(閑話)薬草園の君 後編
「初めて、この飴というものを食べた時」
そう言いながら、ライヌルは飴玉を一粒口に入れる。
「こんなうまいものがこの世にあるのかと思った。まるで、世界の幸せを全て集めて、ぎゅっと凝縮させたような」
その顔がすでに幸せそうに綻んでいるのを見て、イルミスとセリアは微笑む。
「初等部の、初めての魔術祭でのことだったな」
イルミスが言った。
「覚えているよ。君を露店に連れて行ったのは、私だった」
「そうなの?」
セリアが二人の顔を交互に見る。
「イルミスが?」
「ああ」
ライヌルが懐かしそうに目を細めた。
「珍しい店が校内にずらっと並んでね。見たこともない食べ物の匂いがあちこちでして。だが、私は何も買わずにそれを眺めていた」
「どうして?」
セリアが怪訝そうな顔をする。
「あなたもお小遣いくらいは持っていたでしょ」
「ああ。持っていた」
ライヌルは頷く。
「だが、私にはお金の使い方が分からなかった。そもそも私はここに来るまで、何かを買えるほどの金を持ったことがなかった」
その言葉に、セリアはライヌルの出身を思い出したように美しい眉をひそめた。
「そう……」
「何も分からないまま学院長にこの学院に連れてこられて、毎月小遣いは与えられていたがね。それをどう使えばいいのかも分からない。ほかの子たちに使い方を尋ねるのも嫌だった」
ライヌルはそう言って、イルミスを見た。
「だが、あの日、この男が私の目を開いてくれたんだ」
「大げさだな」
イルミスは首を振って苦笑する。
「私はただ、一緒に飴を買おうと誘っただけだ」
「飴は、もちろん知っていた。だが、ほかのいい匂いのする料理に比べて、飴はいかにも地味だった」
ライヌルは思い出したように笑った。
「使い方は分からないが、お金が大事なものだということは知っていたからね。なぜわざわざこれだけ色々な物がある中でそんなものを買うのかと思ったよ」
「長持ちするからな、飴は」
イルミスは答える。
「一番長く楽しめる」
「あの時も君はそう言った」
ライヌルは笑う。
「それで、まあそんなものかと私も納得したんだ。生まれて初めての買い物の練習にするか、と」
「そんなことを思っていたのか」
イルミスも笑った。
「確かに、気乗りしない顔をしていたな」
「あの頃は君ともそんなに親しくはなかったしね」
ライヌルは頷く。
「そういえばそうね」
セリアが口を挟んだ。
「あなたたち二人、タイプも違うのに仲がいいのがいつも不思議だったわ」
「飴が結び付けた友情さ」
ライヌルが答え、イルミスが、それだけじゃないだろう、と言って笑う。
「私が買ったのは、きれいな星の形をした飴だった」
ライヌルは、その時の感動を思い出すように目を細める。
「まるで夜空の星がそのまま落ちてきたかのような。それを舐めた時、私の人生に初めて光が差したんだ」
そう言いながら、ライヌルは手を伸ばしてもう一つ飴玉を手に取った。
「私はこういうものを食べることのできる人生を歩もう。そう思ったんだ」
「いちいち大げさだな、君は」
「そんなことがあったのね」
セリアはそう言って、二つ目の飴を口に入れたライヌルを見て微笑む。
「どうぞ、たくさん食べて。あなたにはこれからも飴をたくさん食べることのできる人生が待っているわ」
「セリア。君は女神だな」
ライヌルは嬉しそうに言う。
「“薬草園の君”ではなく、“飴籠の君”と呼んでもいいかい」
「どうぞ、お好きなように」
優しく微笑んだセリアがそう答えたときだった。
外で、何かがぶつかるような音がした。
「む」
イルミスが表情を改める。
「ずいぶん、大きな音がしたぞ」
「薬草畑の方だわ」
セリアの顔が曇る。
「行ってみるか」
ライヌルがそう言いながら、飴玉を二つローブの袖に入れた。
「ああ、大変」
真っ白いウサギがおいしそうに、生えたばかりの薬草の新芽をかじっているのを見て、セリアが声を上げた。
「どこから入ったのかしら。ウサギなんて」
そう言いながら駆け寄ると、ウサギはさっと逃げ出した。
「セリア、ウサギはすばしこいからね。君の魅力でも捕まえるのはなかなか難しいぞ」
そう言いながら、ライヌルが右手を上げる。
「捕まえるなら、魔法で」
だが、その瞬間ウサギの身体の周りに電気のようなものが走り、ライヌルの魔力が跳ね返された。
