嫉妬
「そう。ライヌルのことを聞きたかったのね」
セリアはアルマークを見た。
「彼の何が知りたいのかしら」
「僕の知っているあの人は、闇の魔術師です」
アルマークは言った。
「あの人は闇を操って、僕やウェンディを傷つけようとしました。それはそうなんですが」
アルマークは少し困った顔でセリアを見る。
「けれど、それ以外の時は、僕には悪い人には感じられなかったんです」
セリアは美しい顔に不思議な表情を浮かべ、話すアルマークを見つめる。
だから、とアルマークは続けた。
「僕はあの人がどんな人なのか知りたいんです。いい人なのか、悪い人なのか。今は悪い人だとしても昔はいい人だったのか」
「あなたの知りたいことは分かったわ」
セリアは頷く。
「あなたは自分の感覚をとても信頼しているのね」
「え?」
困惑するアルマークに、セリアは微笑みかけた。
「だって、そうでしょう。普通は自分がどう感じようとも、目の前の彼の行為を、それをしたという事実を優先するものよ。彼はあなたの大事なお友達のウェンディを傷つけようとした。それだけで、彼を悪人と認めることに何の疑問もないはずでしょう。でもあなたはそれが正しいのかどうか迷っている」
そう言ってアルマークの顔を改めて見る。
「違う?」
「……違いません」
アルマークはそう答えざるを得なかった。
セリアの言うとおりだったからだ。
目の前でウェンディの命を危険にさらされた。それだけで十分なのだ。それだけで、問答無用で、ライヌルはアルマークにとって、悪ではないか。
だが、北の戦場で、そして南への長い旅で磨いてきたアルマークの第六感が、単純にそう割り切ることを諌めていた。
この人は悪い人じゃない。
経験から導き出されるその結論が、アルマークを戸惑わせていた。
アルマークの複雑な表情を見て、セリアは小さく首を振る。
「ライヌルはね、とても優秀な人だったわ」
セリアは言った。
「何でもできて、人当たりも良くて。そうね、あなたのクラスのウォリスみたいに」
「……ウォリスですか」
アルマークは目を瞬かせる。
「そんなに優秀だったんですか」
「ええ」
それならどうして。
そう言おうとしたが、魔術祭の日のセリアの真っ赤な目を思い出して口をつぐむ。
「ライヌルは誰もが認める優秀な人だったけど……ただ」
「ただ?」
セリアが顔を曇らせたのを見て、アルマークは顔を上げる。
「ただ、何ですか」
「彼は平民だったのよ。それも、かなり貧しい階層の出身」
セリアは言った。
「この学院は当時から平等な教育を謳っていたけれど、貴族と平民の溝は今よりももっと遥かに深かったの」
セリアはどこか遠くを見つめるようにして話す。
「だから、彼の成績が学年で一番であることを面白く思わない人も大勢いたわ」
「そうだったんですか」
ライヌルが平民だった。
それはアルマークにはやや意外な事実だった。
初めて会ったとき、すでにライヌルは宮廷魔術師としてウォルフ王太子のお付きをしていた。
王族のきらびやかな一行の一員。
だからアルマークは、ライヌルも貴族なのだろうと勝手に思っていた。
そういえば。
アルマークは、以前イルミスがライヌルについて、劇で嫌味な貴族の役を好演して拍手喝采だったと話していたことを思い出す。
あの時は何気なく聞いていたが、それは多くの敵を抱えるライヌルからすれば、かなり危険なことだったのではないだろうか。
「それではライヌルさんの周りは敵ばかりだったんですか」
「いいえ」
アルマークの問いにセリアは首を振る。
「彼の周りはいつも笑い声で溢れていたわ。さっきも言ったとおり、彼は学年の首席で人当たりも良かった。彼と仲良くしたい人はたくさんいたわ」
「でも、先生はさっき」
アルマークは怪訝な顔をする。
「面白く思わない人もたくさんいたって」
「嫉妬っていうのはね、アルマーク」
セリアは言った。
「とても深い感情なの。多くの人は、それを恥ずかしいことだと思う。だから、それを隠すの。性格も頭も良くて、魔法も武術もできる生徒を、彼が貧民の出だからといって蔑むのは自分の愚かさをひけらかすようなものよ」
「普通は隠すんですね」
アルマークは頷く。
それは、分かる。
アルマークもそうだった。
クワッドラドの大河で龍を見て、無邪気にあれを倒したいと言ってのけたガルバ。
その言葉を聞いて目を細めた父。
アルマークは、それに気付かないふりをした。
「それじゃあ、面白く思わない人たちもライヌルさんには手を出せなかったんですね。そこまで愚かな人たちではなかったんだ」
