大事ではないが、大事なもの
その日の帰り道、黒ローブの男には出くわさなかった。
寮でモーゲンと別れたアルマークは、モーゲンの助言どおり部屋できちんと夕食を済ませると、もう一度身支度を整えた。
すぐに会えるか分からない。
長丁場になることを覚悟して、ローブの下に一応もう一枚服を着込む。
肩をぐるぐると回してみる。
うん。動きは妨げない。
背中にマルスの杖を背負うと、アルマークは部屋を出た。
寮のどこからかまだ賑やかな笑い声が聞こえてきていたが、外に出るまで誰にも出会わなかった。
暖かい寮の灯から離れ、一人、夜道を校舎へと歩く。
今日、こうして出てきたとしても黒ローブの男に出会えるとは限らない。
だが、できればアルマーク一人で会いたかった。
少なくとも、明日のキュリメとの帰り道に出会うことは避けたかった。
リルティほどではないにしても、キュリメもおとなしい女子だ。リルティのときのように気絶でもさせてしまっては申し訳ない。
灯もつけずに一人で暗い道を歩いていると、ふと旅のことを思い出す。
月明かりだけを頼りに歩いた夜が、いくつあっただろう。
最近は灯の術を使って友人と一緒に歩くことが当たり前になって、少し忘れかけていた。
けれど、今の僕は、あの時の僕と地続きの僕だ。
あの日から比べれば、僕の歩く道は格段に明るく賑やかになったけれど、それでもその道を歩くのが僕自身であることに変わりはない。
違うことといえば、あの日背負っていた長剣が、今は杖に変わっていること。
それが、この一年の僕の最大の変化だ。
闇に目を凝らしながら歩いていると、眠っていた感覚が目を覚ます。
身体の神経が、その感覚とつながるようにして全身の隅々まで行き渡っているのを感じる。
これも、補習の成果だろうか。
アルマークは息を吸い込み、そして、自分の隣を滑るように並んで歩く黒ローブの男に気付いた。
「探している」
驚く素振りもなく向き直ったアルマークに、男は言った。
「大事ではないが、大事なものを」
そう言うと、男はアルマークに顔を向けた。
「示せ」
「示します」
アルマークは答えた。
背中からマルスの杖を下ろし、右手に持つ。
「大事ではないが、大事なもの」
アルマークはゆっくりと言った。
「答えは、鍵です」
「ほう」
男の顔が歪む。
「鍵、とな。それはなぜ」
「鍵がなぜ存在するのか」
アルマークは言った。
「それは、大事なものを守るためです。大事なものを奪われないように、人は箱に、扉に、門に、鍵をかける」
男は何も答えない。
アルマークは続けた。
「だから、大事なのは鍵じゃない。鍵を使って守る必要のある、本当に大事なものは別にあるんだ」
モーゲンのお菓子袋。
それがアルマークにひらめきを運んできた。
大事なのは、中身のお菓子だ。
けれどモーゲンは、僕の大事なお菓子袋、と言った。
「鍵は、大事なものを守るための道具に過ぎない。けれど、鍵がなければ大事なものを守ることができない以上、鍵も大事なものになる」
アルマークの言葉を聞く男の表情は読めない。
僕なんて、大事じゃない。
アルマークは思った。
大事なのはウェンディだ。
けれど、僕がウェンディの力となり、ウェンディを守ることができるなら。
そうだとすれば、僕だって。
「大事ではないが、大事なもの。あなたの探しているもの。それは、この」
アルマークはマルスの杖をゆっくりと男に突きつけた。
「鍵だ」
しゅう、という空気の漏れるような音。
男が笑った。
「やれやれ」
男は言った。
その身体が、不意に質量を伴ったように見えた。
「そこにたどり着くまでにずいぶんかかったようだの、此度の所有者は」
「正解ですか」
アルマークは男の顔を見た。
「それが、あなたの求める答えですか」
「正解、と言わねばならんだろうな」
男は笑いを含んだ声で答えた。
「応じよう。此度の所有者に」
そう言って、ゆっくりと腕を上げ、マルスの杖を指差す。
「我が名はグリーレスト。その鍵を鍛え上げし魔術師が一人よ」
「おかしいと思っていたのだ」
グリーレストと名乗った黒ローブの男は、そう言って、アルマークの差し出したマルスの杖にそっと触れた。
「我はこの鍵の第二の番人。この鍵を通して一定の水準を超える魔術が行使されたときが我の出番よ」
マルスの杖とグリーレストの指先とが、共鳴するように淡い光を放ち合う。
「だが、呼ばれたはいいが、出てきた場所が違う。所有者とのつながりも切れている」
グリーレストはそう言って、自嘲気味に口元を歪めた。
「それで、また所有者を照合する手続きから始めねばならなかった」
それから、顔を上げてアルマークを見た。
グリーレストの顔は、武術大会で戦った銀貨の魔術師の顔にどこか似ていた。
「何か、したであろう。この鍵に」
グリーレストは言った。
