声
「どうだ。みんなは元気か」
ブルスターは機嫌を取るようにトルクを見た。
「父上や母上、エドガーやユイシャは」
元凶のお前が、どの面下げて家族のことを。
そう思ったが、それでもトルクはぐっと堪えて仏頂面で答えた。
「ああ。元気だよ」
「そうか」
ブルスターは破顔した。
「それはよかった。去年、エドガーにも会ったが、元気そうだった。そうか、みんな元気か」
ブルスターは何度も、それはよかった、と繰り返した。
「トルク、国王陛下は慈悲深いお方だ」
ブルスターは言った。
「一度は許されぬ過ちを犯したこの私のような者を、生かしておいてくださる」
そう言って、トルクの顔を見る。
濁った、力のない目だった。
「トルク。国王陛下のために尽くせよ」
どの口が言うか。
トルクはそれでもかろうじて嫌悪の情を顔には出さず、小さく頷いた。
「ああ」
「それにしても、あんなに小さかったお前がな」
ブルスターはそう言って笑った。
「立派になった。ノルク魔法学院に通っているんだろう?」
「ああ」
「私の事件のせいで入学を取り消されるかと危惧したが。無事に入学できて何よりだ」
ブルスターは頷く。
「国王陛下のご寛大な処置に感謝せねばな」
「……ああ」
「勉強はどうだ。魔法はもう使えるようになったのか」
「ああ」
「そうか」
それはよかった、とブルスターはまた何度も頷いた。
何がよかったのか、と言いたかったが、トルクは我慢した。
「せっかくだ。何か魔法を見せてくれ」
ブルスターの幼稚な提案に、トルクは無言で首を振る。
「そうか。確かにこんなところでお前が龍にでも姿を変えたら私も困るからな」
ブルスターはつまらない冗談を言い、一人で笑った。
自分の心が氷のように冷えていくのを感じながら、それでもトルクは無表情を貫いた。
「それはそうと」
ブルスターが咳払いした。
「お前の持ってきたそれは、その」
そう言って、トルクの傍らに置かれていた衣類を指差す。
「私への差し入れなのかな」
「ああ」
返事をするのも面倒だったが、それでもトルクは、ぐい、と衣類を兄の方へ押しやった。
「母上からだ」
「そうか。母上から」
ブルスターは目を潤ませて衣類を手に取った。
「ありがたい。実にありがたい。オルアシュールの冬は厳しいんだ」
そう言って、たたまれた衣類を一枚一枚押し戴くようにして開く。
「助かる。寒さで眠れぬ夜もあるのだ」
そう口にしてから、ブルスターは慌てて背後の壁際に座る看守を気にする素振りをした。
「あ、いや。もちろんそんなことは私のしでかしたことを考えれば当然なのだが」
ふん、と看守が鼻で笑った。
もう返事をする気にもならなかった。
トルクは自分でもひどく冷たい目をしているのに気付いたが、もはやそれを取り繕うのもばかばかしかった。
それでも強いて感情を表に出さないよう努めた。
そうでもしなければ自分でも何を言い出すか分からなかった。
死ね。
そう思っていた。
シーフェイ家の恥さらしが。
今すぐに、死ね。
だが、その感情を表情に出すことはできなかった。
看守が見ている。
王家の直轄、オルアシュール監獄の面会室で、激昂して問題を起こすわけにはいかなかった。
そんな弟の葛藤を知ってか知らずか、ブルスターは20近くも年の離れた弟の機嫌を窺い、媚びを売るような笑みを浮かべながら、あれこれと話した。
どれも取るに足らない内容の、中身のない話だった。
トルクも最初の数回は義理で相槌を打ったが、あとは兄の喋るに任せた。
じきに、ブルスターが何度も同じ話を繰り返していることに気付く。
ブルスターは自分が手紙に書いていたのと同じ、王への謝罪と後悔の言葉をくどいほど繰り返し、家族からの差し入れがいかにありがたいかを語った。
壁際の看守が、呆れたように口元を歪めて欠伸を噛み殺すのが見えた。
トルクも、自分の兄でさえなければそうしただろう。
もう帰るか。
トルクは思った。
面会の時間はまだあと少し残っていたが、もうこれ以上ここにいる意味はなかった。
トルクの忍耐もそろそろ限界だった。
この男と会うことは、二度とないだろう。
そう思いながら、目の前の乾いた肌の痩せた男を見た。
こいつがここで死のうがどうしようが、もう俺には関係のないことだ。
その時だった。
「そのままで聞け」
それは低い、抑えた声だった。
トルクだけに聞こえるように囁かれたその声が誰から発されたのか、最初はトルクにも分からなかった。
兄は目の前で、衣類を手に相変わらずくだらないことを話している。
