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【書籍化】アルマーク ~北の剣、南の杖~  作者: やまだのぼる@ナンパモブ2巻12/5発売!
第二十章

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立つ

 “陸の鮫”が一歩踏み出す。そのたび、禍々しい腐臭が漂う。

 もうすっかり嗅ぎ慣れた臭い。

 強い、闇の力。

 アルマークは剣を構えた。

 構えたが、それからどうする。

 まるで思いつかなかった。

 足は震え、全身が半ば痺れたようになっている。頭もうまく回らない。

 ギザルテは強かった。だが、アンゴルはおそらくその比ではない。

 万全の状態で戦っても、果たして抗しきれるかどうか。それなのに、もはやアルマークは満身創痍でまともに戦える状態ではない。

 勝てる勝てない以前の話だった。

 それでも、アルマークは剣を構えた。それは、ギザルテの言葉を聞いたからだった。


 お前がそいつを倒さなけりゃ、そいつは船から降りるぜ。


 それだけは、させてはいけない。

 アルマークは熱に浮かされたような頭で、強く念じた。

 仲間たちのところに、この怪物を行かせてはいけない。

 こいつは、ここで食い止めなければ。

 アルマークを衝き動かしているのは、ただその使命感だけだった。

「剣先が震えてるぜ」

 揶揄するように、ギザルテが言った。

「しっかりしろよ、天才剣士」

 その言葉に、少しだけ頭脳が回った。

 肩の痛みが、今はありがたかった。

 この痛みのおかげで、意識を手放さずにいられる。

 朝だ。

 アルマークはようやく動き始めた頭で考えた。

 朝を待つしかない。

 それは、自分にも可能な唯一の策だった。

 闇の眷族と呼ばれる魔物がいる。

 ボラパ、デリュガン。エルデイン。

 今までアルマークが対峙してきた恐るべき闇の魔物たち。

 闇に包まれた目の前の“陸の鮫”は、彼らと同じ様相を呈していた。

 ならば、やりようはある。

 アルマークは自分の経験と記憶から生きる策を引きずり出す。

 たとえ、どんなに猛り狂い、数多の命を奪った闇の魔物であっても、その狂奔は朝日を迎えるまでのことだった。

 朝の太陽が顔を出すと、彼らは溶けるように姿を消した。

 まるで夜以外の時間には存在を許されていないかのように。

 この“陸の鮫”も同じだ。

 アルマークは思った。

 こいつは、血の通った人間ではない。

 ギザルテは、僕の恐怖心が作った偽物だと言った。僕の恐怖心の作る、濃厚な影。

 ならば、朝日が昇れば、彼もまたこの世界から放逐されるのではないか。

 アルマークは、その可能性にすがった。

 この船の上で、逃げ続ける。

 そうすれば、“陸の鮫”は船から降りることはない。

 やがて、太陽がこの甲板を照らせば、僕の勝ちだ。

 アルマークは、じりじりと後ずさりをした。

 動け。

 痺れる自分の足を叱咤する。

 後でゆっくりと、いくらでも休ませてやる。だから、今は動いてくれ。

 “陸の鮫”は、アルマークの動きを見ても、歩を進める速さを変えることはなかった。

 それが不気味でもあったが、今はありがたかった。

 ギザルテのように一気呵成に距離を詰められたら、逃げきることなどできない。

 このままゆっくりと追いかけてこい。

 アルマークは、さらに大きく距離をとった。

 足はまだ動く。

 とても戦える速さではないが、とにかく足はアルマークの意思通りに動いた。

 肩がひどく痛む。

 全力で剣を振れるのは、あと何回だ。

 努めて冷静に、自分の限界を測る。

 おそらく、一度か二度。

 持ち慣れない剣が、やけに重く感じる。

 月明かり。

 アンゴルの槍の穂先がそれを反射して鈍く光った。

 アルマークは自分の胸がうずくのを感じる。

 あれは、僕の胸を貫いた槍だ。

 その長大な槍は、記憶に残るものと寸分違わぬ姿だった。

 本当は僕はあの時、あの場で死ぬはずだった。

 激しい疲労と、断続的に襲ってくる痛み。アルマークの朦朧とした脳裏に、苦い記憶が蘇る。

 僕が今でもこうして生き永らえているのは、父が救ってくれたからだ。

 だいぶ後になってモルガルドがそっと教えてくれた。

 あんなに取り乱したレイズを見たのは初めてだと。

 戦場の何もかもを放棄して、レイズはお前を助けに走ったと。

 そのせいで、戦はめちゃくちゃになった。

 おそらく父は、それによって多くの信頼と名声を失った。失わなくてもいい仲間の命も失われたのだろう。

 だが父は、目覚めたアルマークに何も言わなかった。

 よかった、とも、悪かった、とも。

 アルマークも、何も聞けなかった。モルガルドにその話を聞いた後は、なおさら聞くことができなかった。

 かつて父はアルマークに、戦場では俺を当てにするな、と言った。死ぬときは結局独りだ、と。

 アルマークも、傭兵ならばそれが当然だと思っていた。

 だが、それなら父はどうしてあの時、何もかもをなげうって自分を助けてくれたのか。