「そういうことをされると、困るのだ。この鍵には精緻な魔術が施されている。折れないからといって乱暴な使い方をされると、いろいろと調子が悪くなったりもするのだ」
「ああ、その」
アルマークは指で頬を掻く。
「前に、魔力を込めた右拳で、思い切り殴りつけて止めたことが」
「それだ」
グリーレストはアルマークを指差し、顔をしかめた。
「無茶なことをする。そのせいで鍵がおかしくなったのだ。本来は、我は汝の前にすぐに現れるはずであったのに」
「すみません」
アルマークは謝る。
「一つ、聞いてもいいですか」
「何なりと、とは言えぬ」
グリーレストはそっけなく答えた。
「我は所詮、この鍵に宿るグリーレストの不完全な分身に過ぎぬ。知らぬことも多いし、知っていたとしても話せることは限られておる。それでもよければ、尋ねよ」
「それでは」
アルマークは頷く。
「あなたは第二の番人と言いました。僕は第一の番人と名乗る人にも出会ったことはありません」
アルマークの言葉に、グリーレストは一瞬眉をひそめた後、笑いを含んだ声で答えた。
「出会っておるよ。出会っていなければ、汝が鍵の所有者と認められることはない」
「でも」
グリーレストのような魔術師と出会った記憶はない。
「第一の番人、レブラッド」
グリーレストは囁くように言った。
「あれは、人の姿を取ることが極めて稀なのでな。たいていは人の恐怖を具現化した姿を取る」
そう言って、アルマークの目を覗き込む。
「ほれ、出会ったであろう。この鍵を手にする時に、何か恐ろしい魔物と」
「ああ」
アルマークは思い出した。
「デリュガン」
刃のような体毛を持つ、闇の魔獣デリュガン。
寮の地下室で出遭ったあの魔獣が、第一の番人であったということか。
「それがレブラッドよ」
グリーレストは言った。
「あれが認めたのであれば、仕方ない。我は汝を所有者として扱わねばならぬ」
アルマークは不思議な気持ちで、目の前に立つ黒ローブの男を見た。
この男は、自らを鍵を鍛え上げし魔術師と名乗った。
ということは、この魔術師は、学院長の話していた、かつて暗き淵の君と戦った善なる魔術師の一人ということなのか。
アルマークの視線に気付いたのか、グリーレストは顔をしかめた。
「何か言いたそうな顔をしておるな」
「あなたは、善なる魔術師、なんですか」
アルマークは尋ねた。
「その、姿がなんというか、闇の魔術師のようで」
「ああ、この姿か」
グリーレストは自分の身体を見た。
「レブラッドは汝の恐怖を具現化した」
そう言って、自分の黒いローブの袖を無造作に引っ張る。
「我は、汝の中の、魔術師という概念を具現化した」
「それじゃあ」
「我がこんな姿をしているのは、汝のせいよ」
グリーレストはアルマークを軽く睨んだ。
「あまりいい印象を抱いておらぬようだな。魔術師というものに」
「そんなことは」
首を振って否定しかけて、アルマークは思い直す。
そうなのかもしれない。
この学院でたくさんの魔法を学び、理解を深めてきた。
イルミス先生のような素晴らしい魔術師とも出会った。
けれど、魔術と闇とが、アルマークの中ではいまだに不可分のイメージとなっている。
「ま、闇すなわち黒、というのも安直ではある」
意外に気楽な口調でグリーレストは言った。
「黒とはそんなに単純な色ではない」
そう言ってアルマークを見るグリーレストの目は、思いの外優しかった。
「闇がそれほど単純なものではないようにな」
アルマークの予想とグリーレストの話とを総合した結果は、おそらくこういうことだ。
グリーレストが鍵と呼ぶマルスの杖には、所有者の力を確かめる「番人」がいる。
それは、所有者の段階に応じて姿を現す。
最初の番人であるレブラッドは、アルマークがマルスの杖を手にしようとした時に。
そして、二番目の番人であるグリーレストは、アルマークがマルスの杖を使って一定以上の魔法を行使した時に。
キリーブが言っていた、男を最初に目撃したという日。
その日、アルマークはレイラの見守る前で、マルスの杖で精緻な龍を作り上げた。
それが、引き金だったのだ。
一定以上の魔術の技量を確認したグリーレストが所有者であるアルマークの前に姿を現す。
はずだった。
だが、以前ライヌルとの戦いの中で、アルマークが殴りつけてマルスの杖を無理やり強制停止させたせいで、その機能に狂いが生じていた。
結果、グリーレストは夜の森に現れ、所有者を探して彷徨うことになった。
誰彼問わずに行われたそのなぞかけのような呼びかけも、マルスの杖に施された複雑な術式を再起動させるために必要なものだったのだろう。
グリーレストの笑いの意味も、今なら理解できる。
アルマークは、問いの答えとなるマルスの杖を背負って、構えて、分からないと答え続けていたのだから。
「まあ、何はともあれ」
グリーレストはアルマークを見て、今度ははっきりと笑った。
「第二の試練。試させてもらうぞ、所有者殿よ」




