信頼
モーゲンが、試験と名の付くものを初めて受けたのは、8歳になってすぐのことだ。
それは、ガライ西部の中心都市、コーンプルで受けたノルク魔法学院の入学試験だった。
5歳の時、木こりの父が森へ出かけると、モーゲンは家を出てその後ろをこっそりとつけた。
なぜそんなことをしたのか、実はよく覚えていない。
小さな妹に母親を独占されて面白くなかったからか。それとも突然後ろから飛び出して父親を驚かせようと思ったからか。
いずれにせよ、些細な理由だった。
だが、モーゲンはその日、赤や紫のベリーを摘みながら歩いているうちに父の背中を見失い、それでも持ち前の楽観的な性格で深く気にすることもなく、ベリーのある方、ある方へと歩いているうちに、今度は方向を見失った。
やがて日も暮れ、真っ暗な森の中でモーゲンは途方に暮れた。
村の衆に加勢を頼んで森へモーゲンを探しに出かけた両親が闇の中で見たのは、全身から淡い不思議な光を放ちながら泣いている息子の姿だった。
村を治める領主は、身分はさして高くないが英邁だった。
彼は報告を受けるとすぐにこう言ったのだという。
「その子供は、生まれつき強い魔力を持っているのであろう。魔術師になる星のもとに生まれておるのだ」
領主はモーゲンの父親を呼び、命じた。
「息子が8歳になったら、ノルク魔法学院の入学試験を受けさせてみよ。そのための旅費くらいは出してやろう」
試験に受からなかったらどこかの魔術師の弟子となって、いずれは自分の下で働け、と領主は言った。
8歳になったモーゲンは、初めてやって来た大きな街で、人の多さに驚き、建物の高さに目を見張り、おいしそうな匂いにつられながら、それでもたくさんの子供たちとともにノルク魔法学院の入学試験を受けた。
文字の読み書きや計算くらいはなんとか教えてもらっていたが、正直なところ、筆記試験の問題の大半はちんぷんかんぷんだった。
魔力を測ったり、面接で質問に答えたり、というのは自分なりにまあできた気はしたが、それでもその程度でこのたくさんの子供たちの中から自分が選ばれるとはとても思えなかった。
試験が終わった後で、付き添ってくれた父親に正直にそう話すと、父親は大きな手でモーゲンの頭を撫でて、「まあそういうこともあらあな」と笑った。
「来年の春までに、弟子入りする魔術師様を探さねえとな」
父親の言葉に素直に頷いた時には、モーゲンは自分がノルク魔法学院に入れるかもしれないなどとはもはや微塵も考えていなかった。
だから、合格の通知を受け取ったときは、狂喜する両親とは裏腹に、ひどく戸惑ったのを覚えている。
自分が選ばれた理由が、モーゲンには分らなかった。
とにもかくにも、モーゲンはそうしてノルク魔法学院にやって来たのだった。
魔力を練って、鋭い風の刃を作り、石に飛ばす。
何度も繰り返し練習してきた魔法だ。
できないわけはない。
そんなことは、モーゲン自身が一番よく知っていた。
だが、突き出した手の平から放たれた風は、石の表面を微かに削り取って散った。
「もう一度だ」
そう告げるイルミスの表情が険しくなっていた。
モーゲンの背中を、嫌な汗が伝う。
試験は苦手だった。
1年生の時から、いい成績を取ったことはないし、できたという手応えがあったことすら一度もない。
自分でも、いい成績を取るのは無理だと思っていた。
いい成績を取る人間というのは、決まっているのだ。
まず、貴族であること。
そしてその中でも、ウォリスやレイラやウェンディ。アインやロズフィリア。
そういう、貴族の中でもさらに特別なものを持った子たちだけが、この選ばれた子供が集う魔法学院でいい成績を取ることができるのだ。
自分がそんなところに名前を連ねられるわけはない。
そもそもモーゲンにとっては、この学院に入ることができたこと自体が、奇跡のようなものだったのだ。
だから、成績については最初から諦めていた。補習に引っかからなければ、それで十分だ。
それは、見る人から見れば、向上心のない怠惰な態度だったのだろう。
同級生たちはそんなモーゲンを侮ったし、遠慮なく侮蔑の言葉を投げかけてくるトルクのような生徒もいた。
そして、モーゲン自身もそうやって人から侮られることを受け入れていた。
みんなにばかにされるのは、仕方ない。
だって、僕はできないんだから。
その意識が変わったのは、いつからだろうか。
