意志
いずことも知れぬ暗い森の中。
暗闇の底のような、光のほとんど差し込まぬ中に一人、灰色のローブの男が立っていた。
その右手の中指に嵌められた金色の指輪が、周囲の微かな明るさまでも吸い取るかのようにぬめりと光っている。
指輪の主は、ライヌル。
闇の力を操る魔術師だった。
「ようやく、ここまでこぎつけた」
ライヌルは低い声で呟く。
「イルミス。決着をつける時が来たよ」
そう言うと、手に持つ何かを捧げるようにして頭上に掲げた。
それは、いくつもの宝玉の付いた豪奢な腕輪。
「九つの兄弟石の腕輪よ」
ライヌルは厳かな口調で言った。
「示せ。力を」
その腕輪こそ、ガライ王国の王太子ウォルフから賜った強力な魔法具の一つだった。
ライヌルの声に呼応するように、腕輪が鈍く輝いた。
嵌められていた九つの宝玉がゆっくりと外れる。
赤、青、白、黒、緑、黄、紫。そして、金と銀。
それぞれの色の輝きを放った九つの宝玉が宙に浮き、ゆっくりと変形し、大きくなっていく。
「グラングは愚かな男だが」
ライヌルは呟いた。
「私に面白い視点をくれた」
その眼前で、宝玉はそれぞれに人間の姿を取り始めていた。
「クラス全員。いや、学年全体。考えてみれば、彼らは全て選ばれた子供たちだ。マルスの杖の所有者を鍛え、その絶望とともに刈り取るということは、つまりはそういうことだったのだ」
そんなことを呟きながら変化を見守るライヌルの前に、やがて九人の男女がその姿を現した。
ライヌルの手の中でなおも鈍く輝く腕輪に、彼らの顔がぼんやりと照らし出される。
それぞれの髪と目は、元の宝玉の色を示すかのように各々の色に染まっていた。
「ああ、久しぶりだね」
真っ赤な髪の少年がはしゃいだ声を上げた。
「こうやってみんなで顔を合わせるのは」
「そうね。前の戦いから何年たってるのかしら」
黄色い髪の少女が冷たい笑顔を浮かべてそれに答える。
「人間の寿命って短いから、よく分かんなくなるのよね」
「プラー。リラ。余計な口をきくな」
がっしりとした体躯の青い髪の男が、二人をたしなめるように言った。
「まだ、此度の主との話が済んでおらぬ」
「はいはい」
赤い髪の少年が肩をすくめ、黄色い髪の少女が小さく舌を出す。
彼らの影から、きらめくような金色の髪を持つ長身の男が進み出た。
「お主が、此度の我らの主か」
男は品定めするようにライヌルを見て、そう尋ねる。
低いが、良く通る声だった。
「そのとおりだ」
ライヌルは頷く。
「我が名はライヌル。九色の宝玉の魔術師たちよ。諸君には、私のために戦ってもらう」
「よかろう」
金髪の男は、鷹揚に頷いた。
「我らは術者に従う。ライヌルと言ったな」
そう言って、ライヌルに正対すると、その顔をまっすぐに見た。彼の背後の八人もそれに倣う。
「金のグウィント以下、我ら九名。お主の命により、戦おう」
「期待しているよ」
ライヌルはにこりと微笑んだ。
「もうすぐ学院が戦場となる。君たち九人との戦いは、ノルク魔法学院始まって以来の椿事となることだろうね」
「僕とマルスの杖を鍛えること、ですか」
アルマークは眉をひそめた。
「ライヌルの目的が」
「そうだ」
ヨーログは頷いた。
「四回の罠の内容を考えても、そうとしか思えん節がある」
そう言って、二人の顔を見る。
イルミスはヨーログの隣で、無表情のまま黙っていた。
「君が全力を尽くせばかろうじて突破できる程度の危険性」
ヨーログは言う。
エルデイン。魔影。ボラパ。そして、闇の傭兵。
命の危険ほど、魔術師を短時間で成長させてくれるものはないよ。
アルマークの脳裏に、ライヌルの声が蘇る。
「無論、突破できなくて命を落とすなら、それもまた良しとしたのだろうが」
「なぜですか」
アルマークは尋ねた。
「なぜ、そんなことを」
