重荷
ウェンディの言ったことは誇張でも何でもなかった。
アルマークが書庫から本を一冊手に取って閲覧室に戻ったときには、もうウェンディが入口の扉から顔を覗かせていた。
「終わったのかい」
アルマークが小声で囁くと、ウェンディは無言で頷く。
「早いね。本を返してくる」
アルマークが書庫に本を戻し、閲覧室に戻ると、もうエストンは元の席に戻り勉強を再開していた。
「ありがとう、エストン」
通りがかりにそう声をかけると、エストンは顔を上げてアルマークを睨んだ。
「あまり図に乗るなよ、北の民」
エストンは抑えた声で言った。
「今日はウェンディの顔を立てた。僕に言われずとも、自分で身の程を弁えろ」
「君は君」
アルマークは答えた。
「ウェンディはウェンディだ」
その言葉に、エストンは苦々しい顔をしたが、冷たい表情のタミンと目が合ったからだろう、もう何も言わなかった。
アルマークが閲覧室を静かに出ると、ウェンディが二人分の雨除けの外套を持って待っていた。
「はい」
そう言って、笑顔で外套をアルマークに差し出す。
「寮に帰りながら話そう」
「ありがとう」
アルマークは頷いて、受け取った外套を羽織る。
「必要なことは聞けたのかい」
「ええ」
ウェンディは先に立って図書館を出ると、暗い空を見上げて、ため息をついた。
「雨、やまないね」
「そうだね」
「冬のこの時期は、いつもそう」
ウェンディが歩き出すと、ぱしゃぱしゃと足元の水が跳ねる。
「でもね、この雨が春を連れてくるの」
そう言ってアルマークを振り返る。
「春は、もうすぐだよ」
「そうか」
アルマークは微笑んだ。
春。
その言葉は、北の人間たちには特別な感情を伴って響く。
「春が来るのか」
アルマークは噛み締めるように呟いた。
北の冬を一人で生き抜いたアルマークにとって、それは、希望と同義だった。
「うん」
頷くウェンディの隣にアルマークは並んだ。
「南の冬は短いね」
「短いかな」
ウェンディは首を傾げる。
「きっと、北とは違うんだろうけど」
「そうだね」
アルマークは頷く。
「南の冬は、優しいよ」
「優しい」
フードから零れる水滴の向こうでウェンディが目を見張る。
「私にはその感覚がよく分からないけれど」
そう言ってから、ウェンディは目を伏せた。
「さっきはごめんなさい、アルマーク」
「え?」
今度はアルマークが目を見張る番だった。
「どうして謝るんだい」
「エストンの態度」
ウェンディは言った。
「ガライの貴族がみんなああだとは思わないで」
「ああ、そのことか」
アルマークは微笑む。
「僕は別に気にしていないよ。この学院の外なら、エストンの言うことの方が間違いなく正しいだろうしね」
「でも」
ウェンディは首を振る。フードの上から水滴がばらばらと散った。
「ここはノルク魔法学院だもの。あなたが彼にあんなことを言われなければいけない理由なんて、一つもないわ」
「ありがとう、ウェンディ」
アルマークは感謝を込めてウェンディを見た。
「君にはエストンの言うことも分かっていたんだろ。でも、僕のために怒ってくれたね」
そう言った後で、静かな声で付け加える。
「嬉しかったよ」
ウェンディは何も言わず、もう一度首を振った。
しばらく無言の時間が流れ、雨音に混じってウェンディが鼻をすする、すん、という音だけがした。
「……トルクはね」
やがて、ウェンディが言った。
「やっぱりオルアシュールにはお兄さんの面会に行ったんじゃないかって、エストンが」
「面会か」
アルマークは頷いた。
「捕まったわけじゃなくて、よかった」
「オルアシュールの近くを、エストンがたまたま通りかかったときに、トルクとすれ違ったんですって」
ウェンディは言った。
「トルクの両脇を挟むように歩いていた大人二人は、オルアシュールの役人だろうって。子供一人では中に入れないから、手続きのために付いていったんじゃないかって」
「君の予想通りだね」
アルマークは頷く。
さすがだ、と言うとウェンディは居心地悪そうに首を振った。
「別に、そんな」
「でも、それじゃあフィッケの聞き間違いかな」
アルマークは先刻フィッケに聞いたばかりの話を思い出し、そう言った。
「トルクが惨めなざまだった、みたいなことをエストンが話してるのを聞いたって」
「エストンは、自分はそんなことは言っていないって言っていたけど」
ウェンディの声が少し沈んだ。
「私は、言ったんだと思う。トルクにとっても、きっと愉快な面会じゃないもの」
ウェンディの言葉に、アルマークの脳裏にまた、険しい顔で誰かと向かい合って座るトルクの姿が浮かんだ。
「知らない大人に挟まれて、トルクも暗い顔をしていたのかもしれないし、それを悪意を持って捉えればそういう言い方だってできるわ」
「そうか」
アルマークは頷いた。
オルアシュールの監獄での、兄との面会。
ガライ王国を揺るがした重罪人である兄と、どんな顔をして向かい合い、どんなことを話すのか。
それはアルマークには想像のつかない世界だった。
トルクもまた、厳しい世界を生きている。
“門”と“鍵”。
自分たちがその運命を背負うように、ほかの生徒たちもそれぞれがそれぞれの重荷を背負っている。
望んで背負ったものばかりではないはずだ。
けれど。
「それじゃ、トルクは学院に帰ってくるんだね」
「ええ」
ウェンディは頷く。
「帰ってくると思う」
「それならいいんだ」
アルマークは微笑む。
「あとはデグとガレインにどう説明するかだけだね」
その笑顔に、ウェンディがちらりと戸惑いを覗かせた。
「もう、それでいいの?」
そう言って、アルマークの顔を見る。
「私はまだ少し心配だわ。面会のことで、トルクも動揺しているかもしれないし」
「そうだとしても、トルクは自分で立ち上がるよ。いつか僕にそう言ってくれた」
俺は自分の力で立ち上がる。これまでも、これからもだ。
トルクがアルマークにそう嘯いたのはいつのことだっただろうか。
アルマークは、それでもまだ心配顔のウェンディを見て声を励ました。
「それに、君がエストンに言ってくれたんじゃないか」
「え、私?」
ウェンディが眉を上げる。
「ああ」
アルマークはフードを叩く雨音に負けないよう、声を張った。
「ここはノルク魔法学院。僕らはその誇り高き生徒だって」
その言葉に、ウェンディが目を瞬かせる。アルマークは続けた。
「外の世界ではエストンの言うようにいろいろとあるけれど、この学院の中ではみんなが初等部の学生だ。トルクのお兄さんがどこにいようと、そんなことは僕らの仲間であるトルクとは何の関係もない。そうだろ」
アルマークは微笑む。
「だって、僕らは魔術師になるためにここにいるんだから」
「……私じゃないわ」
ウェンディは首を振った。
「それは、もともとあなたが私に言ってくれたのよ」
ウェンディはその時のことを思い出すように目を細めた。
「僕らは魔術師になるんだって。ノルク魔法学院で待ってるって、冬の屋敷であなたが」
そう言って、アルマークを見る。
「本当に嬉しかった。だから私にはエストンの言葉が許せなかった。それだけなの」




