兄弟
風が、澄み切った冬の空気の中に微かな異臭を運んできた。
人気のないバルコニーから眼下に広がる広大な庭園を見下ろしていたその少年は、ふと振り返った。
日の届かない、アーチの影。
灰色のローブの男が、いつの間にかそこにうずくまっていた。
「来ていたのか」
少年は驚く様子もなく、男にそう声をかけた。
凛とした声の響きに、ローブの男はかしこまったように深々と頭を下げる。
「もう、すっかり冬だ」
少年は言った。
少年よりも遥かに年上に見える男は、うずくまったまま顔を上げない。
「冬が終われば、春が来る」
少年は当たり前のことを、さも大ごとのように言う。
「春は、新たな生命の季節だ」
そう言うと、顔を上げない男を憐れむように見やり、少年は庭園に目を戻した。
「時間は足りるのか、ライヌル」
その言葉に、少年の背後でようやく男が顔を上げた。
「順調でございます」
男は言った。
「何もかもが」
「そうか」
風に、少年の金髪が揺れた。
その拍子に、整った顔に刻まれた深い傷跡が露わになる。
「順調ならば、よい」
少年は言った。
「それは余のためになるのだな」
その声に、皮肉な響きが混ざる。
「無論でございます」
男の答えは、少年をさして満足させはしなかった。
「必要な魔法具はあるか」
少年は事務的な声で言った。
「なんなりと申すがいい」
「今のところは」
男が答える。
「間に合っております」
「必要であれば、遠慮はするな」
少年はそう言うと、しばらく風に髪をなびかせた。
男はその背後で身じろぎもしない。
やがて少年は、ライヌル、と乱暴にその名を呼んだ。
「尽くせ、最後まで」
「はっ」
男が再び深々と頭を下げる。
その右手の中指で、黄金の蛇が鈍く光った。
一瞬、日が翳る。
微かな風。空気が揺らいだ。
少年が振り返ると、男の姿はもうなかった。
ウェンディと二人で勉強すると、一人で勉強しているときとは段違いに効率がいいことに気付き、アルマークは驚いた。
少しでも分からないことがあれば、ウェンディに訊く。
そうすると、たちどころに解決してしまう。
アルマーク自身は成果を大いに実感したが、ウェンディにとってはどうだったのだろうか。
心配になって、夕食前に尋ねてみると、ウェンディは微笑んだ。
「アルマークに質問してもらうと、自分でもどこまで理解しているのかが分かるの。自分の勉強にもなるんだよ」
確かに、前にもその答えは聞いた。
それでもアルマークは申し訳なくて確かめてしまう。
「僕に気を使ってそう言っているんじゃないのかい。本当はやっぱり一人で勉強したほうが」
「ううん」
ウェンディは首を振った。
「アルマークのことを心配しながら一人で勉強するより、二人でするほうがずっといい」
食堂へ行って早めの夕食を二人でとると、アルマークはいったんウェンディと別れて、準備のために自室へ戻った。
勉強道具を片付け、寒さ対策に制服のローブを羽織り、マルスの杖を背負う。
それからふと窓の外を見ると、すっかり暗くなった中を、灯の術の炎が寮に近付いてくるのが見えた。
灯に照らされた金髪。
ウォリスだ。
どこからか、ウォリスが戻ってきたのだ。
アルマークは急いで部屋を出ると、入口の大扉のところでウォリスを捕まえた。
「ウォリス、どこへ行っていたんだい」
アルマークが声をかけると、ウォリスはちらりとアルマークを一瞥した。
「ああ、君か。別に、どこでもいいだろう」
事務的な口調で目も合わせずにそう答えるウォリスに、アルマークは質問をぶつける。
「黒ローブの男を探していたんじゃないのかい」
「なんだって?」
ウォリスがアルマークの顔を見た。
その目が険しくなる。
「どういう意味だ?」