「思い出してみたまえ」
ヨーログは言う。
「最初の武術大会での襲撃は、明らかにマルスの杖自体を奪おうとする試みだった」
アルマークが不在の時間を狙って、寮の部屋に入り込んでマルスの杖に魔力を注ぎ込もうとしていた銅貨の魔術師たち。
続けて現れた銀貨の魔術師も、アルマークのことは単なる杖の運び手くらいにしか見ていなかった。
「……はい」
アルマークが頷くのを見て、ヨーログは言葉を続ける。
「だが、その後に君を襲った三つの罠は、どれもマルスの杖ではなく所有者である君本人に狙いを定めていた」
確かにその通りだった。
図書館、泉の洞穴、夜の森。立て続けにアルマークを襲った三つの罠。
いずれも危険な戦いだったが、アルマークがマルスの杖の力に頼ったのは泉の洞穴でのレイラとの共闘の時だけだった。
「なぜ君本人を狙ったのだろうか。君の命を奪おうとしたのか。それならば、もっとえげつない方法をとることもできた」
ヨーログはそう言って、アルマークを見る。
「だが、そうはしなかった」
「まどろっこしい方法をとるな、とは思っていました」
アルマークは認めた。
「ライヌル本人や、クラン島で出会った魔術師のように、とても強い力を持った闇の魔術師がいるのに、出てこない。それに、それぞれの罠が象徴するものも、結局はあまりよく意味が分かりませんでした」
「それぞれの罠の意味については、私も少し突っこんで考えてみた」
イルミスがそう口を挟む。
「だが、ここで話せるほどにははっきりしない。いずれにせよ、ライヌルにとっては意味があっても、君たちに直接関係するところではないし、そこまで重要なことではないだろう」
ヨーログはその言葉に小さく頷くと、話を戻した。
「三つの罠が破られた後で、今度はライヌル本人が自ら姿を現したね。魔術祭でのことだ。あのとき、彼は何と言っていたかな」
魔術祭の初日。
ウェンディと待ち合わせをした、森へ続く道の途中の岩の前。飴を手に、灰色のローブをはためかせ、アルマークとウェンディの前にライヌル自身が飄々と姿を見せたのだった。
「あの時あの人は蛇の罠のことを、僕がマルスの杖の所有者にふさわしい実力を手に入れられるよう、訓練を施してあげている、と言っていました」
アルマークは答える。
「でも僕は、そんな出まかせを信じてはいません」
「出まかせのように話してはいたが、その実、それが本心だったということだ」
ヨーログは言った。
「ライヌルはウェンディの中の“門”の開き具合を確かめるとともに、アルマークがマルスの杖をどこまで使いこなせるようになったか、その習熟ぶりを確かめに来たのだろう。無論、あわよくば君の手から杖を奪ってしまいたいという下心もあっただろうがね」
「僕を鍛えて、マルスの杖を使いこなせるようにして、それでどうしようっていうんですか」
ヨーログの言葉の意味が分からず、アルマークはわずかに声を荒げた。
「あの人や、闇の魔術師たちに何の得があるんですか」
「所有者がその力を強め、杖との結びつきを強固にすることは、もちろん彼らにとっては面白くない事態だ」
ヨーログは認めた。
「だが、十分に杖の力を引き出せるようになった所有者を、自分たちの側に付ける方法があるとすれば?」
その青い目が、きらめく。
「鍵とその護り手を、同時に手に入れることができるとすれば?」
「僕が闇の側に付くということですか」
アルマークは首を振った。
「あり得ない。そんなことは、絶対に」
そう言って、隣のウェンディを見る。
「僕が、ウェンディを裏切るなんて」
ウェンディも真剣な顔で頷き返す。
「イルミス先生」
ヨーログはイルミスを振り返った。
「ライヌルの、高等部での研究は何だったかな」
「はい」
イルミスは静かに口を開く。
「肉体と魂の分離。その方法」
その言葉に、アルマークは目を見開く。
