躊躇
レイズの馬がギルフィン目がけて突っこんでくる。
その速度は、いささかも揺るがない。
「ぬうっ」
ギルフィンは前方に目を走らせた。
マハドは既に馬を駆って部隊の指揮に向かってしまった。
頼みのグナ・エレはわずか一刀で首を切り落とされた。
いまや、ギルフィンは一人だった。
たった一人で、この悪鬼のような戦士と対峙せねばならない。
部下も、魔法も、この男の前では何一つ役に立たなかった。
もはや、ギルフィンとレイズとの間を遮るものは何もない。
心臓を鷲掴みにされるような恐怖に晒されながら、それでもギルフィンは己の中に残った魔力をかき集めた。
戦場に身を置き続ける日々が、ギルフィンに諦めるという惰弱な選択肢を選ばせなかった。
だが、先ほど龍の幻影を作ってしまったせいで、今すぐに使える魔力はほとんど残っていない。
最初から、この男一人に的を絞るべきだったのだ。
ギルフィンは己の過ちを悔やむ。
他の敵など、後からどうとでもできた。この男さえ止めることができたなら。
駆け寄ってくるレイズの背後で、グナ・エレの巨体が地面に投げ出される。
それを見て、不意にギルフィンは感じた。
独りだ。
自分が今、この戦場でたった一人になってしまったという感覚。
俺は、独りだ。
ギルフィンは認めた。
だが、それがどうした。
ギルフィンの心にかつての強い意志が戻ってきた。
母国が滅び、天涯孤独となった後。
俺は、独りだった。
頼れるのは、己の学んだ魔術と、強い心だけ。
ずっと、そうだったのだ。
傭兵団長として成功し、部下も増えて、そのせいで少し忘れかけていた。
だが。
ギルフィンは杖をかざす。
恐れは、消えていた。
思い出した。
俺は本当の意味で、誰かを頼ったことなど、今までに一度もない。
俺はギルフィン。
戦況を変えたければ、一人で変える。
誰かの力など頼ることなく。
いつも、そうしてきたのだ。
今日もそうするだけのことだ。
ギルフィンの杖が輝き、地面から氷の壁がせり上がった。
レイズの突進を防ぐように。
だが、無駄だった。
氷の壁が上がり切るより速く、馬が跳んだ。
跳ぶだろうな。
ギルフィンは歯を食いしばる。
貴様なら、必ず跳ぶと思った。
ギルフィンの杖が再び光をまとった。
だが、跳んだら降りねばならないのは、貴様とて同じだ。
いかに優れた駿馬といえど、背に羽は生えていないのだから。
馬の高さから、着地点は見えた。
ギルフィンの目の前、七歩の位置。
そこに、着地と同時に全力の気弾の術を撃ち込む。
初等部で習う程度の初歩的な魔法だったが、それとて使いようだ。
ギルフィンは全身から搾り取るようにして、魔力を杖に注ぎ込む。
生死の境目。
そんなところは今まで何度でも越えてきた。
この危機も、越えてしまえばただの過去よ。
全てを糧にして、俺は高みに上る。
だが、その瞬間、黒い影が太陽を遮った。
ギルフィンは目を見開く。
跳躍した馬の上。
さらにそこから、レイズが身を躍らせていた。
馬上のギルフィン目がけて。
血に塗れた剣が鈍く輝く。
「この」
化け物め。
魔力を極限まで注いだせいで、とっさに身体が動かなかった。
レイズの身体とともに、剣が降ってくる。
ギルフィンは死を覚悟した。
その時、横から強く身体を押され、ギルフィンは馬から投げ出された。
冷たい大地に転がりながら、自分を押した相手を見る。
レイズの前に立ちふさがるように飛び出してきたのは、黒いローブの少年だった。
ギルフィンはとっさに名前が思い出せなかった。だが、その手に握られたスザリイマヅの杖を見て思い出す。
ノアル。
確か、そんな名前だった。