ウォリスの雰囲気が一変した。
その身体から発せられる、冷たい殺気にも似た迫力。
それは、魔術祭の劇を主導して成功をもたらした頼れるクラス委員のものではない。
南で、こんな空気をまとうことのできる人間をアルマークはほかに知らない。
そして、いったいこの学院の何人が、このウォリスの姿を知っているのだろうか。
「おかしなことを言うじゃないか、え? アルマーク」
ウォリスはそう言って微笑んだ。
その威圧感は、整った笑顔を見せることでもいささかも和らぐことはない。
かえって、凶悪な雰囲気がいやが上にも強調される。
まるで歴戦の傭兵もかくやと思わせる重圧。
「何を根拠にそんなことを言うんだ」
「2年生に聞きに行ったそうだね」
アルマークはその空気に怯むこともなく、穏やかにそう言った。
「黒ローブの男のことを」
「ああ」
ウォリスは鼻を鳴らした。
その全身を覆っていた威圧感が、またたく間に霧散する。
「なんだ、そのことか」
つまらなそうに言うと、ウォリスはアルマークに背を向けた。
「その件なら、僕はもう興味がない。君に任せる」
「え?」
イルミスと同じようなことを言われ、アルマークは戸惑う。
「どういうことだい」
歩き去ろうとする背中に声をかけると、ウォリスは呆れたような顔で振り返った。
「存外、鈍いんだな。君が鈍いのは色恋の方面だけかと思っていたが」
「からかわないでくれ」
アルマークは首を振る。
「僕は大真面目だ。君は一体何を知っているんだ」
「知っているも何も」
冷笑とともにそう言いかけて、ウォリスは考え直したように首を振った。
「黒ローブの男が何と言っていたのか、君は聞いたか?」
「ああ」
アルマークは頷く。
「大事ではないが大事な」
「そう、それだ」
皆まで言わせず、ウォリスは面倒そうに頷いた。
「それの意味を考えろ。君も本当はばかではないのだろう」
ウォリスは、それで話は終わりだとでも言うように去っていく。
「ウォリス」
もう一度呼びかけると、ウォリスは振り向きもせずに言った。
「これは、君の範疇の話だ。僕じゃない」
ウォリスを見送って、アルマークが大扉の外でしばらく待っていると、コルエンとポロイスが連れ立ってやってきた。
「おう、アルマーク。早いな」
そう言って笑うコルエンの吐く息が白く弾む。
「ウェンディはまだか」
「ああ、そうみたいだ」
アルマークは頷く。
「女子は準備に時間がかかるんだろうな」
ポロイスが言うと、コルエンはじれったそうに頭を掻いた。
「めんどくせえな。男だけで行っちまうか」
いたずらを思いついた悪童のような顔で、声を潜める。
「別にウェンディがどうこうってわけじゃねえが、女がついてくるっていうのは、どうも少し調子が狂うんだよな。このへんに置き手紙でもして、俺達だけで行っちまおうぜ」
「いや、それはダメだ」
アルマークは首を振る。
「もしもウェンディが一人で追いかけてきたら、危ない」
ポロイスも真面目な顔でその言葉に頷いた。
「約束した以上は、一緒に行くのが筋だろうな」
「分かってるよ」
コルエンは首の後ろで腕を組む。
「言ってみただけだ」
その時、大扉がきしみながら開き、ウェンディが顔を覗かせた。
「ごめんなさい、お待たせ」
そう言って三人に駆け寄ってくるウェンディは、厚手のコートの上に、暖かそうなマフラーを巻いていた。
「可愛いな」
感心したようにコルエンが言った。
「やっぱり女子が一人くらいはいたほうがいいな」
さっきまでの言動はどこへやら、コルエンは楽しそうに笑う。
ポロイスが呆れたように息を吐いた。
「これで全員揃ったね」
アルマークは、自分の隣にウェンディが立つのを待ってから言った。
「それじゃあ、行こう」




