経験
ちくり、と指の腹に針を刺す。
ぷくり、と真っ赤な玉が膨れ上がる。
「いつ見ても痛そう」
アルマークの手元を覗き込んだセラハが顔をしかめる。
「それじゃ治癒術で治してみて」
「分かった」
アルマークは頷く。
今日の授業でやったとおりだ。
自分の中の魔力を活性化させて、左手に集める。
元の傷のない皮膚をイメージして、そっと左手から発する光を右手の指の傷口に当てる。
自分の中の魔力の流れを感じ、そこに沿うように魔力を注ぎ込んでいく。
それが難しい。
アルマークはしばらく魔力と格闘した。
「できたよ」
ようやく顔を上げたアルマークは、右手の指をセラハに見せた。
「うん、ええと」
セラハは曖昧な顔で頷く。
「見えないかな」
セラハの言葉通り、指先の傷口の上ですでに血が乾いて固まってしまっていた。
「ああ」
アルマークは指先をぺろりと舐める。
「ほら、傷はないよ」
そう言ってもう一度セラハに見せる。
「そうだね」
傷の消えた指を見て、セラハは頷く。
「でも、こんな小さな傷でそれだけ時間がかかったら、魔法を使わなくても自然に血は止まっちゃうよね」
「それは」
セラハの当然の指摘に、アルマークは肩を落とす。
「確かに」
これがもっと大きな傷であれば、治す前に手遅れになってしまうだろう。
「それにしても、アルマークってすごい手をしてるね」
そう言ってセラハはアルマークの手を取った。
「すごく硬い」
こわごわと手のひらを指でなぞる。
「針も通らなそう」
「そんなことはないよ」
アルマークは苦笑して首を振る。
「何度も皮が剥けて硬くなっただけだから」
「木の皮みたいな感触」
セラハはしばらくアルマークの手を触っていたが、じきに思い出したように顔を上げた。
「あ、ごめん」
そう言って手を離す。
「じゃあ私のを見ててね」
セラハは目を細めて針を右手の人差し指の腹に刺した。
「ああ、痛い」
顔をしかめるその指に血の玉が膨れ上がる。
セラハの左手が光った。
セラハはそれを傷口の上にさっと滑らせる。
「はい」
そう言ってセラハは微笑んで、自分もアルマークと同じようにぺろりと血を舐めた。
そこにはもう傷は跡形もなかった。
「一瞬だ」
アルマークは息を吐く。
「すごいな」
「でしょ」
セラハは胸を張る。
「治癒術は、しっかり覚えたいんだ」
アルマークは言った。
「もちろん、ほかの魔法がいい加減でいいってことではなくて。ただ、治癒術は本当にしっかりと身につけたいんだ」
北で。旅の途中で。
アルマークの脳裏に、自分が見送ってきたたくさんの人の顔が浮かぶ。
その中に、アルマークが治癒術を使えれば助かったはずの命はいくつもあった。
これを、北に持ち帰りたい。
治癒術は、この学院で学ぶ魔法の中で、最も習得したい魔法と言ってもよかった。
「でも、うまくいかない」
アルマークの声は沈む。
アルマークの魔力は、破壊性や衝動性の強い魔法を使う時は抜群の力を発揮した。
自分でも分かるのだ。
俺たちを使え。
そうだ。燃やせ。
壊し尽くせ。
全身の魔力がそうして歓喜の声を上げ、アルマークはともすればその衝動に流されそうになる。
イルミスは、アルマークには張り切ると魔力を込めすぎる嫌いがあると言った。
それは一面では正しかったが、また別の理由もあった。
アルマークの魔力自体の性質。
大きすぎる、強すぎる、好戦的すぎる力。
その程度で抑えるな。
もっと、もっと。
解放しろ、俺たちを。
魔法を使うたびに断続的に押し寄せるその衝動を、アルマークはまだ飼い慣らせてはいなかった。
そして、治癒術などの緻密で繊細な技術を必要とする魔法では、魔力の動きは途端に鈍くなった。
あんなに饒舌に、やかましく、俺たちを使えと叫んでいた魔力たちが、うんともすんとも言わなくなる。
まるで、そんなことに自分たちが使われるのは不本意だとでも言わんばかりに。
