魔術師
冬の休暇が終わった。
今日から授業が再開する。
朝。
アルマークは、少し早めに寮を出た。
北出身のアルマークには、南の冬の冷たい風もちょうどよく、心地よかった。
授業を数日受ければ、いよいよ卒業試験だ。
もうわずかな時間でも無駄にはできない。
だが、今日の放課後には大事な用事があった。
「学院長先生への報告には、一緒に行きましょう」
昨夜のことだった。
アルマークの部屋を訪ねてきたウェンディがそう言った。
「あなたの右手のこと。私たち全員が巻き込まれてしまったこと。先生にきちんと話しましょう」
ベッドに入る前だからだろう。仕立てのいいゆったりとした服を着たウェンディが、真剣な顔でアルマークを見る。
「うん」
アルマークは頷いた。
「そうだね、それがいい」
そう言って、ちらりと部屋の中のマルスの杖を振り返る。
「罠は終わったかもしれないけど、ライヌルの狙いが分からない。あの人がこれで諦めるわけはないしね」
「ええ」
ウェンディは目を伏せる。
「もしかしたら、次の段階に行くのかもしれない」
「次の段階」
アルマークはウェンディの言葉を繰り返す。
「……何の?」
「分からない」
ウェンディは首を振る。
「分からないけど、そんな気がするの。今までと違うことが始まるのかもって、そんな予感だけが」
その不安そうな顔に、アルマークの胸は詰まった。
「始まるのかもしれないね」
アルマークは神妙な顔で頷く。
「ライヌルたちの狙いは分からない」
そう言って、ウェンディを見た。
「でも、大丈夫だよ。みんなもいる。それに」
ウェンディを勇気づけるように言葉に力を込める。
「僕たちは中等部の生徒になるんだから」
「中等部」
ウェンディも呟く。
「……そうだね」
小さく息を吐く。
「ごめんなさい。試験が近付いて、私も少し神経質になっているのかもしれない」
そう言ってから、顔を上げてアルマークを見る。
「でも、学院長先生のところにはちゃんと行こうね」
「もちろん」
アルマークは頷く。
「ライヌルのことだけじゃない。別の魔術師が出てきた話もしないといけないしね」
「うん」
ウェンディは小さく頷く。
「それに、ちゃんと見たいし」
ぽつりとそう呟く。
「見たい?」
アルマークは聞きとがめた。
「何をだい」
「あなたの右手の中」
ウェンディは答える。
「きれいに、蛇が一匹もいなくなっているところ」
「ああ」
アルマークは微笑んで自分の右手を上げてみせる。
「大丈夫。感じるよ」
そう言って、左手で右手の甲を叩く。
「呪いは解けた。ウェンディ。君や、みんなのおかげで」
「うん」
ウェンディは頷く。
「でも、それをちゃんと見たいの」
「学院長先生の前じゃないと、見られないのかな。ほら、こうして明りに透かせば」
アルマークが冗談めかして右手を掲げると、ウェンディが手を伸ばしてその手を取った。
「え?」
ウェンディはアルマークの右手を挟むようにして両手で包む。
「ウェンディ?」
手の平の岩のように固くなった皮膚を、ウェンディに触られることへの抵抗はもうあまりなかったが、アルマークはそれでも戸惑って声を上げた。
「しっ」
ウェンディは右手の人差し指を唇に当てて、そっと息を吐くようにアルマークの動きを制すと、また両手でアルマークの手を挟む。
右手の中を確認するかのように、しばらく無言でそうしていたが、やがて手を離して顔を上げた。
「やっぱり、分かんないね」
そう言って、照れたように微笑む。
「魔力の流れとか、そういうところから分かるのかと思ったんだけど」
「うん」
アルマークは頷く。
「僕も何回か試してみたことがあるけど、だめだった」
「やっぱり学院長先生じゃないとダメなんだね」
アルマークとウェンディは顔を見合わせ、お互いの顔が赤くなっているのに気付いて少し笑う。
「じゃあ、明日の放課後一緒に学院長先生のところに行きましょう」
「分かった」
アルマークが頷くのを見て、ウェンディはドアから離れた。
「明日また教室でね」
「うん。お休み、ウェンディ」
「お休み」
ウェンディが手を振って廊下を歩き去っていくのを見送ってから、アルマークはもう一度自分の右手を見た。
蛇は、おそらく消えた。
