覚悟
「そいつは、負け犬だ」
その言葉に、アルマークは目を見張った。
「どうしたんだ、トルク」
「何がだ」
トルクは噛み付くように言う。
「負け犬を負け犬と言って何が悪い」
「ライヌルのことを言っているわけじゃなさそうだね」
アルマークは眉をひそめた。
「君は何に怒ってるんだい」
「うるせえ」
トルクは吐き捨てる。
「何だっていいだろうが。負け犬は負け犬だ」
それに答えず、アルマークはトルクの顔を探るように見た。
「僕も、この一年で分かったことがある」
「あ?」
「君についてだ」
アルマークは微笑む。
「君がそういう顔で乱暴なことを言うのは、本心が別にあるときだ」
その言葉に一瞬呆気にとられた後、トルクは顔を赤くして吼えた。
「てめえ」
本当にアルマークに噛み付きそうな顔で捲し立てる。
「ふざけんじゃねえ。わけの分からねえことを言うな」
「わけは分かるよ」
アルマークは澄ました顔で答える。
「そういうときの君にはね。きっと自分の中で認めたくないものがあるんだ」
「認めたくないものだと」
「ああ」
アルマークは頷き、でも、と続けた。
「認めたくないっていうことは、結局はもうそれを認めているのと同じだからね。だから腹が立つんだ」
トルクが目を見開く。
「僕にも分かる」
アルマークは頷いてみせた。
アルマークにも苦い経験があった。
自分の方がガルバよりも先に戦場に立った。
二つ名持ちの傭兵の首こそ獲れなかったが、それでも黒狼騎兵団にやけに強いガキがいる、という噂はほかの傭兵団にも伝わった。
12歳ともなれば戦場で一人前の戦士として扱われるのが普通の北の地でも、それは破格の早さだった。
だが、それでも父が傭兵に向いていると認めたのは、おそらくガルバの方だった。
その事実をアルマークは認めたくなかった。
しかし、認めたくないということはすでに本心では認めてしまっているということだ。
僕にはガルバのような考え方はできない。
そして、僕の考え方とガルバの考え方、どちらが父に近いのかと言われれば、それはきっとガルバの方なんだ。
思い出すと今でも胸の古傷がうずく。
アンゴルの槍は、まだ抜けていない。
「そうだろ」
アルマークの言葉に、トルクは歯を剥き出して獣のように唸った。
だが、肯定も否定もしなかった。
「何かあったのかい」
そう尋ねるアルマークの顔をしばらく睨んでいたトルクは、やがてぼそりと言った。
「オルアシュールだ」
アルマークが目を見張るのに構わず、トルクは続ける。
「そこに俺の兄貴がいる」
アルマークは何も言わなかった。だが、トルクも別にアルマークの反応を求めてはいなかった。
「17も年上の兄貴だ。もうすぐ30になる」
「親子くらい違うんだね」
「ああ」
トルクは頷いた。
「オルアシュールにいるってことの意味は、お前にも分かるだろ。兄貴は許されねえことをした。だから残りの人生をあそこで過ごす」
「それはつらいな」
アルマークの相槌に、トルクは、はっ、と声を出して笑う。
「兄貴は自業自得だ。勘違いするなよ、別に同情してほしいわけじゃねえ」
そう言って、鈍く光る眼でアルマークを見た。
「お前やウェンディの背負わされたもんに比べりゃ、なんてことはねえ話だ」
トルクは自嘲気味に言う。
「しくじったって言っても、せいぜい俺の家が傾いた程度の話だ。お前らみたいに世界を背負わされたわけじゃねえ」
「比べるものじゃない」
アルマークは首を振った。
「僕たちの背負わされたものの大きさなんて、僕たち自身にもよく分からないんだ」
「うるせえ」
トルクはアルマークの言葉を乱暴に遮る。
「いいから聞け」
「……分かった」
アルマークが頷くと、トルクは舌打ちした。
「昔から何でもできる兄貴だった」
苦々し気にそう言うと、虚空を睨む。
「そのせいで調子に乗って、あれよあれよという間に担ぎ上げられて、気付いたときにゃ牢屋の中だ。無様にしくじりやがった」
トルクは皮肉な笑みを浮かべた。
「てめえがしくじって、家を傾けて、家族に惨めな思いをさせておいて」
トルクの声が不意に歪む。
「あの野郎、俺に、頼む、と抜かしやがった」
「そうか」
「何が頼むだ」
トルクは足元の石を乱暴に蹴り上げた。
「自分の中だけで完結しやがって。人の都合も考えず」