「むっ」
ライヌルが目を見張る。
「イルミス。ただのウサギじゃないぞ」
「ああ」
イルミスは頷く。
「そうだろうな」
「気付いていたのか」
「獣除けの魔法が施された柵の中に、ただのウサギが入ってこられるわけはない。さっき聞こえたのも、このウサギが柵を破った音だろう」
「どういうこと?」
振り返るセリアの目の前で、またウサギが芽をかじり始める。
「ああ、もう」
セリアは右手を振り上げた。
「だめ。待ちなさい」
しかしウサギは白い毛皮を揺らして畑を逃げ回る。
「ウサギではないのなら、あのウサギの形をしたものは何だろうね」
ライヌルは腕を組んだ。
「ここで美女とウサギの追いかけっこをしばらく楽しむのも悪くはないが」
「さすがにそれは薄情というものだろう」
イルミスが前に出ると、ライヌルも微笑んでその隣に並ぶ。
「冗談だよ。飴をご馳走になった分くらいは働くさ」
「こら。そっちはダメ」
叫びながらセリアが必死にウサギを追いかける。
「向こうには貴重な薬草がある」
イルミスは言った。
「ライヌル。ウサギをこちらにおびき寄せてくれるか」
「お安い御用さ」
ライヌルはそう言いざま、両手を動かした。
流れるような複雑な動きとともに、跳ねて逃げるウサギの眼前に巨大な狼が現れた。
ウサギは大慌てで向きを変え、追いかけていたセリアの脚の間を駆け抜けて、イルミスたちの方へと戻ってくる。
「ほら。来たよ」
「ありがとう」
イルミスは腕を振るう。
ウサギの周囲の地面が盛り上がった。
ウサギ本体が魔法を弾くのなら、その周囲を固めてしまえばいい。
土の壁はたちまちウサギを囲い込んだ。
動けなくなったウサギを見て、ライヌルが顔をしかめる。
「前に、こんなことをした覚えがあるぞ」
「それはそうだろう」
イルミスは歩み寄ると、自分を囲んだ高い土の壁に向かってぴょんぴょんと跳ね続けているウサギに手を伸ばした。
その指先が白い毛皮に触れる。イルミスから直接魔力を流し込まれた瞬間、ウサギの姿が消えた。
「またあいつか」
覗き込んでいたライヌルが笑う。
「ああ」
イルミスは、ウサギが姿を変えたものを拾い上げた。
それは、一本の木の棒。
カリュカルの杖だった。
イルミスとライヌルがセリアの誘いを受けて薬草園を訪れたのは、それから数日後のことだった。
「いらっしゃい」
セリアは、ドアから並んで顔を出した二人に微笑んだ。
テーブルを囲んでしばらく談笑した後で、セリアが飴玉の入った籠を持ってきた。
「はい、どうぞ」
「これだよ、これ」
ライヌルが笑顔で手を伸ばす。
「セリアの研究室に来たら、これが楽しみでね」
そう言ってさっそく飴玉を口に入れたライヌルが、あっ、と言ってセリアを見た。
「これは」
「どう?」
セリアが微笑む。
ライヌルはその顔を見つめたままで答えない。
「果汁が入っているな」
そう答えたのは、ライヌルに続いて飴玉を口に入れたイルミスだ。
「セリア。君が作ったのか」
「ええ」
「おいしいよ」
「ありがとう」
「それだけじゃないぞ、イルミス。これは」
ライヌルがようやく言った。
「薬草だ」
そう言って、信じられない、という風に首を振る。
「苦みがほとんど取り除かれているから全く気にならないが、この飴には薬草が入っているんじゃないかい、セリア」
「ええ」
セリアは頷く。
「この間、ウサギを捕まえてくれたお礼に作ったの」
「王家に献上する薬湯を作るときと同等の技術を使ってるじゃないか」
ライヌルは味わうように飴玉を口の中で転がした。
「僕らのために、わざわざ」
「あなたが疲れているのが、私も気になっていたから」
セリアはそう言って、気遣わし気にライヌルを見た。
「これ、たくさん作ったの。ぜひ、持って帰って。研究で疲れた時に食べてね」
「ありがとう」
感動したように、ライヌルは言った。
「訂正するよ、セリア」
「え?」
「君はやっぱり、“薬草園の君”だ」
その言葉に、セリアが照れたように笑う。
「そうだな」
イルミスは頷いて、ライヌルの肩を叩いた。
「私の分も少しは残しておいてくれよ」
「いやだね」
冗談めかしてライヌルが首を振る。
「セリアは私のために作ってくれたんだ。君は君で作ってもらいたまえ」
「まだたくさんあるから」
セリアは笑った。
「けんかしないで」




