南の歌
「ごめんなさい」
リルティは細い指で自分の目元を拭った。
「ちょっと驚いちゃって」
「ごめん」
アルマークは困った顔で眉を寄せた。
「魔唱の術にはそぐわない歌だったかな」
「そぐわないっていうか」
リルティは首を振る。
「私も、初めて聞く歌だったから。それに、言葉と旋律がとても強かった」
そう言って、アルマークを見る。
「あの歌に魔力を乗せるには、私じゃまだ技術が足りないと思う」
「そうなのかい」
アルマークはよく分からないながらも頷く。
「でも僕は、歌というものを初めてちゃんと歌ったよ。すごく、不思議な感じがした」
「初めて歌ったの?」
リルティは目を見張る。
「声に全然迷いがなかったのに」
「聞いたことはあったんだ」
アルマークは老練な十人組長の顔を思い出す。
その低い声がはっきりと耳に残っていた。
デラクは、今でも仲間のためにあの歌を歌っているのだろうか。
「この前、ガレインとフィッケに模声の術をしっかり習ったんだ。その応用、と言えばいいのかな」
アルマークは微笑んだ。
「声は自分の声だけど、抑揚や調子は昔聞いた時の歌を模写するイメージで歌ってみたんだ」
「そんなことができるの」
リルティは信じられないものを見るようにアルマークの顔を見た。
「模声の術だって、この間練習したばかりなんでしょ。それをもう応用で使っちゃったの」
「まあ、そう言うと大げさだけど」
「ううん」
リルティは首を振った。
「やっぱりすごいね、アルマークは」
それから、探るようにアルマークの顔を見る。
「じゃあもしかして、私の歌を模写することもできるの?」
「いや、それは」
アルマークは笑顔で首を振る。
「さっきの歌は、昔、しっかり覚えろって言われたから必死で頭に入れたんだ。だから再現できたけど、君の歌の真似なんて、とても僕にはできないよ」
「ふうん」
リルティはまだ驚きの冷めやらない顔でアルマークを見つめた。
「この学院で私みたいなことができる人、初めて見た」
「君みたいなこと」
アルマークは繰り返して、それが先程こともなげに『草原の傭兵』を再現してみせたあの能力のことを言っているのだと気付く。
「いや、リルティ。それはない」
アルマークは慌てて首を振った。
「僕はただ、覚えろと言われたから」
それが、父さんの言葉だったから。
「別にいいよ、謙遜しなくて」
リルティは首を振って、微笑む。
「北の歌。それにアルマークの歌」
リルティはアルマークを見て、普段はめったに見せない無邪気な笑顔を浮かべた。
「どっちも初めて聞けて、嬉しかった」
リルティと並んで実践場に戻ったアルマークは、まだラドマールが険しい顔で瞑想をしているのに気付いた。
今日はずいぶん瞑想の時間が長い。
イルミス先生、今日は徹底的に瞑想をやらせるつもりなんだ。
アルマークは、実践場の中央で腕を組んだまま動かないイルミスを見た。
人を育てるということの、大変さ。
決して面倒を厭うことのない根気強さ。
イルミスの姿勢に、アルマークは深い尊敬の念を抱く。
それと同時に、思いついたことがあった。
「イルミス先生」
アルマークは声をかけた。
「ここで少しだけ、魔唱の術の練習をしてもいいですか」
「えっ」
リルティが驚いた顔で、アルマークのローブの裾を引っ張る。
「何言ってるの、アルマーク。瞑想の邪魔になるよ。だからわざわざ外に出たのに。怒られるよ」
しかし、イルミスは頷いた。
「かまわん」
ラドマールから目を離すことなく答える。
「好きにやりなさい」
その言葉に、リルティは戸惑った顔を見せた。
「大丈夫だよ、リルティ」
アルマークは頷く。
「この間から、デグやガレインたちとさんざんうるさくして、ラドマールを怒らせた後だから」
「それなら、なおさら」
リルティは困った顔をする。
「私、怒られたくないよ」
「君の歌に怒る人なんて、この世にいない」
アルマークは断言すると、リルティの隣に立った。
「君の歌に、僕の魔力を乗せさせてくれ」
「え?」
リルティはますます困った顔をする。
「何を歌えばいいの」
「心の落ち着く歌」
アルマークは答えた。
「僕はさっきの歌しか知らないから、選曲は君に任せるよ」
「でも」
「音楽の力を、もっと見たいんだ」
アルマークはリルティに頷くと、険しい顔のラドマールを見た。
「君は、音楽が世界を変えることもあるって言ったじゃないか」
