自分の言葉
結局、アルマークはこの日、一つの風で板を三枚まで倒すことに成功した。
最後の一回の挑戦で、四枚目の板がゆらりと揺れてやはり倒れなかったのを見て、アルマークは背を反らして声を上げる。
「ああ、くそ。あと少しだったのに」
冬だというのに汗びっしょりになったアルマークを見て、ノリシュは微笑んだ。
「今日の記録は三枚ね。それでもすごいわ。一日でここまで行くなんて」
「楽しかった」
アルマークは上気した顔で言った。
「時間があっという間だったよ」
「頑張ったわね。お疲れ様」
「すごく勉強になった」
アルマークは頷く。
「ありがとう、ノリシュ」
「どういたしまして」
そう言ってからノリシュは、イルミスとラドマールの様子を眺めて、声をひそめる。
「向こうはまだかかりそうね」
「ああ」
アルマークは頷く。
今日は瞑想の後は初歩の魔法の練習をしていたはずだったが、やはりいつの間にか二人で向き合って何やら話をしている。
険悪な表情でラドマールが何か言っている。
イルミスは冷静な表情で時折それに口を挟んでいるが、どちらの声もアルマークたちのところまでは聞こえない。
「邪魔してもいけないね」
アルマークは言った。
「今から帰れば、ぎりぎりでモーゲンと釣った魚が食べられるんじゃないかな」
「あっ、朝二人で釣ったって教室で言ってたあれね」
「うん、おいしいってモーゲンが言ってたよ。帰ろう。……先生、帰ります」
アルマークが声を掛けると、イルミスは片手を挙げてそれに答えた。
ラドマールはアルマークたちの方を見向きもしない。
二人はイルミスに頭を下げて実践場を出た。
「わあ、きれいな星空」
ノリシュが弾んだ声を上げた。
朝から降っていた雨は昼過ぎには止んだが、その後も空は暗い雲に覆われたままだった。
だが、補習をしているうちにいつの間にか雲は消え、今では満天の星が空を彩っていた。
「本当だね」
アルマークもつられて空を見上げる。
夜空に輝くたくさんの星々。
その中で、いつも最初に探してしまうのは、北天に微動だにせず輝く気高い星だ。
「ルベニク」
その呟きにノリシュが反応する。
「え、何?」
「ルベニク」
アルマークはもう一度言った。
「北では北極星をそう呼ぶんだ」
「ルベニク」
ノリシュもその名を口にする。
「どういう意味?」
「北の女神の名前さ。人々を導くためにあえて独り、最果ての空に留まった誇り高い女神」
アルマークはそう言って、北極星を見る。
学院へ来る長い旅の間、アルマークはずっとこの星を背に歩いてきたのだ。
「神様の名前なのね」
ノリシュも北極星を見上げた。
「でも、不思議。アルマークの生まれた北って、ここからものすごく遠いところなんでしょ」
「うん」
「それでも、星は同じように見えるのね」
「そうだね。星は変わらない気がする」
アルマークは言った。
人々を導く気高き女神、ルベニク。
「今日のノリシュは、僕にとってルベニクみたいだった」
「どういうこと?」
ノリシュが目を見張る。
「君に、新しい場所に導いてもらえたから」
「おおげさね」
「ノリシュは説明するのが上手だよ」
アルマークは言葉に力を込めた。
「なかなか言葉にしづらい感覚をあんなに分かりやすく説明するのは、複雑な魔法を使うのと同じくらい難しいと思う」
「そんなことないと思うけど」
ノリシュは照れたようにうつむく。
「でもそう言ってもらうと嬉しい。私、言葉ってすごく大事だと思ってるから」
「え?」
アルマークはノリシュの横顔を見る。
ノリシュは夜空を見上げたままで、この学院の生徒は、と言った。
「みんな自分の言葉を持ってる。自分の考えを自分の言葉で喋ることができるでしょ」
「うん、そうだね」
アルマークは頷く。
「ネルソンのあれだって、立派な彼の言葉だからね」
「あれはまあ、ちょっと微妙だけど」
ノリシュは苦笑した。
「私は、田舎の農村の出身だから」