なぜ、ここにいる。
魔道部隊編成のために集められた孤児たちの中でも、他よりも見どころがあったその少年に、ギルフィンはよく声をかけてやっていた。
最初に炎の術を成功させたノアルに、褒美として自分の使っていた杖を授けもした。
特に深い意味などない。自分はもう新たな杖を使い始めていたので、古い杖は不要になったが、捨てるよりは部下に使わせた方がいいと思った。ただそれだけのことだった。
だが、杖を受け取ったときの少年の顔。ギルフィンを見るその目。
少年はまるで実の父親を見るかのように、ギルフィンを尊敬の眼差しで見上げたのだ。
ギルフィンが落馬したことで目標を失ったレイズが、空中でギルフィンの馬を蹴り飛ばした。
馬は怯えたようにいななき、走り出す。
着地したレイズと身を起こすギルフィンの間に飛び込むようにして、ノアルが立ちはだかった。
こいつは前線にいるはずではなかったのか。
そんな疑問がギルフィンの頭をよぎる。
だが、いずれにせよ未熟な魔術師一人立ちはだかったところで、レイズを一瞬でも止められるわけがなかった。
戦士の一個部隊も、ギルフィンの魔法も、褐色の超戦士も。
誰もこの男を一瞬たりとも阻むことができなかったのだから。
たちまち血煙とともに倒れるノアルの姿を予想する。
だが、意外な光景にギルフィンは目を見開いた。
剣を振ろうとしたレイズが、ノアルを見て一瞬、動きを止めたのだ。
理由など分からなかった。
しかしその瞬間を見逃すほど、ギルフィンの戦歴は浅くはなかった。
「がああっ」
叫び声とともに杖を突き出し、込めた魔力を戦士の脇腹目がけて叩き込む。
気弾の術。
杖を持ったままのギルフィンの右腕が宙を舞うのと、ノアルの額に矢が突き立ったのはほぼ同時だった。
ノアルを見たレイズの躊躇は、ほんのわずか一瞬だった。
だがそれが致命的な隙を生んだ。
ギルフィンの渾身の気弾の術が叩き込まれる。
はずだった。
杖から空気の塊が放たれる寸前、ノアルの額に矢が突き立った。それと同時にレイズがノアルの身体を押しのけるようにして踏み込む。その腕が信じがたい速さで振り抜かれた。
剣は、突き出したギルフィンの右腕を正確に切り裂いた。
それでも効果を発揮した不完全な気弾の術が、レイズを後方に吹き飛ばす。
ギルフィンは矢を放った男を見て、顔を歪めた。
「黒狼」
ギルフィンの視線の先、自軍のさらに向こうで、ジェルスが弓を下ろすところだった。
レイズが素早く立ち上がる。
ギルフィンは左手で自分の切り落とされた右腕を掴むと、それを触媒に最後の魔力を込めた。
空間転移。
右腕が、握ったままの杖ごと弾けるようにして砕け散り、吹き付けた風とともにギルフィンの姿が消える。
消える直前、ギルフィンは地面に倒れたノアルを見た。
ノアルの虚ろな目は、じっとギルフィンを見つめていた。
「危なかったな」
マハドの陣を切り裂いて、立ち尽くすレイズのもとに駆け寄ったジェルスは、開口一番そう言った。
「お前がギルフィンに突っ込んでいった時、魔術師が一人、戦列に入らずにギルフィンの方に駆け戻っていくのが見えた」
ジェルスはそう言って、滴る汗を拭いもしないレイズの顔を見た。
「あいつは、お前には討てねえ気がしたんだ。だから矢を射った」
「俺も焼きが回った」
レイズは低い声で言った。
「戦場で、つまらねえことを思い出した。そのせいでギルフィンを逃した」
「似ていたか」
「いや」
レイズは首を振る。それから思い直したように微かに口元を歪めた。
「似てたな」
「ほう」
目を見張るジェルスに、レイズは付け加えた。
「目だけ、な」