変えよう、とアルマークは言った。
「ラドマールの世界を、少しだけでも」
「強引だよ」
リルティは小さな声で言って、ため息をつく。
「アルマークって、意外と強引なことが多い」
「ごめん」
「そこまで言われたら、私だって歌わないわけにはいかないのに」
「ありがとう」
アルマークが横を向いて微笑むと、リルティは微かに首を振った。
「あなたでも魔力を乗せやすい歌にする。私の歌のイメージをしっかり掴んで」
「分かった」
「早めに入ってきてね」
リルティは付け加えた。
「一人でずっと歌うの、恥ずかしいんだから」
「分かってる」
アルマークが頷くと、リルティは最後にアルマークの横顔を軽く睨んで、それから真剣な顔つきになった。
歌手の顔。
そう思って、アルマークは心の中ですぐに首を振る。
いや。
魔術師の顔だ。
リルティが歌い出した。
穏やかな歌い出し。リルティの美しい声が、心地よく耳に届く。
壁際のラドマールが目を開けた。
アルマークの聴いたことのない歌だった。
だが、イメージはすぐに掴めた。
冬の寒い日の、暖炉のような暖かさ。
大丈夫。外がどんなに寒くても、ここにいれば安心だよ。
ほら、暖かいよ。
そう言ってくれているかのような歌だ。
アルマークはリルティの歌声にそっと魔力を乗せた。
北生まれのアルマークだからこそ、この学院の誰よりも暖炉の暖かさ、ありがたさを知っている。
リルティがこの歌を選んだ理由も、そこにあるのかもしれない。
リルティの言葉通り、イメージは容易だった。
アルマークの魔力は、すぐにリルティの歌声と一体になって輝いた。
ありがとう、リルティ。
アルマークの魔力を乗せたリルティの歌声は、実践場全体に広がっていく。
頑張れ、ラドマール。
アルマークは念じた。
イルミス先生を信じて、自分を信じて、君の持つ強い心でまっすぐ進めばいい。
僕はその思いを魔力に込める。
リルティの優しい声が、魔力を伴ってラドマールの尖った心を包み込んでいく。
訝しげな顔で歌を聴いていたラドマールが、首を振って気を取り直したように座り直した。
目を閉じて瞑想を再開する。
その顔は、さっきまでよりも心なしか穏やかに見えた。
言葉だけでは届かない心にも、歌ならば届くことができる。
これが、音楽の力か。
アルマークは驚嘆した。
僕は、北の歌を決して忘れることはないけれど。
アルマークは自らもリルティの優しい歌声に包まれながら思った。
南の歌も、歌えるようになりたいな。
ラドマールの中で、澄んだ魔力が練られていくのが分かる。
イルミスが口元を微かに緩ませた。
外に出ると、先程よりも寒さがずっと強くなっていた。
「今日は、いっぱい歌っちゃった」
アルマークと並んで歩くリルティは、言葉とは裏腹に嬉しそうに言った。
「こんなつもりじゃなかったのに」
「いや、勉強になったよ。世界が広がるってこういうことを言うんだね」
アルマークは心から言った。
「ありがとう、リルティ」
「それならよかったけど」
リルティは恥ずかしそうにうつむく。
「明日はトルクが来る番だよ」
「トルク」
アルマークは微笑んだ。
「いよいよか。楽しみだな」
「本人はすごく嫌そうな顔をしてたけど」
リルティの言葉に、アルマークは首を振る。
「トルクには迷惑をかけてばかりだからね。仕方ない」
「迷惑?」
リルティが不思議そうに首を傾げる。
その時だった。
突然、リルティが引きつったような小さな悲鳴を上げた。
アルマークはそちらを振り向きざま、肩越しに自分の背中に手を伸ばす。
茂みの向こうに黒ローブの男が立っていた。
「示せるか」
男は低い声で言った。
「何をだ」
背中のマルスの杖を握ってアルマークが尋ね返すと、男の口元が歪む。
「分からぬか」
笑っているように見えた。
アルマークはとっさに言い返そうとした。
だが、隣でリルティの身体が突然ぐにゃりと力を失った。
「リルティ!」
慌てて腕を伸ばして、地面にくずおれそうになる華奢な身体を支える。
男は何も言わず、そのまま姿を消した。
アルマークはリルティの身体を抱きかかえて、その呼吸を確かめる。
大丈夫だ。
突然の恐怖で気を失っただけのようだった。
そういえば、リルティは怖いものがとにかく苦手だった。
「……示せ、か」
アルマークは呟いて、男の消えた闇の向こうにしばらく目を凝らした。




