまかそうとしたが、イルミスが代わりにその言葉を口にした。
「蛇の罠、か」
うつむくアルマークに、イルミスは穏やかな声をかけた。
「そこを気にしているのだろうな。それは、私にも分かる」
「蛇の罠で、いろいろなことを学べたのは事実です」
アルマークは言った。
「でも、そのせいでたくさんの仲間を危険な目に遭わせてしまいました。あれがあってよかった、なんてことはとても僕には言えません」
「そうだな」
イルミスは頷き、アルマークにゆっくりと歩み寄った。
「君がそう思うのも、無理はない」
だが、とイルミスは続けた。
「その事実から無理に目を逸らすことはない。それは君の目を曇らせることになる」
イルミスは小石をアルマークから受け取ると、もう一度それを浮かせた。
アルマークの見守る中で、小石は再び水音とともに甕の中に落ちる。
イルミスは、積まれていた杖の一本を無造作に手に取った。
「事実から目を逸らせば、君ほどの人間でもその判断が鈍ることがある」
そう言いながら、イルミスが杖に魔力を込める。
「あっ」
アルマークは目を見張った。
杖が姿を変えたのは。
蛇。
元の杖の二倍ほどの体長の蛇は、するすると木の台を上ると、甕の中に入り、難なく小石を銜えて出てきた。
そのまま蛇がイルミスの足元まで小石を運ぶのを、アルマークは瞬きもせずに見つめていた。
「蛇なら、変化は一度で済んだ」
イルミスは、姿を戻した杖と小石を手に取ると、アルマークに向き直った。
「クラスメイトが鍛えてくれた力でも、ライヌルの罠に鍛えられた力でも、君の力であることに変わりはない」
黙ったまま自分を見上げるアルマークに、イルミスは微笑む。
「君の成長は素晴らしい。それを自分でも認めていい」
そう言って、優しくその肩に手を置いた。
「君も魔術師になるのだから、忘れてはいけない。ありのままを見る、というのはそういうことだ」
真っ暗な帰り道。
一人、寮へと歩くアルマークは、ふと足を止めた。
「灯の魔法も使わないのね」
その声に、穏やかに頷く。
「ああ」
アルマークは、声の聞こえてきた暗がりを振り向いた。
白い肌が、闇の中でもまるで浮き上がるように見えた。
あの少女が、微笑んでいた。