アルマークの言葉に、セリアは曖昧に首を振る。
「私が言ったのは理屈。嫉妬は、理屈ではなく感情。感情は往々にして理性や論理よりも強い力を持つわ。そして、感情に支配されたとき、その人が客観的にとても愚かに見えるのは誰であろうと同じことよ。私でも、あなたでもね」
セリアの言うことが曖昧模糊としてきて、アルマークは戸惑う。
「普段は笑顔で付き合っている友人でも、裏でどう思っているかは分からないってことですか」
「ええ。その感情が表に出た時にどんな行動を取るかもね」
セリアは言った。
「あなたにも、共感できるところがあるのかしら」
「はい」
アルマークは頷く。
北では、それは当たり前のことだった。
身内と言える黒狼騎兵団と離れてから、北での旅は裏切りの連続だった。
かつて父が言っていた。
裏切り者は、裏切り者の顔はしねえ。
それは最初、とても友好的な態度を取る。
「実際に、何があったとか、そういうことは私には分からないわ。私から見る彼は、いつも楽しそうで、みんなの輪の中心にいたから」
「そうですか」
アルマークはセリアの言葉に頷いた。
セリアの話からは、ライヌルの当時の状況はおぼろげながらにしか分からなかった。
表面上はおそらくとても穏やかに、順調に、ライヌルの学生生活は過ぎていったのだろうということは推測できた。
それは、ちょうど今のウォリスと同じように。
「セリア先生やイルミス先生は、ライヌルさんと仲が良かったんですか」
「私たち?」
セリアは少し笑う。
「私は彼みたいに眩しい人のところにはあまり近づかなかったけれど、それでも彼の方からたまに声をかけてくれたときはやっぱり嬉しかったわ。それから、イルミスは、そうね」
セリアは少し言葉に迷う。
「イルミスは当時から少し変わっていたから。ライヌルも、イルミスと一緒にいる時はとても自然に見えたわ。普段は見せない無防備な表情をして」
そう言って、アルマークに微笑んだ。
「二人は、いい友人同士だったわ」
「そうですか」
アルマークはうつむく。
ライヌルのことを話す時の、イルミスの少し憂いを帯びた瞳と、優しい表情。
だからアルマークにも分かっていた。
二人はきっといい友人だったのだろうと。
「でも、ライヌルさんはこの学院を高等部の途中で辞めたんですよね」
「ええ」
セリアは頷いた。
「あのときは驚いたわ。でも、そうなるんじゃないかって予感もあった」
「予感、ですか」
「それについて、イルミスは何て?」
逆に質問されて、アルマークはセリアを見上げる。
「イルミス先生は、ライヌルさんが学院を辞めた理由は詳しくは知らないと」
「そう」
セリアはアルマークから視線を外し、何かを考え込んだ。
「……私にも、理由はわからないわ」
しばしの沈黙の後、セリアは言った。
「ただ、彼はこの学院には留まらないだろうっていう予感。……何と言ったらいいのかしら。彼には、そういう危うさのようなものがずっとつきまとっていた」
そう言って、セリアは少し悲しそうな目でアルマークを見た。
「だから、今、彼があなた達に害を及ぼしていることが、私にはとても申し訳ないし、悲しいの」
昼食をとらなければいけないこともあり、アルマークがセリアから聞くことができたのはそこまでだった。
また今度教えて下さい、と言ってアルマークはセリアと別れた。
さっき露店で買ったんだよ。一緒に食べようじゃないか。
にこにこと飴を差し出してきたライヌルの姿がアルマークの脳裏に蘇る。
僕は、あの人を憎みきれない。
アルマークはそれを認めた。
けれど、きっと僕はあの人とまた出会う。今度こそ、本気で戦うことになるのかもしれない。
強大な闇の魔術師。
心に迷いがあって勝てる相手ではない。
それまでに自分の中で、ライヌルという人間をはっきりさせておきたかった。
アルマークは自分の右手を太陽にかざす。
冬のか弱い日の光に照らされた右手の中には、黒い蛇の姿は見えない。
だが、そこにいる。
それはわざわざ学院長の魔法を通さなくとも自分の感覚で分かる。
この最後の一匹の罠がいつ発動するのか。
その時か。その後か。
僕はあの人と戦うことになるのだろうか。
その時は、ウェンディとともに。
仲間たちのくれた教えを胸に。
これは武術大会や昨日のトルクとの勝負とは違う。
決して負けることの許されぬ戦い。
北の戦いだ。
「おーい、アルマーク」
渡り廊下の向こうでネルソンが手を振っている。
「アルマーク。もう昼休み終わっちまうぞ。昼飯片付けられちまうぜ」
「ごめん、今行く」
アルマークはネルソンに叫び返して、走り出した。