 不甲斐ない自分に、そこまでして助ける価値はあったのか。あの無様な戦いぶりに、父はどこまで失望したのか。

 南へ旅立て、と言われたとき、アルマークは父の信頼を自分の剣によって取り戻すすべを失った。

 だから、アルマークの胸にはあの槍が今も抜けることなく刺さっている。

 アルマークは魔術師になると決めた。一流の魔術師になることで、父に少しでも息子を誇ってほしかった。やはり俺の息子は大した奴だったと。

 だが、魔術師になったら、この槍は抜けるのだろうか。

 不意に、アンゴルが槍を頭上に持ち上げた。

 そのまま槍を大きくぐるりと回す。

 それも、アルマークの記憶に残る姿だった。

 その挙動を見ただけで、喉の奥から苦いものがこみ上げてくる。

 怖いのか、僕は。

 ようやくそれを意識した。

 自分の全身を、疲労のせいではない冷たい汗が濡らしていることに気付く。

 相手は幻のような偽物だ。

 アルマークは思う。

 それでも、“陸の鮫”はやはり僕にとって、恐怖の象徴なのか。

 アンゴルは、変わらぬ速度で迫ってくる。

 その姿が恐怖の象徴だったとしても。

 アルマークは自分に言い聞かせた。

 こうしてゆっくりと追ってくるのであれば、その分時間が稼げる。

 朝まで、あとどれくらいの時間があるのか分からない。だが、それまで逃げ切ることができれば。

 不意に、低い笑い声がした。

 ギザルテだった。

「甘いよ、ガキ」

 船べりにもたれて、ギザルテは言った。

「お前、“陸の鮫”がそんなに甘い相手だと思ってんのか」

 アルマークはそれに答えなかった。

 甘い相手のわけはない。

 そんなことは、実際に剣を交えた経験のあるアルマークの方がよく分かっていた。

 だが、現実に、それ以外に採る方法がなかった。

 アルマークはまたじりじりと後ずさった。つかず離れずの距離を保つ。

 その瞬間だった。

 どん、という轟音とともに船全体が揺れた。

 何か大きな岩でも船にぶつかったのかと錯覚するほどの衝撃。

 だが、それはアンゴルの踏み込みの音だった。

 巨体がアルマークの目の前に迫っていた。

 さっきまであれだけあった距離が、一瞬で潰された。

 この踏み込みの速度。いまだかつて見たことがなかった。

 アルマークは全身の力を振り絞って横に飛びのく。しかし無駄だった。アンゴルの槍は正確にアルマークの右の太腿を貫いた。

 悲鳴は上げなかった。アンゴルが槍を振り上げる。刺された足を身体ごと持ち上げられ、そのままアルマークは放り投げられた。

 甲板を転がる。

 激痛に、声も出なかった。

 それでも剣を離さなかったのは、傭兵として育った最後の本能だったか。

 アンゴルが、血の滴る槍を手に近付いてくる。

 ギザルテが嗤った。

 僕があの時失うはずだった命。父に助けられた命。それを、ここで失うのか。

 アルマークはうわごとのように考えた。

 同じ相手に、命を捧げるのか。

 それはまるで皮肉な運命のようにも思えた。

 勝ち目どころか、生き残る目もなかった。

 だが、アルマークは自暴自棄にはならなかった。それどころか、必死に薄れゆく意識を繋ぎ止めようとした。

 死や運命に向かい合おうという殊勝な気持ちからではない。

 そこに転がる一本の棒を見たからだ。

 一見何の変哲もない木の棒。だが、それは“門”を開ける鍵だった。

 アルマークの大事な少女。

 その姿を思い浮かべただけで、心がじんわりと温かくなる存在。

 彼女の運命を大きく左右する杖が、そこに無造作に転がっていた。

 死ねない。

 念じる。

 強く。

 死ねるわけがない。

 これを、こんなところに放り出したままで、僕一人がおめおめと死ねるわけがない。

 アルマークが立ち上がったのを見て、ギザルテの顔から冷笑が消えた。

「立つのか」

 ギザルテが呟く。

「その足で」

 立つ。

 生きるなら、自分の足で立つしかない。

 アンゴルがゆっくりとアルマークに迫る。

 アルマークは霞む目を凝らした。

 どこまで来た。距離は。間合いは。

 何も分からない。

 どうすればいいのか。策など何もない。

 だが、死ぬわけにはいかない。

 だから立った。

 ウェンディ。僕は。

 君とともに。


 その時だった。



 歌が聞こえた。






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― 新着の感想 ―
やっぱりギザルテ好きだなぁ。試練を与えるグリーレストはどうしても、上から目線にならざるおえない立場だったけれど、ギザルテは対等に命を取り合う関係。そんなギザルテからの言葉はすごく響いた。前話の傭兵とし…
[一言] 一つ前ではギザルテさんに立派な傭兵認定されたアルマークでしたが、傭兵失格の烙印を押されたも同然のアンゴルとの思い出は苦しいものですね…。
[良い点] 恐怖心に打ち勝つ試練なのかしら? そもそも試練のつもりではないかもだけど。
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