オルアシュール
誰だ、こいつは。
かび臭く、すえた臭いの漂う薄暗い部屋。
窓もなく、昼でも暗いその部屋に男が入ってきたとき、トルクは自分の目を疑った。
今、俺の前にやって来たのは、誰だ。
「トルク。トルクか」
男が言った。
その声。
トルクの喉の奥から苦いものがこみ上げた。
くそったれが。
その男は、まるで老人のように乾燥して瘦せこけた頬を緩ませて、トルクに笑顔を向けた。
「大きくなったな。見違えたじゃないか」
足が悪いのか、そう言ってひょこひょこと歩み寄ってくる。ぼさぼさの髪からは異臭が漂っていた。
その姿には、もはやかつての颯爽とした威厳も華やかな気品もまるで感じられない。
トルクは自らの背筋が寒くなるのを感じた。
人は、ここまで惨めに変わるものなのか。
長兄のブルスターとの面会が許された。
父にそう告げられたのはトルクが帰省してすぐのことだった。
国王失脚計画に連座してオルアシュールの獄に繋がれているブルスターからは、時折手紙が届いた。
面会はできなくとも、検閲を通したうえでの手紙のやり取りはある程度の回数許容されていた。
ブルスターの手紙の内容のほとんどは、己の愚かさを悔やむ言葉と王家への謝罪、そして物の無心だった。
暑い、寒い、身体が痛い、と手紙の端々に泣き言を匂わせ、兄は家族にオルアシュールへの差し入れをねだった。
父は、放っておけ、と言ったが、母にとってはそれでも可愛い長男だった。苦しい財政をやりくりして父に内緒で何くれとなく送っていたようだった。
それがトルクには面白くなかった。
シーフェイ家がこんなことになってしまったのは、誰のせいだ。
ぬけぬけと差し入れなんぞ要求してきやがって。殺されずに監獄に入れられているだけでもありがたいと思いやがれ。
そういう思いをずっと抱いていた。
オルアシュールの囚人といえども、監獄の中で反省の態度を示し、従順にしていれば、家族との面会が許されることもある。
しかしトルクは、兄に会いたいなどと思ったことはなかった。
だから父から、学院に戻るついでにお前が面会に行け、と言われたとき、すぐに声を荒げた。
「どうして俺が。面会なら、父上でも兄上でも行けばいいだろうが」
「俺は領地を離れられん」
父は首を振った。
「俺が行くとなれば準備が要る。それに、ガルエントルにはもう屋敷はない」
父の言う通りだった。
父は腐ってもシーフェイ家の当主だ。一人や二人だけの従者を連れて王都に上るわけにはいかない。
しかも、王都にあったシーフェイ家の屋敷はもう人手に渡っていた。
王都に滞在するためには、宿を確保せねばならない。時間も金もかかる。
「俺はもうブルスター兄には会った」
次兄のエドガーはそう言って肩をすくめた。
「一年前の面会でな。連れていかれるこちらまで、罪人のような気分になる。俺はもうごめんだ」
「それなら、母上だ」
トルクは言った。
「一番ブルスター兄さんを心配しているのは、母上だろう。母上に会わせてさしあげればいい」
だが、エドガーは渋い顔で首を振った。
「母上には会わせんほうがいい」
「どうして」
「会えば分かる」
エドガーは多くを語らなかった。酒に濁った眼でトルクを見た。
「お前が自分の目で確かめろ」
結局は父の、とにかくお前が行け、という強硬な一言が決め手になり、トルクは母に持たされた衣類やら何やらを手にガルエントルへ行き、オルアシュールの監獄での面会手続きを行った。
煩雑な手続きは、前回も次兄の面会に付き添ったという従者のリグラがしてくれたが、それでもトルク自身もいくつかの書類に署名し、同じような説明と注意を、人を変え場所を変え、何度も受けた。
手続きをした役所からオルアシュールまでの道を二人の役人に付き添われて歩きながら、トルクは、なるほど、これはエドガー兄が嫌がるわけだ、と納得した。
まるで、晒し物のようだった。
この近辺に住む者ならば、こうして役人に挟まれて歩く者が罪人の家族なのだということは皆知っているのだろう。向けられる目は、かつてトルクが入学前の貴族同士の宴で向けられたのと同じ類のものだった。
久しぶりに、その日の感情を思い出し、トルクは唇を噛んだ。
ブルスターに会ったら、何を言ってやろうか。
怒りが腹の中にこみ上げた。
ようやく入ったかび臭い面会室でブルスターを待っている間も、その感情は消えなかった。
