立つ
“陸の鮫”が一歩踏み出す。そのたび、禍々しい腐臭が漂う。
もうすっかり嗅ぎ慣れた臭い。
強い、闇の力。
アルマークは剣を構えた。
構えたが、それからどうする。
まるで思いつかなかった。
足は震え、全身が半ば痺れたようになっている。頭もうまく回らない。
ギザルテは強かった。だが、アンゴルはおそらくその比ではない。
万全の状態で戦っても、果たして抗しきれるかどうか。それなのに、もはやアルマークは満身創痍でまともに戦える状態ではない。
勝てる勝てない以前の話だった。
それでも、アルマークは剣を構えた。それは、ギザルテの言葉を聞いたからだった。
お前がそいつを倒さなけりゃ、そいつは船から降りるぜ。
それだけは、させてはいけない。
アルマークは熱に浮かされたような頭で、強く念じた。
仲間たちのところに、この怪物を行かせてはいけない。
こいつは、ここで食い止めなければ。
アルマークを衝き動かしているのは、ただその使命感だけだった。
「剣先が震えてるぜ」
揶揄するように、ギザルテが言った。
「しっかりしろよ、天才剣士」
その言葉に、少しだけ頭脳が回った。
肩の痛みが、今はありがたかった。
この痛みのおかげで、意識を手放さずにいられる。
朝だ。
アルマークはようやく動き始めた頭で考えた。
朝を待つしかない。
それは、自分にも可能な唯一の策だった。
闇の眷族と呼ばれる魔物がいる。
ボラパ、デリュガン。エルデイン。
今までアルマークが対峙してきた恐るべき闇の魔物たち。
闇に包まれた目の前の“陸の鮫”は、彼らと同じ様相を呈していた。
ならば、やりようはある。
アルマークは自分の経験と記憶から生きる策を引きずり出す。
たとえ、どんなに猛り狂い、数多の命を奪った闇の魔物であっても、その狂奔は朝日を迎えるまでのことだった。
朝の太陽が顔を出すと、彼らは溶けるように姿を消した。
まるで夜以外の時間には存在を許されていないかのように。
この“陸の鮫”も同じだ。
アルマークは思った。
こいつは、血の通った人間ではない。
ギザルテは、僕の恐怖心が作った偽物だと言った。僕の恐怖心の作る、濃厚な影。
ならば、朝日が昇れば、彼もまたこの世界から放逐されるのではないか。
アルマークは、その可能性にすがった。
この船の上で、逃げ続ける。
そうすれば、“陸の鮫”は船から降りることはない。
やがて、太陽がこの甲板を照らせば、僕の勝ちだ。
アルマークは、じりじりと後ずさりをした。
動け。
痺れる自分の足を叱咤する。
後でゆっくりと、いくらでも休ませてやる。だから、今は動いてくれ。
“陸の鮫”は、アルマークの動きを見ても、歩を進める速さを変えることはなかった。
それが不気味でもあったが、今はありがたかった。
ギザルテのように一気呵成に距離を詰められたら、逃げきることなどできない。
このままゆっくりと追いかけてこい。
アルマークは、さらに大きく距離をとった。
足はまだ動く。
とても戦える速さではないが、とにかく足はアルマークの意思通りに動いた。
肩がひどく痛む。
全力で剣を振れるのは、あと何回だ。
努めて冷静に、自分の限界を測る。
おそらく、一度か二度。
持ち慣れない剣が、やけに重く感じる。
月明かり。
アンゴルの槍の穂先がそれを反射して鈍く光った。
アルマークは自分の胸がうずくのを感じる。
あれは、僕の胸を貫いた槍だ。
その長大な槍は、記憶に残るものと寸分違わぬ姿だった。
本当は僕はあの時、あの場で死ぬはずだった。
激しい疲労と、断続的に襲ってくる痛み。アルマークの朦朧とした脳裏に、苦い記憶が蘇る。
僕が今でもこうして生き永らえているのは、父が救ってくれたからだ。
だいぶ後になってモルガルドがそっと教えてくれた。
あんなに取り乱したレイズを見たのは初めてだと。
戦場の何もかもを放棄して、レイズはお前を助けに走ったと。
そのせいで、戦はめちゃくちゃになった。
おそらく父は、それによって多くの信頼と名声を失った。失わなくてもいい仲間の命も失われたのだろう。
だが父は、目覚めたアルマークに何も言わなかった。
よかった、とも、悪かった、とも。
アルマークも、何も聞けなかった。モルガルドにその話を聞いた後は、なおさら聞くことができなかった。
