冷水
アルマークは空中で身体を丸めて体勢を立て直すと、足から着水した。
大きな水しぶきが上がる。
すぐにアルマークは水底の砂を踏みしめて立ち上がると、口に入った海水を吐き出して船を見上げた。だが、ギザルテは顔を覗かせてもいなかった。
くそ。
アルマークは歯噛みする。
僕なんて見下ろす価値もない。脅威にもならないってことか。
仮にも自分の命を奪った相手だぞ。
先ほどの屈辱と相まって、反射的にかっとなって縄梯子を掴む。
乱暴に足を掛け、そこでふと冷静になった。
待て。
意識してか、それとも無意識にかは判然としないが、アルマークは、自らを長い時間、無思慮な状態には置かなかった。それは、アルマークを今日まで生き残らせてきた知恵の一つだった。
このまま、怒りに任せて甲板に戻ってどうする。
ギザルテの、あの踏み込みと剣技に、対処できるのか。
いや。
アルマークは縄梯子から手を離すと、ゆっくりと後ろに下がった。
相手が上から見下ろしていないのなら、むしろ都合がいい。
両手を大きく広げると、アルマークはそのまま後ろに倒れた。
再び、大きな水しぶき。頭から海水をかぶる。
夏のような太陽に照らされていたとはいえ、この時間の海水はやはり冷たかった。
屈辱で熱していた頭が、急速に冷めていくのが分かる。
立ち上がって両手で水をすくうと、もう一度、頭からかぶる。
目の覚めるような感覚と一緒に、冷静な思考回路が戻ってきた。
正面からの戦いでは、僕の魔法はギザルテの相手にはならなかった。
髪から水を滴らせながら、アルマークはそれを認めた。
今日までアルマークに魔法を教えてくれた先生、仲間たち。
その顔が次々に浮かぶ。
すみません、先生。ごめん、みんな。せっかく教えてもらったのに、こんな不甲斐ない僕で。
でも、僕の魔法はまだギザルテには通用しない。
悔しいが、それを認める。
そこから始めなければならなかった。
骸の戦士たちのように、打てば当たり、倒れてくれる相手とはわけが違う。
相手は北の戦場を駆け巡ってきた、二つ名持ちの傭兵なのだ。
僕の未熟な魔法だけでは太刀打ちできない。
だったら、どうする。
アルマークは自問する。
もう冷水をかぶる必要もなかった。
答えはすぐに出た。
だったら、頭を使うしかないだろう。
さっき、仲間たちと力を合わせてあの闇の魔術師を出し抜いたように。
力が足りなければ、知恵で補うんだ。
アルマークは大きく息を吸い、それから長くゆっくりと吐いた。
僕は、魔術師だ。
そう自分に言い聞かせる。
魔術師なら、どう戦う。
あるがままを見るんだ。
アルマークは、縄梯子をもう一度掴んだ。
甲板に戻ったアルマークを出迎えたのは、“銀髑髏”ギザルテではなかった。
そこにいたのは、二人の傭兵。
「本当に戻ってきやがった」
「団長の言ったとおりだな」
そう言って笑う二人の顔に、おぼろげながら記憶があった。
冬の屋敷でアルマークが斬った、ギザルテの配下の傭兵たちだった。
「ギザルテはどうした」
アルマークの問いに、一人が口元を歪めて答える。
「つまらねえから、ガキの相手はしねえってよ」
「仕方ねえから俺たちが相手してやるよ」
もう一人がそう言って、剣を抜いた。
「魔術師になったんだって? かわいそうにな」
それに答えず、アルマークはマルスの杖を構える。
その姿を見て、二人の笑顔が大きくなった。
「なるほど、いいざまだ」
一人が言う。
「剣の代わりに棒切れか」
「羨ましいぜ。これからは、ずっと誰かの背中に隠れる人生を送るってわけだ」
もう一人が言った。
「仲間の陰から、こっそりと相手の足をすくうんだ」
「一度しか、言わない」
アルマークは言った。
「ギザルテを出せ」
「言っただろうが」
一人が、威嚇するように一歩足を踏み出した。
「団長は、ガキの相手はしねえ」
その瞬間、アルマークが縦に杖を振り下ろした。
「うおっ」
とっさに飛びのいた傭兵の足元の床板が破裂音とともに大きく裂ける。
「ちっ」
もう一人が、体勢を低くしてアルマークに向かって走った。
北の傭兵らしい、迅速な反応だった。
だが、アルマークは落ち着いてそれを待ち構えた。
アルマークまであと数歩に迫った傭兵の足元で、突如火花が散った。
「ぐっ?」
身体が硬直したその傭兵に向けて、アルマークが杖を容赦なく水平に振るう。