「君はお兄さんに、頼む、と言われたのか」
「ああ」
トルクは吐き捨てた。
「説明もなしに、勝手に頼んできやがった」
あんな真剣な目で。
父でも次兄でもなく、よりによってこの俺に。
「勝手な野郎だ。誰が頼まれてやるか。そもそも俺は何を」
そこまで一息で言ってから、トルクはようやく自分が喋りすぎていることに気付いた。
こんなところまでこいつに話すつもりはなかった。
だが、オルアシュールでブルスターに会って以来、トルクの胸の中では、鬱屈した思いがずっと噴き出す場所を探していた。
アルマークの告白を聞いて触発され、思わぬところで感情を暴発させてしまった。
「忘れろ」
トルクは言った。
「つまらねえことを喋りすぎた。俺が今言ったことは忘れろ」
「羨ましいな」
アルマークの唐突な言葉に、トルクは目を剥く。
「なんだと?」
「羨ましいよ、君が」
アルマークは微笑んだ。寂しげな笑顔だった。
「君はお兄さんに、頼むに足る男だと認められていたんだな」
アルマークは目を伏せた。
「僕は父から何も頼まれたことはない」
父がアルマークに何かを頼むことなどなかった。
年齢からいっても、立場からいっても、それは当然のことだ。
そんなことは分かっている。
だが、それでもアルマークにはトルクがひどく羨ましかった。
「僕も、何かを頼まれたかった。託されたかった」
北を遠く離れた今、それはすでに叶わぬ望みだった。だがそう分かっていても、渇望してしまうのを止められない。
認めてほしかった。父に。
「自分が何かを頼むに足る男だと、僕も認められたかった」
アルマークの言葉にトルクは目を見開く。
「お前」
「ごめん。忘れるよ」
アルマークは言った。
「君が忘れろと言うなら、僕は忘れる。得意なんだ、忘れるのは」
「……おう」
トルクは頷く。
「忘れろ」
「分かった」
アルマークは頷き、それからふと思いついたようにトルクを見た。
「でも、まさかお兄さんの奥さんや子供までオルアシュールにいるわけじゃないんだろ」
それは父を思い出したことから派生した、何気ない疑問だった。
「君の実家にいるのかい」
「何?」
トルクが眉をひそめる。
「いや、だからお兄さんの奥さんや子供は」
アルマークは言いかけて、それからばつが悪そうに首を振る。
「ああ、ごめん。忘れるんだったね」
「……てねえ」
「え?」
「兄貴は、結婚してねえ」
「そうか」
トルクの返答にアルマークは小さく頷く。
「分かった。もう余計なことは聞かないよ」
だが、アルマークの言葉はトルクに一つの考えを運んできた。
脳裏に、幼い時に聞いた父のぼやきが蘇る。
ブルスターはいつになったら身を固める気なのか。相手はいくらでもいるというのに。
父はそう言っていた。
幼いトルクはそれを聞いても別段何とも思わなかった。
ふうん、兄上はなかなか結婚しない人なんだ。
そう思っただけだ。
だが、あれほどの男があの年齢まで結婚をしていなかった。
それはひどく不自然なことなのだ。
そして、ブルスターが結婚しなかった理由は、おそらく一つだ。
妻となる人に、累を及ぼさないため。
薄々分かっていた。
この島へと戻る船の中でも、ぼんやりとそれに近いことを考えていた。
だがその曖昧な思考は、今はっきりとした確信に変わった。
兄貴は、最初から覚悟していたのだ。
思い付きなどではない。ずっと前から。
それを、負け犬と呼ぶことができるのか。
「トルク。これだけは言わせてくれ」
アルマークが遠慮がちに言った。
「君のお兄さんは、あの闇の魔術師とは違うよ」
「うるせえ」
トルクは吐き捨ててそっぽを向いた。
そんなことは、分かってる。
分かってるから、余計腹が立つんだよ。
てめえもさっき、自分でそう言っただろうが。
「次に何かあったら」
トルクは言った。
「俺にも戦わせろ。闇の魔術師とやらがどれほどのものか、確かめてやる」
「ああ」
アルマークは頷いた。
「ありがとう、トルク。心強いよ」
別にお前のためじゃねえ。
トルクはそう思ったが、アルマークとの嚙み合わない会話をこれ以上続けるのは面倒だった。
何も言わず、肩をすくめる。
「ありがとう、トルク」
アルマークはもう一度言った。
「今日、こうして君と話せてよかった」




