蛇の罠
体勢を崩して地面に墜落したかに見えたグラングは、砂浜に叩きつけられる寸前でふわりと身を翻した。まるで重力が消えたかのように空中で静止した後、闇の魔術師は静かに着地した。
それとほぼ同時、アルマークの身体は上昇する力を失い落下を始めていた。デグが再び腕を掲げる。
「デグ!」
ウェンディが祈るような表情で叫ぶ。
「絶対失敗しないでね!」
「ああ」
デグが目を細めてアルマークを見据えた。
「ほらよ」
アルマークの落下がぴたりと止まる。
熱い飲み物もこぼさない浮遊の術が、しっかりとアルマークの身体を掴んでいた。デグはゆっくりと腕を動かし、アルマークをそっと地面に下ろした。
「よかった」
ウェンディが安堵の表情を見せる。
「ありがとう、デグ」
「みんな、気をつけろ」
アルマークは叫んでグラングから距離をとった。
アルマークたちの目の前に立つのは、一見して魔術師には見えない執事然とした男だ。その姿はとても戦いに来たようには見えない。
だが、黒服から抑えきれず零れる魔力が、彼が強力な魔術師であることを物語っていた。
アルマークの警告に、ウェンディたちも皆身構えてグラングの挙動を見守る。
「おかしなことをしたら」
ネルソンが隣のガレインに囁く。
「遠慮なくぶちのめすぞ」
その言葉に、ガレインは無言で頷く。
「頼りにしてるぜ、ガレイン」
ガレインならば、何かあれば理屈抜きで本当に遠慮容赦なく打ちのめすのだろう。それは、彼を知るクラスメイト全員の共通認識だった。
だが、グラングは行動を起こさなかった。
十人を超える魔術師の卵の少年少女たちに囲まれ、敵意と警戒心のこもった眼で睨みつけられても、それを意に介す様子もなかった。
目を細めて、彼らの顔をぐるりと眺めまわす。
ややあって、ようやくグラングが口を開いた。
「どいつもこいつも、取り澄ました顔だ」
吐き捨てるような言葉だった。
「ノルク魔法学院」
アルマークたちの学院の名を、グラングは嫌悪感とともに口にする。
「世界で唯一の魔術師養成機関だと」
そう言って、口元を歪めた。
「何が世界唯一だ」
その言葉にアルマークは眉をひそめる。
グラングの目は確かにアルマークたちを見ているが、彼らに呼びかけているようでもなかった。
「そこで魔法を学んだから、だからどうした」
グラングはせせら笑った。
「上等な魔法が教えてもらえるのか。外の世界で学ぶよりも?」
アルマークたちに答えを求めているわけではない。その証拠に、グラングの顔が憎悪で醜く歪んでいた。
「では、外の世界の魔法は紛い物か。お前らの魔法だけが正しいのか」
「何を言っているの、この人」
アルマークの隣に立ったウェンディが、そっと囁く。
「誰と話しているの」
「分からない」
アルマークは首を振る。
奇妙なことを話し続けるグラングの背景に何があるのか、それはアルマークには分からない。だが、はっきりと感じ取れるのは、ノルク魔法学院に対する強い憎悪。
そして、次に何をしてくるか分からない狂気。
不意に、グラングの身体の中で魔力が膨れ上がった。
腐臭。
「アルマーク」
ウェンディが目を見張る。
「ライヌルと同じだわ。この人も」
「ああ」
アルマークは頷く。
この、隠そうともしない邪悪な魔力。
間違いない。紛れもなく、この男は。
「闇の魔術師の一人だ」
アルマークはマルスの杖に魔力を込めた。
その目の前でグラングの魔力が膨張を続ける。
「傲慢で、鼻持ちならないエリート気取りのガキどもが」
そう吐き捨てたグラングの、月光に照らされて伸びた影。それが別の生き物のように奇妙に捻じれた。
「みんな、気を付けるんだ」
アルマークはウェンディの腕を引っ張って、グラングからさらに距離をとる。
「何をしてくるか分からないぞ」
ウェンディがグラングから目を離さず、自分とアルマークを守るように不可視の盾を展開した。
