飛び足の術
「魔法を物に込める時のコツは、覚えてる?」
キュリメに尋ねられ、アルマークは授業でのイルミスの言葉を思い出す。
「覚えてるよ。込める物を自分の手の延長のように捉えて」
アルマークはそう言いながら、目の前の本に手をかざした。
「魔力を流し込み、そこから魔法が発現する寸前で、止める」
「合ってます」
キュリメは頷いて、自分も目の前の本に手をかざした。
「それじゃ、やってみよう」
「分かった」
アルマークとキュリメは並んで座り込み、それぞれの本に手をかざし、魔力を練る。
「普通に魔法を発動させるときよりも、ずっとずうっとゆっくりやるんだよ」
キュリメが落ち着いた声で言った。
「本のページが自分の皮膚だと思って、ゆっくり魔力を染み渡らせていくの」
そう言いながら、アルマークの手に目をやる。
「中途半端はだめだよ。自分の手だったら、隅っこには魔力が届いてないとか、そういうことはありえないでしょ」
キュリメは独特のペースで言葉を紡ぐ。
「本の隅々まで、自分の身体の一部だと思って。そういう風に魔力を注いで」
「うん」
アルマークは頷いた。
「キュリメは、いいね」
「え?」
キュリメはアルマークの顔を見る。
「何が?」
「その落ち着いた声が」
アルマークは本から目を離さず、微笑んだ。
「君の声も、僕にゆっくりと染み込んでくる。丁寧な魔力みたいだ」
ぼん、と音がしてキュリメの目の前の本のページがばさばさとめくれた。
「キュリメ?」
アルマークは目を丸くする。
「どうしたんだい、魔力はゆっくり流すんだって今自分で言ってたじゃないか」
「うん」
キュリメは赤い顔で頷いた。
「ごめんなさい。ちょっと失敗」
そう言って、角の少し焦げた本をもう一度置き直す。
「気をつけて」
アルマークはそう言うと、本に直接手を載せて目を閉じた。
「目を開けたままだと、どうしても本の文章が目に入ってしまうから。僕には目を閉じたほうがやりやすいみたいだ」
「うん。そういう人もいると思う」
キュリメは答える。
「私は、文字を自然に読みながら、その世界に入るみたいに魔力を注ぐの」
「それは名人芸だよ」
目を閉じたままで口元を綻ばせると、アルマークはざらついた紙に指を這わせ、その手触りをしっかりと感じ取った。
そこに、染み込ませるようにゆっくりと魔力を注いでいく。
ゆっくりと、というのが単に速度の遅さを意味しないことは、セラハとの補習で学んだ。
紙の質感を尊重しながら、丁寧に魔力をそこに織り込むように流す。
この本が、自分の手の延長となった感覚を掴むまで。
それが実感できるまで、ゆっくりと、丁寧に。
ずいぶん、時間をかけた。
ようやく本の隅々まで魔力が行き渡った実感を持つことができた。
まだ、ここまでで第一段階といったところだ。
そこに、今度は飛び足の術のイメージを固めていく。
かける相手の姿をまず想像する。
そうだな、相手はモーゲンにしよう。
アルマークは、小太りのモーゲンの足の中を自分の魔力がぐるぐると駆け巡り、モーゲンが笑顔で軽やかに走り出す姿をイメージした。
モーゲンが足を踏み出すときの力を、自分の魔力が肩代わりして支えてあげるイメージ。
それを、発動する直前で止める。
「そのまま、集中を解かないで」
キュリメの落ち着いた声がした。
「発動条件を確定させるの」
アルマークは、そっと目を開けた。
思ったよりもずいぶんと近くでキュリメの声がした気がしたのだが、案の定、キュリメはもうとっくに自分の本には魔法を込め終えたようで、身を乗り出すようにしてアルマークを覗き込んでいた。
「このページを開いたときに、魔法が発現するように」
キュリメは落ち着いた声で言うと、真剣な目でアルマークの顔を見た。
「解放させる、イメージを持つの」
「うん」
アルマークが頷くと、キュリメは手を伸ばしてアルマークの本を閉じた。
「イメージして」
キュリメの声が、アルマークの心に染み込むように響く。
「あなたがこの本を開いたら、そのとき、どうなるの」
「そのときは」
アルマークは答えた。
「モーゲンが笑顔で軽やかに走り出すんだ」
「モーゲン?」
キュリメは一瞬目を丸くして、それからぷっと噴き出した。