風切りの術。
巻き起こった風とともに、音もなく鮮血が舞った。
首を失った傭兵の身体が、ゆっくりと横倒しになる。
「てめえ」
もう一人の傭兵が叫びざま、何かを投げた。
アルマークの足元で、ぱん、と乾いた音を立てて弾けたのは、ヒデイサギの実を乾燥させて紙でくるんだものだ。傭兵たちが好んで奇襲に用いる、綿毛玉と呼ばれる飛び道具だった。
巻紙が弾けた途端、中から飛び出した大量の綿毛がアルマークの視界を覆う。
その隙に、傭兵は一気にアルマークとの間合いを詰めた。
そうだ。
アルマークは思った。
あんたは正しい。
ギザルテが先ほどアルマークに実践してみせたように、自らの得物の間合いまで距離を一気に詰めるのは、魔術師と相対するときの鉄則と言ってよかった。
だけど、それは。
アルマークは身を翻した。
魔術師がのろまだっていう前提での話だろ。
甲板がきしむ。一陣の風のように、アルマークは走った。
綿毛の向こうにいるはずだったアルマークの姿を見失って、傭兵がたたらを踏む。
アルマークはすでにそんなところにはいなかった。
床板を蹴って矢のように駆けると、十分な間合いから傭兵に向き直る。
ようやくアルマークを認めた傭兵も彼に向き直るが、その時にはアルマークは杖を振っていた。
傭兵が瞬時に身をかがめる。風切りの術は、文字通り空を切った。
かわされた理由は考えるまでもなかった。
先ほど、仲間の首を切るところを見られたからだ。
さすがに、歴戦の北の傭兵。一度目にした攻撃をそのまま受けるほど間抜けではなかった。戦場では、修正と対応を怠った者から斃れるということを知っている。
だが、アルマークは焦らなかった。かわされることは織り込み済みだった。
続けて、間髪入れずに気弾の術を放つ。
といっても、一つ一つに必殺の魔力を込めたさっきのものとは違う。
目的は、相手を倒すことではない。
相手を足止めすること。そのために、小さな空気弾を広範囲に大量にばら撒く。
目の前の空間全てを塞がれては、傭兵も避けようがなかった。いくつもの小石をぶつけられたような感覚に、舌打ちして剣を振り回す。
そこにいろ。
アルマークは杖を下からすくい上げるように振り上げた。
傭兵の足が、甲板の床板から離れる。
風が、その身体を上空へと運んでいく。高く、高く。
「うおおっ」
傭兵の絶叫。そこで、アルマークは風を止めた。
杖を振り下ろす。
上から吹き下ろす風が起こり、今度は傭兵を下へ。
高所から勢いをつけての落下。傭兵はなすすべなく甲板に叩きつけられる。
鈍い音とともに、甲板の板が砕け、傭兵はそのまま動かなくなった。
二つの物言わぬ傭兵の骸を前にして、アルマークは杖を下ろす。
通用した。
痺れるような緊張感の中で、そう実感する。
傭兵にも、僕の魔法が。
別に、急に魔法が上達したわけではない。もちろん、ギザルテと彼ら二人との実力の違いはある。だが、それだけではなかった。
魔法を使うときの“間”を、戦場の空気に合わせた。ひどく抽象的な工夫だったが、それだけでアルマークの魔法は見違えるように効果を発揮した。
不意に、二人の身体から黒い霧のようなものが流れ出した。
霧はしばらく身体の上を漂った後で、溶けるように消えた。
もう二人の骸はそこにはなかった。ただ、奇妙な紋様の描かれた骨のかけらだけが残っていた。
闇の魔術。
人の骸を玩具のように弄ぶ魔術。
アルマークは胸の詰まる嫌悪感を覚えた。
彼らと同じようにギザルテもまた、倒されれば骨のかけらに戻るのだろう。
「部下は倒したぞ」
アルマークは叫んだ。
「出て来い、ギザルテ」
「……おう」
帆柱の陰から、ゆらりとギザルテが姿を現した。
「倒したのか」
驚いた様子もなく、ギザルテは言った。
自分の部下を悼むでもない。そのあたりは、生前と全く変わらなかった。
「それで急に威勢よくなったのか」
そう言ってギザルテは薄く笑う。
「現金なもんだ」
だが、アルマークの持つ杖を見ると、あからさまに失望した顔をした。
「まだそんなもん持ってやがるのか」
「僕は魔術師だ」
アルマークは答えた。
「あなたに何と言われようと」
「つまらねえな」
ギザルテは唾を吐く。
「つまらねえ。だが、仕方ねえ」
そう言って、腰の剣をゆっくりと抜いた。
「それじゃあ今度は、本当に殺すぜ」




