崩壊
船は崩れ始めていた。
“陸の鮫”アンゴルの影が消滅するとともに、この船を船たらしめていた魔術の核のようなものが消えた感覚があった。
船は、不穏な揺れとともにただの古い流木の集まりのような姿に変わり始めていた。
ギザルテのいた場所にはひとかけらの骨片が転がっていた。
骨片は崩れ始めた甲板から海へと滑り落ちていく。
アルマークはそれに向かって小さく頭を下げた。
さよなら、銀髑髏。
あなたにはいろいろなことを教わった。
それからアルマークは、持っていた剣を捨てた。
もう一刻の猶予もなかった。
でこぼこな土手のようにうねり始めた甲板の上を、最後の力を振り絞って駆ける。
その先には、無造作に転がる一本の棒。
それだけは、絶対に失うわけにはいかなかった。
マルスの杖。ウェンディの命を左右する鍵。
杖はもはや半ば崩れかけた甲板から下へ落ちようとしていた。
杖に向かって一歩踏み出すたびに全身に激痛が走る。
「ぐううっ」
知らず、声が漏れた。
身体がもうまるで思い通りに動かない。だが、そんなことは何の言い訳にもならない。
霞む目を凝らす。痛む腕を伸ばす。
指先に杖が触れた。
だが、届かない。
あとほんの僅か。
胸を張れ。
不意にその声が蘇る。
グリーレスト。鍵の番人の叱咤。
胸を張れ。
己がこの鍵の正当な所有者であると。
あなたはいつも、厳しいことを言う。
アルマークは思った。
だが、それが支えになった。
痛みをこらえて胸を張ると、腕がわずかに伸びた。
アルマークは杖を手繰り寄せ、しっかりと掴む。
そこが本当の限界だった。
よかった。
マルスの杖を、それがまるでウェンディででもあるかのようにしっかりと抱き締める。
これをなくすわけにはいかない。
遠ざかる意識の中で、それだけを強く思った。
不意に足もとの床板の感覚が消える。
身体が宙に浮いた。
それと同時に、アルマークの意識は途切れた。
自分たちの魔力を乗せたリルティの歌声が届いたのかどうか。
固唾をのんで見守るウェンディたちの目の前で、突如幽霊船は崩壊を始めた。
帆柱が、ゆっくりと傾いていく。
それとともに、船の木材が端からぼろぼろと海に落ち始めた。
「アルマーク!」
ウェンディが叫ぶ。
「やべえ」
ネルソンが真っ先に駆け出した。
「アルマークが巻き込まれるぞ。助けねえと」
「私も行く」
ウェンディがそう叫んで後を追う。
「大変だ。アルマーク」
続いて走り出したモーゲンの横を、レイドーやデグたちが追い抜いていく。
船を構成していた木材が次々に海に落ち、大きな水しぶきが立て続けに上がる。
「アルマーク!」
ウェンディがもう一度悲痛な叫びをあげた。
「返事をして!」
その声に呼応するかのように、傾いでいた帆柱が大きく倒れ、まるで陶器か何かのようにばらばらに砕け散った。
「魔法が切れたんだ」
レイドーが叫ぶ。
「全て壊れてしまうぞ」
「冗談じゃねえ、アルマークは壊れねえよ」
ネルソンが大きなしぶきをあげながら海に駆け込んだ。
「アルマーク、どこだ!」
「どこにいるの、アルマーク!」
ネルソンとウェンディに続いて駆け込んだノリシュも声を上げる。
「ノリシュ、危ない!」
後ろからセラハが声を上げた。振り返ったノリシュのすぐ脇に大きな木が降ってきた。
「きゃあ」
幸いにもぶつかりはしなかったが、ノリシュは海水を頭から浴びてへたり込んだ。
「大丈夫? けがはない?」
駆け寄るセラハに、ノリシュは首を振る。
「私は大丈夫。それよりもアルマークを」
「くそっ」
ネルソンが苛立った声を上げた。
「どこにいるんだよ、アルマーク」
「あそこだよ!」
ようやく海に駆け込んできたモーゲンが息を切らして叫んだ。
「アルマークはあそこに倒れている」
モーゲンの指の先に、水面から上半身だけを出すようにしてアルマークが倒れていた。
「アルマーク!」
悲鳴のような声を上げてウェンディが駆け寄る。それよりも先に、近くにいたデグとガレインがアルマークを担ぎ上げた。
「うっ」
デグがアルマークの身体を見て目を見開く。
「こりゃ、ひでえぞ」
肩から切り裂かれた傷。右の太腿を貫かれた傷。それ以外にも、アルマークは全身に大小さまざまな傷を負っていた。
「息はあるのか」
駆け付けたネルソンが叫び、ウェンディが真っ青な顔でアルマークの口元に手をかざす。
「息はしてる」
泣きそうな声でウェンディが言う。
「生きてる」
「よし、とにかく海から引き揚げよう」
レイドーがそう言ってデグたちに手を貸し、アルマークの身体を担いだ。その間にも、腿の傷からは血が流れ続けている。
「砂浜に運んで」
セラハが叫ぶ。
「すぐに治癒術をかけるから」
「一人や二人じゃ無理ね」
ノリシュが言う。
「みんなで手分けしてかけましょう」
誰もが魔力などとっくに尽きかけてはいたが、それを口にする者はいなかった。
「薬湯を持ってくる」
バイヤーがそう言って砂浜を駆けていく。
ウェンディは、アルマークを担いで海から上がるデグたちの横を並走した。
意識のないアルマークが、それでも何かを抱きかかえていた。
最初は船の木材の切れはしのようにも見えたそれがマルスの杖だということに気付き、ウェンディの目からは涙があふれる。
「大丈夫よ、ウェンディ」
キュリメが言った。
「アルマークは助かる」
「そうだ」
ネルソンが叫んだ。
「俺たちが助ける」
「うん」
ウェンディは頷いた。
その目にはもう強い意志が戻っていた。
諦めることも投げ出すことも決してしない、勇敢な少女の瞳。
「私たちが助ける」
まるでその言葉が聞こえたかのように、アルマークが低く呻いた。
「アルマーク!」
ウェンディが呼びかける。
「私の声が聞こえる?」
「ウェンディ」
薄目を開けたアルマークが、うわごとのようにその名を呼んだ。
「ここにいるよ」
ウェンディがアルマークの手を握る。
「あなたの隣にいる」
「こっちへ」
即席で敷いた布の脇でセラハとリルティが手招きをしている。
「ウェンディ」
アルマークがもう一度言った。
「なあに、アルマーク」
ウェンディが答える。
「あまり喋らないで。傷に障る」
「僕は」
アルマークの目がウェンディを探すように揺れた。
「君と一緒に歩きたいんだ」
ウェンディは答えられず、何度も頷いてその手を強く握りしめる。
アルマークが目を閉じた。
「絶対に助けるぞ」
ネルソンが叫んだ。




