海
「幽霊船?」
ネルソンの口から突然に発せられた、旅行にはそぐわぬ不穏な言葉に、アルマークは顔をしかめる。
「それは穏やかじゃないな」
「まあ、どんなもんだかは俺も分からねえけどよ」
ネルソンは頭を掻く。
「でもせっかくそんな噂があるんなら、旅の思い出にぜひ見てみたいよな」
そう言ってネルソンはアルマークとウェンディの顔を見て、拍子抜けした顔をした。
「あれ?」
困惑したように呟く。
アルマークとウェンディの表情に、期待したような反応が見られなかったからだ。
「二人とも、幽霊船に興味ないのかよ」
「旅行に行くのに、気味の悪いものはあんまり見たくないかな」
ウェンディがそう言って遠慮がちに首を傾げる。
アルマークもその言葉に頷いた。
「幽霊船っていうからには、本物かどうかはともかく、きっとそんなにいいものじゃないよ。無理に近付く必要はないと思う」
「お前ら」
ネルソンは言いかけて、何かに思い当たった顔をする。
「そうだ。前に庭園で謎の声がするって噂をモーゲンが持ってきたときも、お前ら二人、全然乗り気じゃなかった」
「ああ、あのノリシュが風便りの術を練習していたときの」
アルマークが答えると、ネルソンは勢いよく頷いた。
「そうそう。あの時も最初は俺一人で行ったんだ」
「そういえば、そんなこともあったね」
ウェンディが懐かしそうな顔をする。
「そうだった、そうだった。お前ら二人はそういうやつらなんだ。話した俺がばかだったぜ」
ネルソンはそう言うと、身を翻してすぐ後ろにいたノリシュに駆け寄った。
「なあなあ、ノリシュ」
「何よ」
ノリシュが振り向く。
「あっ」
その様子を見てウェンディが顔をしかめた。
「ネルソン、きっと怒られるよ」
「うん」
アルマークは頷く。
「僕もそう思う」
案の定、すぐに、
「何考えてんのよ!」
というノリシュの怒鳴り声が響いた。
両耳を押さえたリルティが走って離れていく。
「ほら、やっぱり」
ウェンディが苦笑いしてアルマークを見た。
「少し考えれば分かるのに」
「ああいう真っ直ぐなところが、ネルソンのいいところだからね」
アルマークは言った。
「仕方ない」
結局、ネルソンの幽霊船の話はデグとガレインの興味を惹いたようで、レイドーを半ば強引に巻き込んで、四人でこそこそと船員に話しかけていた。
「もう、あいつら本当にばか」
ノリシュが腕を組んで頬を膨らませる。
「幽霊船にさらわれたって知らないから」
「男子はそういうの好きだよねぇ」
セラハが明るく笑った。
「幽霊船って響きが、男子の冒険心みたいなのをくすぐるんだろうね」
そう言ってキュリメを見る。
「うん、そうだと思う」
キュリメも頷いた。
「幽霊船とか海賊船とかを題材にした物語もたくさんあるし。男の子はみんな好きなんじゃないかな」
「まあ、ここに興味のない少数派の男子もいるけど」
ノリシュがそう言ってモーゲンを見る。
「幽霊船じゃお腹は膨れないからね」
モーゲンは澄ました顔で答えた。
「遊覧船なら少しは考えるけど」
「僕は、海には行かなくていいよ」
そう言って、別の意味でわくわくした顔を隠さないのは、バイヤーだ。
手には彼お手製の薬草手帳を抱えている。
「クラン島の薬草を、採って採って採りまくらないといけないからね。そんな時間はないよ」
「君はいつでもぶれないな」
アルマークは微笑む。
「暖かい島だって聞いたし、きっと他では採れない薬草なんかもあるんだろうね」
「そうなんだよ」
バイヤーは頷いた。
「この旅行のために、セリア先生に聞き込んで、図書館で調べて……試験勉強どころじゃなかったけど、まあそれはそれ」
そう言って、にこりと微笑む。
「めったにない機会だからね。逃したら後悔する」
「うん」
アルマークはその笑顔に自分の頬も緩むのを感じる。
「手伝えたら、僕も手伝うよ」
「ありがとう」
バイヤーは笑顔で頷いた。
「ほら、あんたたち。いつまでやってるの。船に乗るよ」
ノリシュがネルソンたちに向かって声を張り上げた。
船は朝日を浴びながら出港した。
穏やかな海を、風を受けて滑るように進んでいく。
乗船した客は、アルマークたち13人のほかには数人の男性がいるだけだった。
身なりからして、いずれもクラン島の島民で、島へ帰るところのようだった。
「学院の休暇が始まってから、船の客は学生さんばかりさ」
船員の一人がそう教えてくれた。
「中等部だっていう子たちのグループが、休暇が始まってからもう何組もこの船でクラン島へ渡ったよ。今も一組向こうに行ってるんじゃないかな」
「へえ、中等部ですか」
レイドーが反応した。
「ああ。夕方にこの船はまた向こうからノルク島に帰ってくるから、それに乗って帰るんじゃないか」
「そうですか」
レイドーは頷き、ネルソンを見て肩をすくめた。
「ジェビーたちじゃないといいけどね」
「あいつらだったら、ぶん殴ってやる」
ネルソンは腕を振り回した。
「魔術祭の夜の恨み、忘れてねえからな」
「よしなさいよ」
ノリシュがその脚を叩く。
「あんな連中に絡んだら、楽しい旅行も台無しになっちゃうでしょ」
「おう。それもそうだな」
ネルソンはあっさりと頷いた。
「ばかに構っても仕方ねえ。時間の無駄だ」
「本人の顔を見ても、そう言えりゃいいけどな」
デグがそう言って笑う。
船の上では、皆が思い思いに過ごしていた。
アルマークも、ウェンディやモーゲンと一緒に波の向こうで跳ねる魚を見たり、船と並んで飛ぶ鳥を見たりして穏やかな時間を過ごした。
「鳥はいいわね」
ウェンディが言う。
「海の上でも森の上でも、関係なく飛んでいけるんだもの」
「僕はごめんだな」
モーゲンが答えた。
「両手が羽だったら、食べるとき不便でしょうがないよ」
「モーゲンったら」
ウェンディが吹き出す。
「君らしい答えだな」
アルマークも笑顔で頷いた。
「君が人間に生まれてきて、本当に良かった」
「まあね」
モーゲンが胸をそらして答え、三人で顔を見合わせて笑う。
やがて前方に、尖った帽子のような形の島が見えてきた。
島の中央の、天に突き出すようにそびえた山から、噴煙が上がっている。
この島こそ、クラン島だった。
「そろそろだ」
ピルマンと話していたバイヤーが、嬉しそうに声を上げた。
「何がだい」
そう尋ねるアルマークに、バイヤーは水面を指差す。
「見ててごらん。一気に色が変わるから」
「え?」
「私も、これを見るの大好き」
ウェンディが嬉しそうに水面を覗き込んだ。
「ほら、アルマークも見逃さないで」
「うん」
アルマークはウェンディに言われたとおり、水面に目を凝らす。
その変化は、突然に訪れた。
濃い藍色を呈していた冬の海が、突如光を放つような鮮やかな青色に変わった。
吹いてくる風が、まるで夏のような熱気を孕んでいる。
船を包む景色全てに、眩い光が溢れた。
一瞬で季節が入れ替わったかのような変化に、船のあちこちから歓声が上がる。
「これは」
アルマークは思わず顔を上げてバイヤーを見た。
「クラン島の圏内に入ったんだ」
バイヤーは言った。
「さあ、ここからはもう冬じゃないよ」