二度と情けない手紙を送ってくるな。そう言ってやろうか。
それとも、生き恥を晒していないでさっさと死ね、と言ってやろうか。
だがその怒りは、面会室にブルスターが連れてこられた瞬間に吹き飛んだ。
頭の中で激しく罵っていてもなお、トルクの記憶に残るブルスターは、彼がまだ捕まる前の、颯爽として自信に満ちた社交の華としての彼の姿だった。それが、トルクの知る兄だった。
だが、看守に連れられてやって来たのは、まるで老人のような男だった。
最初は、それが自分の兄だと思わなかった。
ブルスターはまだ30歳にもなっていない筈だ。もう若者とはいえないが、老人に見えるはずはなかった。
しかし、卑屈な笑顔で「トルク」と呼びかけるその声と、顔立ち。トルクは思わず、あっと声を上げそうになった。
これが、兄なのか。
ガライ社交の華と言われた、俺の憧れた兄なのか。
憧れ。
それはすでにトルクの中できっぱりと否定された感情だった。
だが、いくら否定しようとも、トルクがこの年の離れた兄に憧れ、彼の存在を眩しく感じていたのは事実だった。
社交の華。
ガライの若手貴族の中でもきっての美貌と洗練された聡明さを併せ持つブルスターの周りには常に人が集まり、華やかな笑い声が絶えなかった。
トルクが初めて参加した貴族同士の宴。そこでも、一番注目を集めていたのはやはり、眉目秀麗、他から抜きんでた存在感で周囲を惹きつけるブルスターだった。
トルクには、自分が彼の弟であることが、幼心にも誇らしかった。
年上の女性たちから、あなたのお兄様って本当に素敵ね、とため息混じりに話しかけられるのも悪い気はしなかった。
その日、ブルスターはいつものように彼を囲んでいた貴族の男女からふと離れると、幼い弟を呼んだ。
「トルク」
笑顔で手招きされたトルクが駆け寄ると、ブルスターはその頭をくしゃりと撫でた。そんな仕草さえ、洗練されて見えた。
「弟のトルクだ」
ブルスターが笑顔で言うと、周囲の男女の視線が自分に集まるのを感じた。
彼らの、興味と羨望の眼差し。
それがひどくくすぐったくて、トルクは長兄の服の裾を掴んだ。
「みんな、よろしく頼むよ」
ブルスターが微笑む。ブルスターと同い年くらいの青年たちが笑顔でトルクに話しかけてくる。女性たちが口々に、可愛いわね、と口にしてトルクの頭を撫でる。
トルクはブルスターの弟として恥ずかしくないよう、精一杯背伸びした答えを返しながら、兄の偉大さを感じていた。
兄は凄い。
兄が一言、よろしく頼むと言っただけで、こんなたくさんの年上の人たちが自分に話しかけてくる。自分と仲良くなろうとしてくる。
トルクは兄を見た。ブルスターはもう既に、知らない女性と話していたが、トルクの視線に気づくと目を細めた。
「トルク。お前もシーフェイ家の男だ」
兄は言った。
「いつも堂々としていろ」
頷いたトルクは、自分もいつか兄のようになるのだと思ったのだ。
兄のように育ち、兄のような人間になるのだと。
だが。
「トルク。本当に久しぶりだ」
そう言いながら、その男が自分の前まで歩いてくる。
男は、自分を連れてきた看守にぺこりと頭を下げた。
看守が冷たい口調で面会時間を告げる。
「はい。分かりました」
男がまた頭を下げた。
「時間は守ります」
そう言って、もう一度頭を下げる。
「時間を超えると、次の面会はいつできるか分からんぞ」
看守の言葉に男はまた頭を下げた。
「もちろんです」
男は卑屈に笑う。
「絶対に守ります。ご迷惑はおかけしません」
やめろ。
トルクの胸に得体の知れない感情が渦巻いた。
それは、怒りとも悲しみともつかない感情だった。
その男が卑屈な笑顔で看守に頭を下げるたび、トルクは自分の中で何かが壊れていく気がした。
貴族でも何でもない、ただの看守風情に、何度頭を下げるつもりなのか。
シーフェイ家の男は、いつも堂々としていろ。
あの日の兄の言葉が蘇る。
また男が頭を下げた。看守が冗談交じりに何か言うと、男は大げさに声を上げて笑った。
看守が壁際の椅子に腰を下ろすと、ようやくその男はトルクに向き直った。
トルクは歯を食いしばってその男の顔を見た。
それが別人であってくれれば、どんなによかったか。
だが、やはり紛れもなくその男は、かつて自分がこうなりたいと憧れた長兄、ブルスター・シーフェイに違いなかった。