だがグラングの身体の中で膨れ上がった魔力は、すでにアルマークたち全員分の魔力を優に超えるほどの巨大さとなっていた。
「うぐっ」
魔力の巨大さに中てられたかのようにキュリメが口を手で押さえた。
セラハやノリシュの顔も蒼白になっている。
「嘘だろ」
ネルソンがうめいた。
「こんなにでかい魔力を、一人の人間が抱えられるのかよ」
その言葉に、ウェンディの顔が一瞬曇るのをアルマークは見逃さなかった。
魔術祭でライヌルと対峙し、無理矢理に“門”を開かされたあの時。
ウェンディの魔力は今のグラングよりもさらに巨大だった。
「どうする、アルマーク」
普段は冷静なレイドーの声が震えた。
「何をすればいい。指示してくれ」
「自分の身を」
アルマークは答えた。
「とにかく守ってくれ」
言うのは簡単だが、果たしてそれを実行できるのか。
「私を倒してみせろ、ガキども」
グラングが吼えた。それだけで砂浜に竜巻のような風が起こる。
「学院で学んだ、そのご立派な魔法とやらで」
高まった魔力が密度を増していく。危険な水位をはるかに超えて。
「自分の身は自分で守ろう」
叫ぶモーゲンの声も上擦っていた。
「倒す方法は、きっとあるよ」
「そうよ」
ウェンディが呼応する。
「とにかく、最初の一撃を耐えましょう」
「言うことがいちいち小賢しい」
グラングの声が、闇の魔獣のような不快な響きを帯び始めていた。
「ならばやってみろ、選ばれた人間の力とやらで」
加速度的に、闇の圧力が高まっていく。
「くっ」
アルマークはマルスの杖を構えた。
防げるのか。倒せるのか。
そんな気はまるでしなかった。
だが、やるしかない。
歯を食いしばって、杖に魔力を込める。
生か、死か。逡巡はしなかった。
戦場で鍛えられた精神が、向き合う覚悟を一瞬で決める。
全身の魔力をかき集めて、次の一撃に賭ける。
「みんな、集中するんだ」
アルマークが叫んだときだった。
砂浜の隅で何かが光った。
ぼん、という鈍い音。
その瞬間に何かが弾けるように吹き飛んだ。
「がああっ!?」
グラングの叫び声が夜空に響く。血と肉が、濁った音を立てて砂浜に降り注いだ。
弾け飛んだのは、グラングの右肩だった。
リルティが小さな悲鳴を上げて膝からくず折れそうになるのを、ノリシュがとっさに支える。
グラングが鬼の形相で振り返り、そこにあった物を見て叫んだ。
「ライヌルぅぅぅ!」
警告はしたぞ。
去り際のライヌルの言葉。
砂浜に無造作に投げ出された金色の指輪。
グラングの肩を貫いたのは、そこから放たれた光だった。
自分の邪魔をするのなら、お前がどうなっても知らないぞ。
それは、ライヌルの意思。グラングの魔力が高まったときに発動するよう仕込まれた蛇の罠。
「おのれ」
グラングが身をよじる。
砂浜に伸びる影が、激しく膨張と伸縮を繰り返した。
「覚えていろよ、ライヌル。お前のご自慢の学院をどうしてくれようか」
弾け飛んだ右肩のあたりから、血の代わりにどす黒い何かが噴き出してくる。
「くそが。ガキども」
グラングがアルマークたちを見た。その狂気に満ちた目に、ネルソンですら息を呑んだ。
「殺してやる」
叫んだグラングに、アルマークが思い切りマルスの杖を振るった。
渾身の魔力を込めた、気弾の術。
「舐めるなぁ!」
グラングが叫んだ。その叫びとともに、空気の塊がかき消されて消える。
「覚えたぞ、お前らの顔を」
まるでのたうつ蛇のように、身体をよじってグラングが叫んだ。
もはや、常人にできるはずのない人体の限界を超えた爬虫類のような動き。
「必ず殺すからな」
「うるせえ!」
ネルソンが叫んだ。それと同時にガレインが放った風切りの術が、何もない砂浜を大きくえぐった。一瞬遅れてモーゲンの繰り出した光の網が、虚しく空を掴む。
「必ずだ!」
海岸に怨嗟の叫びを残し、闇の魔術師グラングは消えた。