かつて父はアルマークに、戦場では俺を当てにするな、と言った。死ぬときは結局独りだ、と。
アルマークも、傭兵ならばそれが当然だと思っていた。
だが、それなら父はどうしてあの時、何もかもをなげうって自分を助けてくれたのか。
不甲斐ない自分に、そこまでして助ける価値はあったのか。あの無様な戦いぶりに、父はどこまで失望したのか。
南へ旅立て、と言われたとき、アルマークは父の信頼を自分の剣によって取り戻すすべを失った。
だから、アルマークの胸にはあの槍が今も抜けることなく刺さっている。
アルマークは魔術師になると決めた。一流の魔術師になることで、父に少しでも息子を誇ってほしかった。やはり俺の息子は大した奴だったと。
だが、魔術師になったら、この槍は抜けるのだろうか。
不意に、アンゴルが槍を頭上に持ち上げた。
そのまま槍を大きくぐるりと回す。
それも、アルマークの記憶に残る姿だった。
その挙動を見ただけで、喉の奥から苦いものがこみ上げてくる。
怖いのか、僕は。
ようやくそれを意識した。
自分の全身を、疲労のせいではない冷たい汗が濡らしていることに気付く。
相手は幻のような偽物だ。
アルマークは思う。
それでも、“陸の鮫”はやはり僕にとって、恐怖の象徴なのか。
アンゴルは、変わらぬ速度で迫ってくる。
その姿が恐怖の象徴だったとしても。
アルマークは自分に言い聞かせた。
こうしてゆっくりと追ってくるのであれば、その分時間が稼げる。
朝まで、あとどれくらいの時間があるのか分からない。だが、それまで逃げ切ることができれば。
不意に、低い笑い声がした。
ギザルテだった。
「甘いよ、ガキ」
船べりにもたれて、ギザルテは言った。
「お前、“陸の鮫”がそんなに甘い相手だと思ってんのか」
アルマークはそれに答えなかった。
甘い相手のわけはない。
そんなことは、実際に剣を交えた経験のあるアルマークの方がよく分かっていた。
だが、現実に、それ以外に採る方法がなかった。
アルマークはまたじりじりと後ずさった。つかず離れずの距離を保つ。
その瞬間だった。
どん、という轟音とともに船全体が揺れた。
何か大きな岩でも船にぶつかったのかと錯覚するほどの衝撃。
だが、それはアンゴルの踏み込みの音だった。
巨体がアルマークの目の前に迫っていた。
さっきまであれだけあった距離が、一瞬で潰された。
この踏み込みの速度。いまだかつて見たことがなかった。
アルマークは全身の力を振り絞って横に飛びのく。しかし無駄だった。アンゴルの槍は正確にアルマークの右の太腿を貫いた。
悲鳴は上げなかった。アンゴルが槍を振り上げる。刺された足を身体ごと持ち上げられ、そのままアルマークは放り投げられた。
甲板を転がる。
激痛に、声も出なかった。
それでも剣を離さなかったのは、傭兵として育った最後の本能だったか。
アンゴルが、血の滴る槍を手に近付いてくる。
ギザルテが嗤った。
僕があの時失うはずだった命。父に助けられた命。それを、ここで失うのか。
アルマークはうわごとのように考えた。
同じ相手に、命を捧げるのか。
それはまるで皮肉な運命のようにも思えた。
勝ち目どころか、生き残る目もなかった。
だが、アルマークは自暴自棄にはならなかった。それどころか、必死に薄れゆく意識を繋ぎ止めようとした。
死や運命に向かい合おうという殊勝な気持ちからではない。
そこに転がる一本の棒を見たからだ。
一見何の変哲もない木の棒。だが、それは“門”を開ける鍵だった。
アルマークの大事な少女。
その姿を思い浮かべただけで、心がじんわりと温かくなる存在。
彼女の運命を大きく左右する杖が、そこに無造作に転がっていた。
死ねない。
念じる。
強く。
死ねるわけがない。
これを、こんなところに放り出したままで、僕一人がおめおめと死ねるわけがない。
アルマークが立ち上がったのを見て、ギザルテの顔から冷笑が消えた。
「立つのか」
ギザルテが呟く。
「その足で」
立つ。
生きるなら、自分の足で立つしかない。
アンゴルがゆっくりとアルマークに迫る。
アルマークは霞む目を凝らした。
どこまで来た。距離は。間合いは。
何も分からない。
どうすればいいのか。策など何もない。
だが、死ぬわけにはいかない。
だから立った。
ウェンディ。僕は。
君とともに。
その時だった。
歌が聞こえた。




