(閑話)カリュカルの杖
ひらり、と枯れ葉が落ちる。
晩秋を迎えたクロオウリの大木の下。
一人、濃紺のローブをまとった青年が立っていた。
ローブには、彼がノルク魔法学院の高等部の学生であることを示す、金の縁取りがされている。
青年は、舞い落ちてくる茶色がかった葉に左手を伸ばす。
彼の細い指が空中の葉に触れたと見えた瞬間、枯れ葉はたちまち瑞々しい若葉のような緑色に変じた。
再び、一枚の葉が青年の目の前にひらひらと落ちてくる。
青年が指を伸ばすと、その葉も瞬時に生気を取り戻す。
頬のこけた、どこか年に似合わぬ老練さすら感じさせるその瘦身の青年は、まるで顔をうずめるようにして、右手に持った書物を熱心に読みふけっていた。
顔を上げることもなく、半ば無意識のような風情で、青年は落ち葉に手を伸ばす。
音で感じているのか、それともほかの方法か、青年は見てもいない落ち葉に正確に指を触れた。
いつの間にか、青年の足元は初夏の木の枝からむしり取ったかのような鮮やかな緑色の葉でいっぱいになっていた。
「またやっているな」
呆れたような笑いを含んだ声がして、青年は顔を上げた。
彼と同じく金縁の紺色ローブをまとった青年が、腕を組んで苦笑いしながら彼を見ていた。
「集中すると、君は妙な魔法を使い始める」
新たな青年は、端正な顔を愉快そうに緩めて、髪をかき上げた。
「え?」
訝しげな顔で痩せぎすの青年が彼を見返す。その足元を、彼は指差した。
「ほら。そこ」
そう言われて初めて、痩せぎすの青年は自分の足元が緑の若葉でいっぱいになっているのに気付いた。
「ああ」
嘆息して、顔をしかめる。
「本当だ。またいつの間にかこんなことに」
「命分けの術」
後から来た方の青年は、屈みこんで青葉を一枚手に取ると、そう言って立ち上がった。
「これだけの高等魔法を、まさか無意識に手癖でやっていたと言われたら、巷の魔術師たちはひっくり返るだろうな」
たくましい腕を伸ばして青葉を宙に舞わせると、痩せぎすの青年の顔を楽しそうに覗き込む。
「君の才能には、いつも嫉妬させられるよ。イルミス」
「やめてくれ」
イルミスと呼ばれた青年は、眉をひそめて首を振った。
「初等部から高等部までずっと首席の君にそんなことを言われる筋合いはないぞ、ライヌル」
「試験の成績なんてのは、凡庸であることの証明の最たるものだよ」
ライヌルと呼ばれた青年はそう言って笑う。
「真の才能は、そんなもので測れはしない」
「君のその言葉は、試験で君の後塵を拝した全ての学生を救うな」
イルミスは、本をぱたんと閉じた。
「それで今日は、君に救われた学生の一人であるこの私に何の用かな。ライヌル」
「大した用じゃない」
ライヌルは微笑んで、イルミスの顔を見た。
「カリュカルの杖を探しに来た」
「カリュカル?」
イルミスは、ライヌルが口にした同級生の青年の名にふと眉をひそめるが、すぐに、ああ、と頷いた。
「光る流星のようなものが森の奥に飛んで行ったが。あれがカリュカルの杖だったのか」
「まだここより先に飛んだのか」
ライヌルは苦笑する。
「やれやれ。高等部も二年になると、研究ばかりで身体がなまっているからか知らんが、すぐに疲れる。森を歩くのは億劫だ」
「君らしくもない。老人のようなことを言う」
イルミスは真面目な顔で答えた。
「そういう言葉は、私のような人間が言うことだ」
「君は自己評価を改めるべきだ、イルミス」
ライヌルは芝居がかった仕草でイルミスの目の前に人差し指を立ててみせる。
「まがりなりにも学年首席の人間に、嫉妬させると言わしめている自分の評価をね」
「君は優しい男だからな」
イルミスは肩をすくめる。
「だから私のような変人とも対等に付き合ってくれる」
その言葉に、ライヌルの表情が一瞬曇った。
「対等、か」
低い声でそう呟く。
だが、すぐにそれは穏やかな笑顔に取って代わった。
「君も行こう、イルミス」
快活な口調でライヌルは言った。
「え?」
イルミスは眉をひそめる。
「どこへ」
「カリュカルの杖を探しにだ。なに、魔力を探知していけば訳もないさ」
「カリュカル本人はどうしたんだ」
イルミスは杖の飛んで行った方角に目を向けながら、言った。
「自分では探しに来ないのか」
「彼なら気絶して医務室に運ばれたよ」
ライヌルは両腕を広げてみせた。
「杖が暴発した時の衝撃は相当なものだったからね。下手をすれば命を落としていた」
「そうか」
イルミスは頷く。
「それなら仕方ない。命を落とさず何よりだ」
「それで、私が探してくることになったわけさ」
ライヌルはそう言って微笑む。
「カリュカルとは中等部でルームメイトだったからね」