けれど。
アルマークは首を振って、そっとドアを閉めた。
「今朝は早いな、鍛冶屋の息子」
校舎までの道を歩いていると、朝の空気を破るように後ろから皮肉めいた声がした。
振り返らなくても分かる。
「おはよう、アイン」
「いよいよ卒業試験だぞ」
アインはアルマークの隣に並び、そう言った。
「準備は大丈夫か」
「うん。まあ、全力を尽くすよ」
微笑むアルマークを見て、アインは口元を緩めた。
「君は試験を受けるのもまだ二回目だしな。たまには僕がアドバイスをしてやるか」
「試験のアドバイスをかい」
アルマークは目を見張る。
「成績優秀な君からアドバイスをもらえるなんてありがたいな」
「まあ、君にあまりいい成績を取られても面白くないが」
アインは、そう前置きしてからアルマークを見た。
「いいか。試験で迷ったら、今日までの生活を思い起こすことだ。この学院でのことを。全ての試験の答えは」
アインは、きっぱりと断言した。
「その中にある」
「今日までの生活の中に、かい」
アルマークが目を瞬かせると、アインはにやりと笑う。
「当たり前だろう。初等部の卒業試験なんだ。答えは初等部の生活の中にあるに決まっている」
「なるほど」
「君の初等部生活は一年しかなかったが、それでも三年分の密度はあっただろう」
アインはアルマークの肩を叩いた。
「僕が認めてやる。試験の答えは全て、君のこの一年間の中にある」
講堂に並んだ三年生たちの顔を壇上からゆっくりと見回し、ヨーログが目を細める。
そうすると、しわの中に表情が埋没したようになってしまう。
「おはよう、諸君」
ヨーログは言った。
決して大きくはなかったが、張りのあるその声は威厳を伴って生徒たちの耳に届く。
おはようございます、という生徒たちの元気な声に、ヨーログは頷く。
「もうすぐ試験だね」
そう言って、ヨーログは生徒たちの顔をもう一度見渡した。
うへえ、とおどけた声を上げたのはネルソンだ。周りでくすくすと笑い声が上がる。
「うむ。試験は嫌なものだね」
ヨーログも笑顔で頷いた。
「人に自分の力を測られ、周囲と比べられるというのは愉快なことではないからね」
それから、ごほん、と小さく咳払いをする。白い髭が揺れる。
「それでは、なぜ試験をしなければならないのか」
その表情が改まった。
青い目が、一瞬、きらりと輝く。
「魔術師というものは」
「魔術師ってのは」
唸るようなジェルスの言葉に、レイズは振り返った。
ジェルスはちょうど馬上から唾を吐いたところだった。
「本当にどうしようもねえ連中だな」
「そりゃそうだろ」
レイズは肩をすくめる。
「北で魔術師をやろうなんてやつらが、まともなわけがねえ」
その言葉に、ジェルスはちらりと何か言いたそうな顔をしたが、レイズは構わず言葉を継いだ。
「ガドルは、何て言ってるんだ」
黒狼騎兵団の幹部の一人、ガドルは偵察部隊を引き連れて本隊を離れていた。
数日前から、黒狼騎兵団の行軍につかず離れずの奇妙な動きをしている一軍があった。
ガドルからの報告でその正体を知ったジェルスの顔が曇ったのも無理はない。
ただの木っ端傭兵団や、ましてや野盗などではなかった。
その、黒狼騎兵団の戦士たち同様に黒い鎧に身を包んだ傭兵たちは、北でも異色の存在として名を馳せていた。
ギルフィン魔道傭兵団。
北で唯一の、魔術師が団長を務める傭兵団だ。
北の戦場にも魔術師たちは時折姿を見せるが、ギルフィンの力は彼らとは隔絶していた。
ノルク魔法学院の出身者であるギルフィンに与えられた二つ名が、彼の力をはっきりと物語っていた。
“戦況を変える者”。
それがギルフィンの二つ名だった。
「いまだに邪魔なところをうろうろしてやがるってよ」
ジェルスは言った。
「のろまや間抜けがもたもたしてるわけじゃねえ。あれは」
「わざと、か」
レイズはジェルスの言葉を引き継ぐ。
「それはつまり」
黒い鎧の一軍は、はっきりと敵対的な行動をしてくるわけではない。
だが、“蠍の盟約”に従いノルン方面へと急ぐ黒狼騎兵団の神経を逆撫でるように、要所要所でちらちらと姿を見せる。
「付いたんだろうよ」
ジェルスは吐き捨てた。
「蛇の側に」