背後の看守はもうすっかり二人の会話に興味を失っているようで、退屈そうに服の染みを指でなぞっていた。
「表情に出すな、トルク。そのままで聞け」
トルクの耳が、かろうじてその声を拾った。
それは、ブルスターの声だった。
だがブルスターの表情も仕草も、先ほどまでと変わらなかった。締まりのない惨めな表情で、相変わらずさっきと同じことを喋り続けている。
しかしトルクにもようやく分かった。
くだらないことを話し続けるそのわずかな隙間に、低い抑えた声で、ブルスターはトルクに語り掛けていた。
「手紙を書き続ければ」
ブルスターは言った。
「いつかお前が来てくれると思っていた」
何を言い出すのか、と思いながら、それでもトルクも先ほどまでと同じ無表情で兄を見つめた。
ブルスターは衣類をいじりながら、卑屈な笑みを浮かべてもう何度目になるか分からない母への感謝を口にする。
そこに、低い声が混じった。
「私たちの計画は歪められた」
トルクにだけ聞こえる囁き。
「私たちは王の失脚など企んではいなかった」
ブルスターが盛大に鼻をすすった。
最近は寒さが体に堪えて、と言って情けない笑みをこぼす。
「私たちが除こうとしたのは」
その低い声が、トルクの耳だけに届いた。
「宮廷魔術師長オルフェンだ」
その名にトルクは思わず息を呑んだ。ひゅっ、という吐息が漏れる。それを隠すように、ブルスターがもう一度鼻をすすった。
「私たちの轍を踏むな」
表情に一切出すことなく、低い声でブルスターが言った。
「トルク。この国の未来を、頼む」
何を。
そう言おうとした。
突然、何を言い出しやがった。
だがそのとき、背後で看守が伸びをしながら立ち上がった。
「時間だ」
看守がそう告げると、ブルスターは滑稽なほど慌てて立ち上がる。
「はい、分かりました」
「戻るぞ」
「ええ、もちろん。時間厳守です」
その態度に、看守の顔に呆れたような笑みが浮かぶ。
看守がちらりとトルクを見た。
あんたも災難だったな。こんなだらしない兄貴の繰り言に付き合わされて。
その目はそう言っているように見えた。
ブルスターは看守に何度か頭を下げてから、トルクを振り返った。
「トルク、また会いに来てくれよ」
そう言ってへつらうように笑う。その姿からは、さっきの低い囁きが彼のものであるとは到底思えなかった。
「次の面会はいつ頃できますかね」
ブルスターが看守にそう声をかけると、看守は、俺の決めることではない、と冷たく答える。ブルスターは項垂れた。
「じゃあトルク、元気でな」
ブルスターはそう言うと、何も答えることができないトルクを尻目に、母からの差し入れを大事そうに抱え、看守に連れられて部屋を出ていく。
姿が見えなくなる直前、ブルスターがトルクを振り返った。
その目に宿るものを、トルクは見た。
その瞬間に、あの日の言葉が温度を伴って鮮やかに蘇った。
シーフェイ家の男は、いつも堂々としていろ。
兄さん。
その言葉を、トルクはかろうじて飲み込んだ。
「坊ちゃん、船が着きますよ。ノルク島だ」
従者のリグラの声で、トルクは我に返った。
見慣れた港町が眼前に広がっていた。
「おう」
トルクは返事した。
「やれやれ。学院に帰ってくると清々するな」
「そんなことをおっしゃって」
リグラがトルクを睨む。
「ちゃんと次の休暇も帰ってきてくださいよ。またお迎えに上がりますからね」
「さて、どうするかな」
トルクは肩をすくめた。
「帰ったところで、またオルアシュールにでも行かされたらたまったもんじゃねえからな」
「みんな、坊ちゃんの帰りを楽しみにしてるんです」
リグラは言った。
「坊ちゃんはシーフェイ家の希望なんですから」
「よせ」
トルクは苦笑いする。
「希望なんて柄じゃねえ」
リグラはそれでも何か言おうとしたが、トルクは顔を背けた。
やがて船は港に着いた。トルクは荷物を抱え、ほかの乗客たちとともに船を下りる。
「トルク!」
不意に、聞き慣れた声がした。
そちらに目をやると、自然と頬が緩んだ。
「やっぱりこの船だった!」
「トルク! お帰り!」
デグとガレインが満面の笑顔で両手を振っていた。
「お前ら、試験勉強はどうしたんだよ」
トルクは苦笑した。
「寮でおとなしく勉強してろよ。成績良くねえんだからよ」
その言葉に、デグとガレインが顔を見合わせ、嬉しそうに笑う。
「坊ちゃん、楽しそうだ」
トルクの後ろで、リグラが笑顔で言った。
「やっぱり坊ちゃんには、この学院が必要なんですな」




