一人
霧の晴れた海岸。
先ほどまでの戦いが嘘のように、静かな月光が砂の上に降り注ぐ。
怨嗟の叫びとともに闇の魔術師が消えた後、アルマークたちの間には呆然とした空気が流れていた。
「消えた」
セラハが呟く。
「私たち助かったの」
そう言って、肩を支え合うノリシュとリルティを見る。
「どうも、そうみたい」
呆然とした表情のままノリシュが頷いた。
「よく分からないけど」
「闇だったな、あれは闇の魔術師だ」
少し興奮気味にそう言ったのは、バイヤーだ。
「初めて見たよ。まさかこんな島で遭遇するなんて」
「本当に消えたの?」
リルティが不安そうに周囲を見回す。
「大丈夫。もうあの禍々しい魔力を感じないわ」
まだ口元を押さえて辛そうにしながら、キュリメが言った。
「ここにはもういないみたい」
「よかった」
ピルマンが言った。
「見逃してくれたのか」
「違う」
険しい声が遮った。
「逃げたんだ」
ネルソンだった。顔に怒りを滲ませていた。
「なんだか分からねえが、あいつは尻尾を丸めて逃げていきやがったんだ」
ネルソンは吐き捨てる。
「あいつは俺たちと戦うことから逃げたんだ」
「あんた、本気で言ってるの」
ノリシュが言った。
「あんな化け物じみたやつが、私たちから逃げて行ったって」
「ああ」
ぶっきらぼうにネルソンが頷く。
「悪いかよ」
「あの魔力、あんただって感じたでしょ。それでもそんなことが言えるの」
「うるせえな!」
ネルソンが声を荒げた。
「分かってるよ、俺だって。俺たちが命拾いしたんだってことくらい」
「それなら」
「だけど俺たちは誰も逃げなかった!」
ネルソンは両手を広げた。
「誰も友達を見捨てねえで、この場に踏みとどまったじゃねえか!」
そう言って、ネルソンはノリシュを睨んだ。
「この場に残ったのは俺たちだ! だから、逃げたのはあいつだろうが!」
ネルソンの行き場のない怒り。
それを乱暴にぶつけられ、ネルソンを睨み返すノリシュの目から、涙があふれた。
「人の気も知らないで」
ノリシュの声が掠れた。
「何よ、ばかじゃないの」
そう言って両手で顔を覆うノリシュを見て、ネルソンが我に返った顔をする。
「あ」
「嫌い。本当に」
言葉が続かなくなってしゃがみこんだノリシュの肩をリルティが抱いた。リルティは非難するようにネルソンを睨む。
「あーあ。泣かせてしまったね」
レイドーがそう言って、ノリシュを見つめたまま言葉の出ないネルソンの肩を叩く。
レイドーはもういつもの飄々とした彼の口調に戻っていた。
「ちゃんと謝った方がいいよ」
「今のはネルソンが悪いな」
にやにやしながらデグが言う。
「魔術祭の劇の練習でもしてるのかと思ったぜ」
そう言われて、ネルソンは苦い記憶を思い出したのか、渋い顔で唇を噛んだ。
「……悪い、ノリシュ」
ネルソンは言った。
「別に、お前に怒ったわけじゃねえんだ。ただ、無性に腹が立ってよ」
ノリシュは手で顔を覆ったまま首を振る。その奥から、くぐもった嗚咽が聞こえた。
「……悪い」
ネルソンがもう一度言うと、セラハが手を叩いた。
「はい。じゃあもうそこまで。二人とも心が落ち着くまで、少し離れよう」
「そうだね、セラハの言うとおりだ」
レイドーが頷く。
「みんな、いっぱいいっぱいで戦ったんだ。気が立ったって仕方ないよ。少し落ち着こう」
その言葉に無言で頷き、しょげた顔でうつむいたネルソンに、アルマークはそっと近づいた。
「ネルソン。君の中の騎士が、納得していないんだね」
その言葉にネルソンがはっと顔を上げる。
「分かるよ、僕も悔しい」
アルマークは静かに頷いた。
「でも、ネルソン。どんなに悔しくても」
アルマークの脳裏を一瞬、かつて自分の胸にまっすぐに突き刺さった槍の影がよぎる。
「今の僕らじゃ、まだあいつには勝てない」
ネルソンの顔が歪んだ。
どんなに勝利を求めても、力はそれに都合よく伴ってはくれない。
けれど。
「まだ」
アルマークはその言葉に希望を込めた。
うつむいて砂を叩くネルソンに背を向け、アルマークは仲間たちから離れてゆっくりと砂の上を歩いた。
月の光が足元に濃い陰影を作る中、アルマークはその場所で足を止める。
グラングの右肩を砕いた光。その発生源の金の指輪のあった場所。
だが指輪はもうそこにはなかった。ただ、白い灰のような残滓が微かに残っているだけだった。