「彼の研究は、何だったかな」
イルミスは、ようやく木の根元から足を踏み出した。
「杖の高性能化、だったか」
「ああ」
ライヌルは頷く。
「杖の自律化。杖そのものに独自の生成できる魔力を付加、といえば聞こえはいいが」
そう言って、目を細める。
「今回出来上がったのは、杖の形をした何かだ」
その響きに、イルミスも表情を改めた。
「ふむ」
頷いて、ライヌルの隣に並ぶ。
「初等部の方に飛んでいかなくて幸いだ」
「その気になったね」
ライヌルは目を細めて微笑んだ。
「行こう。たまには勇ましい君も見たい」
森の奥。
木々が密集して生い茂り、昼でも日の光の届かない場所に、その杖は怪しい光を発散させて突き刺さっていた。
「あったぞ」
ライヌルが嬉しそうな声を上げて、自分の腿を叩く。
「やれやれ。足が棒のようだ」
「気を付けたまえ、ライヌル」
イルミスは、ライヌルの前に出た。
「この杖は悪い気を放っている」
「ああ」
驚いた様子もなく、ライヌルは頷く。
「どうもそのようだね」
「カリュカルは闇の力を加えたのか」
イルミスの声が険しさを増した。
「杖を自律させるための材料に」
「君は、闇と対峙した経験が浅かったね」
答えるライヌルの口調は変わらない。
「あれは単なる瘴気だ。色々な力を合成していく中で生まれた汚染物」
「無論、瘴気は知っている」
イルミスは答える。
「だが、あの濃度は」
「瘴気は瘴気」
ライヌルはあくまで軽い調子で言った。
「濃さに差はあれ、闇とは根本的に違うものさ。闇というのはもう少し……」
ライヌルの言葉が微かにくぐもる。
「重い」
その時だった。
杖が、突如空中に舞い上がった。
杖の表面に、虫のような無数の脚が湧き出してくる。
「ムカデか」
ライヌルが笑う。
「笑い事ではないぞ」
イルミスがたしなめる。
杖本体が、生き物のようにぐにゃりと曲がった。
地面に足が付くと、瘴気を伴った魔力でたちまち土が黒ずんでいく。
「瘴気の汚染を広げる」
「ああ。ここから出してはいけないな」
イルミスの言葉に、ライヌルは鷹揚に頷く。
「さて、どうするね。イルミス」
その楽しむような口調に、イルミスはやや非難の混じった目を向ける。
「ライヌル。遊びではないぞ」
「分かっているよ」
ライヌルの口調はあくまで軽い。
「だが、ここまで歩いてくるのに疲れて頭が回らなくてね。すまないが君が仕切ってくれ」
イルミスはため息をついて、腕を振るった。
輝く網がムカデの化け物と化した杖を覆う。だが、杖はその網をたちまち引きちぎると茂みの奥へ猛然と這い出した。
「おっと」
ライヌルの作り出した光の壁が杖の逃げ道を塞いだ。壁にぶつかって跳ね返された杖は、無数の脚をぐねぐねと動かす。
「あれだけの瘴気と魔力の集合体だ。光の網では不十分だろう」
そう言って、ライヌルは楽しそうにイルミスを見た。
「もう少し工夫がいる」
「そのようだな」
ムカデの走った後の地面がどす黒く変色していくのを見ながら、イルミスは頷いた。
「ライヌル。すまないが、壁はそのままにしておいてくれ」
「いいとも。なんなら、もう少し囲うかい」
ライヌルは腕を振るい、ムカデが逃げ出せないよう、その周囲をぐるりと光の壁で覆ってしまう。
「ああ。それでいい。助かる」
そう言いながら、イルミスはムカデに歩み寄っていく。
「おい」
さすがにライヌルが鋭い声を出した。
「危ないぞ、イルミス」
「ああ」
曖昧に頷き、イルミスはさらにムカデに近付いた。
「壁があるからといって」
ライヌルが言いかけた時だった。ムカデが突如、宙を舞った。
ムカデのような姿になったとはいえ、その正体は魔力をその全体に滾らせた杖だ。宙を舞うくらいのことは造作もない。
ムカデがそのままの勢いで、イルミスに飛びかかった。
イルミスも怯むことなく手を伸ばす。
イルミスの指が触れた瞬間、杖を覆っていた瘴気が無数の脚とともに消し飛んだ。
杖はイルミスにぶつかる直前で、ライヌルの放った光の網に絡めとられた。
「ありがとう、ライヌル」
イルミスはライヌルを振り返る。
「命分けの術か」
そう言って、ライヌルは微笑んだ。
「生命の力を分け与えることで、内側から瘴気を吹き飛ばす。とっさにそういうことが考えられる君は、やはり大した魔術師だ」
「後ろに君がいたので、少し冒険しようという気になった」
イルミスはそう言って、薄く笑った。
「勇ましい私をご所望だったのでね」
「そういうところだ」
もはや単なる魔力を宿しているに過ぎない杖を、ライヌルは無造作にむんずと掴むと、微笑んだ。
「君のそういうところが、私を嫉妬させるのさ」