「ごめんなさい」
そう言って口を押さえるが、その肩が震える。
「ごめんなさい、モーゲンが、軽やかに」
キュリメは途切れ途切れに言った。
「鮮明にイメージしてしまって」
「かっこいいじゃないか、軽やかに走るモーゲン」
うぐっ、とキュリメの喉の辺りで妙な音が鳴る。
「ごめんなさい、もう許して」
キュリメは言った。
その目に涙がにじんでいる。
「モーゲンの話は、これ以上」
「君の中では、このあたりをモーゲンが軽やかに走り回っているってことだね」
アルマークは頷く。
「そのイメージ、いただくよ」
アルマークは口を押さえてぶるぶると震えるキュリメを尻目に、再度目を閉じてそのイメージを固めた。
よし。
最後に、ぎゅっと絞るようにして魔力をねじ切る。
「うん」
アルマークは息をついた。
「できた」
そう言って、満足そうにキュリメを見る。
「時間はかかったけど、こんなにスムーズにできたのは初めてだ。キュリメのおかげだよ」
「まだ分からないわよ」
ようやくモーゲンの幻との戦いを終えたキュリメは、紅潮した顔でアルマークを見て、微笑んだ。
「実際に試してみないと」
「ああ、そうか」
アルマークは頷いて、本を手に取る。
キュリメも、自分の本を手に取った。
お互いに立ち上がると、微笑みあって、本を交換する。
「僕から行くよ」
「うん」
キュリメが頷くのを見て、アルマークはそっと本を開いた。
ぱっと本から光がこぼれ、アルマークの足に吸い込まれていく。
「おっ」
アルマークは目を見張った。
足が軽くなったのが、歩いてみなくとも分かる。
「どう?」
キュリメに尋ねられ、アルマークは頷いた。
「うん。効いてるよ」
もちろん、直接足に魔法を流し込んでもらった夜の薬草狩りでのウェンディの飛び足の術と比べれば、その効果は雲泥の差だが、足がふわふわとした浮遊感に包まれ、今にも走り出したい気分になる。
「さすがだね」
「よかった」
キュリメは微笑むと、アルマークの魔法が込められた本に手をかけた。
「じゃあ、私も開くね」
本の中ほどから、一本、アルマークの髪の毛がぴんと飛び出している。
「えい」
キュリメが掛け声とともにそのページを開くと、本から光が溢れ出た。
「わっ」
キュリメが目を丸くする。
光は、さっきのキュリメの本よりもずっと強い。
「大丈夫かい、キュリメ」
アルマークが慌てて声をかけると、キュリメはぱたんと本を閉じた。
「ずいぶんたくさん魔法を込めたね、アルマーク」
キュリメは言った。
「これは、何人分?」
「ああ、つい」
夜の薬草狩りのイメージで、4、5人分は魔力を込めてしまったようだ。
「足は軽くなったよ」
キュリメはそう言って、その場で軽くスキップをしてみせた。
そのスキップがひどくぎこちなくて、アルマークは自分の魔法のせいかと心配になったが、キュリメの表情を見て、どうやらそれがキュリメの普段のスキップよりは遥かにマシな代物のようだと気付く。
「それはよかった」
「でも、当分は魔法が抜けなさそうだから、しばらく私の登下校用に使わせてもらうね」
「すまない」
アルマークが肩を落とすと、キュリメは笑顔で首を振った。
「別に失敗じゃないよ。先行するイメージに引っ張られたけど、私一人にかかる魔法の量は適切な範囲内だと思う」
「それなら、よかったけど」
ほっとした顔のアルマークを覗き込み、キュリメは微笑む。
「どう?」
「え? どうって?」
アルマークが聞き返すと、キュリメは笑顔で言った。
「物と話していると、悩み事を忘れるでしょ」
「ああ」
アルマークは思い出したように頷く。
「本当だ、ずっとこれに集中していた」
「物の声を聞いているとね、他の余計な声が聞こえなくなるのよ」
「確かに」
アルマークはキュリメを見て微笑んだ。
「君の落ち着いた声しか聞こえなかった。それが心地よくて、僕も集中できたよ」
「アルマーク」
キュリメは赤い顔でアルマークの顔を見る。
「あなたのそういうところって」
「ん?」
アルマークの表情を見て、キュリメは苦笑いして首を振った。
「ううん。やっぱりなんでもない」
そう言って、本をわざと乱暴にアルマークに押し付ける。
「面白いね、アルマークは」