「図書館でも泉の洞穴でも、罠は君の魂に触れてきたそうだね」
ヨーログはアルマークに視線を戻すと、そう言った。
「特に、図書館の罠は君の魂を乱暴に抜き取るものだったと。だがライヌル自身が本気を出せば、あんなに稚拙なものではなく、君の肉体と魂を遥かに速やかに分離することができるだろう。そして、彼のもとにはマルスの杖と、それに十分に馴染んだ君の肉体が残ることになる」
「ライヌルはわざわざ罠を仕掛けて僕を鍛えていた、ということですか。そしてそれは、鍛えた後で僕の肉体だけを手に入れるためだと」
収穫を待つ農夫のように、時節をじっと待ち。
アルマークの状態を観察し、そして十分に育ったと判断したところで、その魂を刈り取る。
そういうことなのか。
「そうだ」
ヨーログは頷く。
「次の襲撃がいつになるのかは分からんが」
そう言って、目を伏せた。
「その時こそが、本番。ライヌルが真の牙を剥くときだろう」
「させません」
凛とした声が、室内に響いた。
「そんなことは、私が絶対にさせません」
ウェンディだった。
「アルマークの身体はアルマークだけのものです。その魂も、他人が勝手に触れていいものではありません」
ウェンディの声は怒りで震えた。
「まして、闇に穢れた手なんかで。そんなことは絶対に許さない」
「そうだな」
ヨーログは静かに頷く。
「ウェンディ。君の言う通りだ」
それから、ヨーログは両手を組んで二人を見た。
「私たちがライヌルの罠の経過をこれまである程度見守ってきたのは、アルマーク。君がその類まれな力でそれに対処できると感じていたからだ。そして事実、君は罠を打ち破り、そのたびに成長してきた」
そう言って、小さく頷く。
「だが、クラン島の話を聞いて、事情が変わったことが分かった。ライヌル以外の闇の魔術師が介入し、そしてライヌルも本当の狙いを見せてきた。そうであれば話は別だ。我々は本気で対処をせねばならん」
「学院長先生。僕は、戦いを否定しません」
アルマークは静かに言った。
「命懸けの戦いで僕自身が成長した。ウェンディやモーゲンや、仲間たちと絆を深めることができた。それは、否定することではないと思います」
僕は、北の傭兵の息子だ。命を懸けた戦いを否定するはずがない。
北の男が戦士と認められるのは、そして仲間を戦士と認めるのは、いつだって命懸けの戦いの後なのだ。その機会は、本来平和な南では得られないはずだった。
ライヌルの言葉には、一面の真理がある。
それは認める。
認めたうえで。
「でも、だからこそ、あいつらの思い通りにはなりません」
アルマークは自分の言葉に力を込めた。
「僕らは、僕らの戦いをする」
そう言って、ウェンディを見る。
「そうだね、ウェンディ」
「ええ」
ウェンディは頷く。
「私とアルマークは、自分たちの正しいと思う戦いをします。絶対に誰かの駒にはなりません」
強い目。それを見ると、アルマークはいつも思う。
ウェンディは、きれいだ。
「“門”も“鍵”も、とても重要なことですが」
ウェンディは言った。
「私たちは私たちです。そこは絶対に揺るがせてはいけない」
自分に言い聞かせるように。アルマークに確かめるように。
「うん」
アルマークが頷いたときだった。
どんどん、と学院長室の扉が乱暴にノックされた。
イルミスが片眉を上げる。
ふむ、とヨーログは頷き、椅子の背もたれに身体を預けた。
「入りたまえ」
その呼びかけに応じるように、扉が開く。
「失礼します」
そう言って入ってきた生徒を振り返り、アルマークは驚きの声を上げた。
「ウォリス」
ウォリスだけではなかった。金髪のクラス委員の後ろからはぞろぞろと、2組のクラスメイト達が入ってきた。
ネルソン、ノリシュ、レイドー、リルティ、セラハ。