「向き不向きはあるよ」
セラハは言った。
「アルマークの魔力の質には治癒術が向いていないのかもしれない」
「うん」
アルマークは頷き、強い目でセラハを見た。
「でも、使えるようになりたいんだ」
「大丈夫」
セラハは頷く。
「私だって使えるんだから、アルマークに使えないわけないよ」
それからアルマークはセラハの指導のもと、治癒術の練習に励んだ。
途中、イルミスが入ってきて、ちらりと二人の様子を見た後でラドマールの方へ歩み寄っていく。
じきにラドマールが立ち上がり、二人で魔法の練習が始まったので、今日の瞑想はうまくいったのだろう。
セラハの助言と反復練習の甲斐もあって、アルマークの治癒速度は少しずつ速くなってきたが、それでもまだセラハの速度には比べるべくもない。
ほかの、緻密な魔力操作を必要とする魔法もどちらかといえば苦手だが、治癒術は特にその傾向が強かった。
「難しいな」
アルマークが思わず息をついた時だった。
「イメージが弱いな」
背後からイルミスの声がした。
「先生」
アルマークが慌てて振り向こうとすると、イルミスは手を振ってそれを制した。
「傷の治るイメージが弱い」
イルミスはもう一度言った。
「それでは治癒速度は上がらないだろう」
「イメージですか」
アルマークは眉を寄せる。
「自分では、しっかりとイメージしているつもりなんです。元の傷のない皮膚を」
「いや」
イルミスは首を振った。
「君の場合、君自身の経験が邪魔をしている」
「経験、ですか」
意外な言葉にアルマークは目を見張る。
「そうだ。君は無意識に、傷は自然に治癒させるしかないと思っている」
「えっ」
「針で刺すような、傷ともいえない傷だからそれをはっきりと意識できないだけだ」
イルミスは厳しい表情で言った。
「君自身も治癒術で怪我を治してもらった経験がある。だが、それ以上にその身体に強烈に刻み込まれているのだろう。傷の痛みに苦しみながらその回復を待った経験や、怪我を治せずに命を落とした人を見てきた経験が」
「それは」
アルマークは答えかけて、言葉を失った。
確かにアルマーク自身、イルミスやウェンディに治癒術で命を救ってもらったことがある。
だが、その恩恵を受けていながらも。
陸の鮫。
胸の辺りがうずくような感覚。
熱病にうかされるように、生死の境をさまよった日々。
それだけではない。
目の前で、さして大きくもない傷が元で命を落とした人たち。
あれが全部、治癒術さえ使えれば起こらなかったことだったって。そんな都合のいいことがあるか。
それじゃああの人たちの命は。死は。
そんな風に、心のどこかで考えてしまっていたことを、アルマークは否定できなかった。
「それでは、先生。僕は」
どうしたら、と言いかけて言葉を飲み込む。
それは自分で考えるべきことなのだろう。
だが、イルミスはアルマークの様子を見て、目を細めた。
「治癒術については、試験は別としても習得は早ければ早いほどいい」
そう言って、セラハに目をやる。
「セラハ。いい題材を選んでくれてありがとう」
「えっ? あ、いえいえ。そんな」
イルミスに急にお礼を言われて、セラハは慌てて手を振った。
「前から、授業でアルマークが苦戦してるのが気になっていたので」
「そうか」
イルミスは微笑んだ。
「すまないが、もう一つ協力してもらってもいいかね」
「はい。もちろん」
セラハが頷くと、イルミスはアルマークを見た。
「君の身体には、怪我は自分で治すものだという無意識の束縛がかかっている。だから、君の場合は治癒術の練習には自分の身体を使わないほうがいい」
「ええと、それはつまり」
「いたっ」
セラハが声を上げ、アルマークは驚いてそちらを見た。
セラハが自分の指の腹を針で突いていた。
「はい、アルマーク」
そう言って、指をアルマークに差し出す。
「ちゃんときれいに治してね」