「もうないの?」
いつの間にか背後にウェンディが立ち、アルマークの見つめる足元を同じように覗き込んでいた。
「ああ。金の指輪だったね」
「私にはそこまで見えなかった」
「あの人の嵌めていたものによく似ていた」
アルマークは答えて、ウェンディに向き直る。
「ウェンディ。無事でよかった」
「うん」
ウェンディは頷く。
「みんな無事で、本当に良かったね」
それから、海の方に目をやる。
アルマークもそちらを見た。
先ほどまで、意図的に見ないようにしていた。ほかの仲間も気付いていたはずだが、あえてそれを口にしようとしなかった。
浅瀬に乗り上げるようにして佇む、荒んだ雰囲気の一艘の船。
「幽霊船」
ウェンディが呟く。
「まだ、終わりじゃないんだよね。あれがあるっていうことは」
「ああ」
アルマークは頷く。
「きっと、あれが本番だ」
先ほどの霧の罠は、おそらく何かの想定外だ。罠の前座というにはこの船との関連性が薄すぎた。その証拠に、グラングが姿を消してもアルマークの右手の反応はいまだ消えない。
「ライヌルの、最後の蛇の罠」
船には人の気配はない。だが、アルマークはモーゲンとともにその姿を見ていた。
“銀髑髏”ギザルテ。
「私も行くわ」
「いや」
アルマークは首を振った。
「僕が一人で行く」
「だめよ」
ウェンディが目を見張る。
「何を言ってるの」
「僕にかけられた罠だ」
「また、そういうことを」
「君の言いたいことは分かるよ」
アルマークはウェンディを見た。
「でも、強がりとかじゃないんだ」
そう言って、疲れて傷ついた身体を支え合っている仲間たちのほうを見やる。
「ほかのみんなはもう力を使い果たしているし、戦いにも慣れていない。君とモーゲンが頼りだ」
「だったら、私とモーゲンだけでも」
「まだ何か潜んでいるかもしれない」
アルマークは、静まり返った海岸を見た。散らばっていたはずの無数の骨は、グラングの消失とともに、ライヌルの金の指輪と同じように、灰になって消えていた。
仕方ない。
アルマークは、本来は北の古戦場で眠っていたであろう彼らを思う。
彼らも、こんな南の海岸で弔われることなど最初から望んではいなかっただろう。
だから、それはいい。
けれど。
「さっきの魔術師がまだ何かを隠している可能性もある」
アルマークは言った。
霧。骸の戦士。それだけで終わりだとは限らない。
「その時には、君たちがみんなに指示してほしい」
そう言うアルマークの顔を、ウェンディはじっと見た。
「……何かあるのね」
ウェンディは言った。
「あなたが一人で行かなければいけないわけが」
言葉に詰まるアルマークに、ウェンディは微笑んだ。
「分かったわ」
「ありがとう、ウェンディ」
「その代わり、約束して」
そう言って、アルマークの手を握る。
「絶対に帰ってくるって」
「ああ」
アルマークは頷いて、ウェンディの目をまっすぐに見た。
「約束する」
その言葉に、不意にウェンディが、ふふ、と笑った。
「恥ずかしいことを思い出しちゃった」
「君とはたくさん約束をしたからね」
アルマークは答える。
「どれが恥ずかしかったのかは分からないけど」
「気を付けてね、本当に」
ウェンディは真剣な表情に戻り、そう言った。
「無理はしないで……って言っても無駄だろうけど」
「分かってるよ」
アルマークは頷いた。
「約束は守る」
一人で戻ってきたウェンディを見て、モーゲンが怪訝そうな顔をした。
「あれ、ウェンディ。アルマークは?」
「行っちゃった」
その目に涙が滲んでいるのを見て、モーゲンは慌ててウェンディに駆け寄った。
「行っちゃったって、まさか一人でかい」
頷くウェンディを見るや、モーゲンは船の方へ駆け出そうとする。
その裾をウェンディが掴んだ。
「待って、モーゲン。行かないで」
「でも」
「本当に助けが必要なら、アルマークはそう言うでしょ」
ウェンディの目から涙が一粒こぼれる。
「私たちは、そういう関係を築いてきたはずでしょ」
モーゲンは言葉を失って、ウェンディの涙を見た。
船に乗っているのは、北の傭兵。
モーゲンは自分が見た光景を思い出す。
それに、甲板の人影は一つじゃなかった。
今のアルマークには、魔法がある。マルスの杖もある。
でも、剣はない。
モーゲンは唇を噛んで、波打ち際の船を見つめた。