キュリメ、バイヤー、ピルマン、ガレイン、デグ。
そしてレイラ。
最後に入ってきたモーゲンが扉を閉める。
「3年2組が全員で、何の用かね」
ヨーログが尋ねる。ウォリスは首を振った。
「いえ。全員ではありません。トルクがいませんので」
そう訂正してから、ウォリスは声を改めた。
「ですが、トルクを含めた3年2組全員の総意を、学院長先生に伝えに参りました」
「ふむ」
ヨーログは頷く。
「聞こう」
「ウェンディとアルマークのことは、休暇中に聞きました」
ウォリスは言った。
「僕たちは、二人とともに戦います」
きっぱりと言い切ったその姿は、クラスの頼れるリーダーそのものだった。
「これは、彼ら二人だけの戦いではない。闇の魔術師に好きに蹂躙されるなど、誇り高きノルク魔法学院にあってはならないことです。僕たちは一人の魔術師として、二人を狙う闇と戦います」
そう言って、ウォリスはヨーログを真っ直ぐに見た。
「これは、僕たちの戦いです」
その言葉に、ウォリスの背後の生徒たち全員が頷く。
「みんな」
ウェンディが声を詰まらせた。
「ありがとう。ごめんなさい」
それだけ言うと、言葉が続かなくなった。
「泣くなよ、ウェンディ」
ネルソンが明るい声で言った。
「俺たち全員で話し合ったんだ。他人事みてえなままじゃ、あいつらには絶対勝てねえ。自分たち一人一人が覚悟を決めねえと」
その言葉にピルマンが頷く。
「そうだね」
「ネルソンの言う通りだわ」
ノリシュが珍しくネルソンに同意した。
「怖いとか、嫌だとか、そんなこと言っていられないでしょ。だって大事なクラスメイトが命を狙われているんだから」
ノリシュはそう言って、頷くリルティの肩を抱いた。
「僕たちを舐めている連中に、思い知らせてやらないとね」
レイドーがそう言って微笑み、バイヤーが真顔で頷く。
「うん。次は目にもの見せてやるんだ」
「誰かが陰で苦しんでたら、楽しく笑えないしね」
「そうだね。笑うなら、クラス全員で笑いたい」
セラハの言葉に、キュリメが答える。
「闇の魔術師と戦える機会なんて滅多にねえんだから、逃す手はねえだろ」
ガレインが、トルクの声で言った。
「って、トルクが言ってたぜ」
デグがそう言ってにやりと笑う。
「ありがとう、みんな」
アルマークは立ち上がって、仲間たちに向き直った。
「嬉しいよ。本当に」
アルマークの横にウェンディも並び、頷く。
「わざわざ、私たちのために。試験前なのに」
「みんなに、もう一度ちゃんと話をしたんだ」
そう言ったのは、モーゲンだった。
「勝手なことをしてごめん。でも、僕からもみんなに話しておきたかったんだ」
そう言って、紅潮させた顔を二人に向ける。
「僕らだって、当事者なんだってことを。みんな、真剣に聞いてくれたよ。分かってくれた」
「うん」
アルマークは頷いた。
「ありがとう。モーゲン」
モーゲンは照れたようにうつむく。
「さっきから他のみんなも言っているけれど」
そっけない声でそう言ったのはレイラだ。
「別にあなたたちのためじゃないの。これは、私たち自身の戦い。だから、あなたたちが私たちに感謝する必要なんてないのよ」
「……うん」
それでも何か言いたそうなアルマークを見て、レイラは微笑んだ。
「ありがとう、なんて言うくらいなら、ほかに言うべき言葉があるでしょ」
その言葉に、アルマークはウェンディと顔を見合わせる。
涙のいっぱいに溜まったウェンディの目を見つめ、一瞬の逡巡の後。
二人は仲間たちを見た。
「みんな」
アルマークは言った。
「僕らと一緒に、戦ってくれ」
その言葉に仲間たちから歓声が上がる。
「学院長先生、イルミス先生」
ウォリスが言った。
「これが僕たちの意思です。3年2組は」
そう言って、背後の仲間たちを手で示す。
「全員で、闇と戦います」