モーゲンは、それについてははっきりと覚えている。
夏の休暇の、あの夜。
部屋の外から聞こえる冷たい無機質な声と、それに答える少年の落ち着いた声。
まるで別世界のような会話を、モーゲンは息を詰めて聞いていた。
全身の震えが止まらなかった。
目を閉じて、耳を塞いで、何もかもを投げ出してしまいたくなる恐怖と、モーゲンは必死で戦った。
けれど。
「モーゲン、今だ!」
その言葉を聞いた瞬間、モーゲンの震えは止まった。
突き出した杖から、自分でも驚くほどの強さの風が吹いた。
恐怖の権化のような北の傭兵は、驚いた表情のまま、窓の外へと落ちていった。
あの日、モーゲンは勇気を出すことの重要さを知った。
そして、自分がこのままではいけないんだということも。
それからの努力。自分にしてはずいぶんとよくやって来たと思う。
初めてきちんと自分を認めてくれた友達は、いつの間にかひどく重い運命を背負わされていた。
それでも、彼は愚痴も弱音もこぼすことなく、同じように重い運命を背負ったウェンディのことばかりを心配していた。
自分のことなんて、まるで気にもしないで。
僕には何ができるんだろう。
気付けばモーゲンはいつもそう考えていた。
あの二人のために、僕には何が。
「大丈夫。僕と君がいるんだ。何とかなるよ」
冬の屋敷でアルマークが掛けてくれた言葉。
またアルマークにそう言ってほしくて、その言葉通りアルマークの隣に自分も並び立ちたくて、モーゲンはあの日以来、似合わない努力を続けてきた。
夜の薬草狩りでも、クラン島でも、アルマークの力は圧倒的だった。
剣技。勇気。機転。
戦うためのあらゆる才能を、アルマークは具えているように見えた。
僕は、アルマークの力になれているんだろうか。
切り替えの早い性格のおかげで、深く悩むことはなかったけれど、それはずっとモーゲンの心にこびりついて離れない小さな影だった。
僕は、アルマークの信頼に応えられているんだろうか。
そのためには、試験なんて落第さえしなければいい、なんてことは言えなかった。
せめて、アルマークの足を引っ張らないくらいの力を示さないと。
それが妙な気負いになっていることには、自分でも気付いていた。
いつもの自分ではない。でも、どうすればいいのか分からない。
進級を占う大事な卒業試験はここまで、妙に空回りしたままで来てしまっていた。
目の前に、石が浮いている。
これを、風で切る。
もう二回も失敗している。
おそらく、次はない。
これ以上の失敗はできない。
そう思うと、うまく呼吸ができなくなった。
それでもモーゲンは魔力を練った。
練れている気はした。
でも、さっきも練れている気はしていた。
けれど失敗した。
これじゃまだ不十分なのかな。
迷いが心をよぎる。
いけない。
そう思った時にはもう遅かった。
集中が、途切れる。
そのとき、がたん、という大きな音とともに一人の生徒が床に転がった。
「ネルソン」
イルミスが顔をしかめてそちらを見た。
「試験中だぞ。余計なことはするな」
「すみません」
ネルソンが赤い顔で体を起こす。
自分が切った石を足で弄んでいるうちに、石に乗っかってしまい、バランスを崩して転んだようだった。
「怪我はないか」
イルミスがネルソンに歩み寄る。
「はい」
ネルソンが恥ずかしそうに答えた。
ばか、とノリシュが小さな声で言う。
一瞬、弛緩した空気が流れた。
思わずほっと息をついたモーゲンの肩を、誰かが叩いた。
振り返ると、アルマークが微笑んでいた。
「モーゲン」
アルマークが囁く。その目が、いたずらっぽく細められた。
「そんな石、さっさと切ってしまって」
アルマークは言った。
「二人でお菓子でも食べよう」
自分を見つめるアルマークの目。
そこに映る、いささかも揺るがない信頼に、モーゲンの息は詰まった。
大丈夫。
肩から、力が抜ける。
うん。僕は、大丈夫だ。
モーゲンは、アルマークにふわりと微笑み返した。
「そうだね。そうしよう」
ぱきり、と音を立てて、石が二つに割れた。
「よし」
イルミスが頷く。
「よかったあ」
モーゲンは天井を仰いで大きく息を吐いた。
それを見て、アルマークとネルソンが顔を見合わせて微笑む。
試験は続く。
少し世界観の違う短編「風の向こう」、書きました。よろしければ読んでみてください。