そう言って、空を見上げるのをやめて前を向く。
「学問とか教養とかそういうものとはおよそ縁遠い村。生活に関係ないことになんて誰も興味を持たない、そんなところよ」
「それが普通だと思うよ」
アルマークは頷く。
「生活が苦しいところは、特にだ」
北でもそうだ。みな、生きていくのに精一杯だ。
「うん」
ノリシュは頷いて、少し寂しそうな顔をする。
「別に私もそれを疑問になんて思っていなかった。世界ってそういうものだって思ってた。でも、今なら分かる。言葉って、とても大事なんだって」
「言葉」
アルマークがそう言ってノリシュを見ると、ノリシュは小さく頷く。
「この学院に来て驚いた。みんな、自分の言葉を持っているんだもの。私以外のみんな、貴族の子たちはもちろん、平民の子たちだって、自分の気持ちや考えを自分の言葉で喋ってる。それで分かったの。私の村の人たちは、自分の気持ちも考えも、自分の言葉では言えなかったんだって」
自分の気持ちや感情を、自分の言葉で語る。
アルマークも最近その壁にぶつかったばかりだった。
「決してそれが悪いってわけじゃないんだけど」
ノリシュはそう前置きして、言った。
「村の人たちはみんな、本当に簡単なごく限られた言葉しか使っていなかった。たまに難しいことを言うことがあっても、それは立派な誰かの言った言葉をそのまま借りているだけで、本当に分かっているわけじゃない。うちはおじいちゃんが学問好きだったおかげで多少ましだったし、私も自分では他の人と違うつもりでいたけど、この学院に来て自分がいかに言葉を持っていないかってことに気付かされたの」
「自分の言葉、か」
アルマークは呟く。
「うん」
ノリシュは頷く。
「ここでいろいろなことを知って、自分の言葉で喋ろうと努力して、そうしたらね」
ノリシュは微笑んだ。その目が星々を映しているかのようにきらめく。
「世界が広がったの」
「世界が」
「そう、世界が」
頷くノリシュの笑顔はまるで、魔術祭の劇で彼女の演じた勇敢な侍女ノリシュのようだった。
「言葉が、世界を広げたの」
ノリシュは言った。
言葉が世界を広げる。
その感覚は、アルマークにはよく分からなかった。
アルマークも世界が広がる感覚を知っている。
だが、その感覚は常に自らの身体に刻まれてきた。
アルマークの世界は、きわめて現実的に広がってきたのだ。
彼は、その足で世界を踏みしめて歩き、その腕で剣を振るって世界を切り開いてきた人間だったから。
けれど。
「言葉が世界を広げるのか」
アルマークは、それを想像して微笑んだ。
言葉が、自分の世界を広げていく。
稚拙で曖昧なイメージに過ぎなかったが、それはなんだか不思議と新鮮な幸福感に満ちていた。
「きっとそれは素晴らしいことだろうね」
「私にとっては、かけがえのない感覚」
ノリシュは頷く。
「だから、私は言葉を大事にしたいの。自分の考えを自分の言葉で話すことができるっていうことが、どれだけ素晴らしいことか知ってるから」
「うん」
アルマークは頷いた。
「君が風の魔法が得意なわけが分かった気がするよ」
「ええ。風は言葉を運んでくれるから」
ノリシュは微笑む。
「1年生の頃は、みんなみたいに自分の言葉が使いたいのにどうしていいか分からなくて、言葉に振り回されていたの。エストンやポロイスに目をつけられてからかわれたのも、それが原因の一つだと思う」
「そんなことがあったんだってね」
アルマークは頷いてノリシュを見た。
冬の風がノリシュの髪を揺らす。
「今は私もだいぶましになったと思うけど、どうかな」
「昔の君は知らないけど」
アルマークは答えた。
「僕にはいつも、君の言うことは君自身の言葉に聞こえるよ」
「あなたにそう言われると嬉しいな」
ノリシュはそう言って本当に嬉しそうに笑う。
「私にとっては、アルマークこそ自分の言葉で喋っている人だから」
「いや」
アルマークは首を振る。
「僕は、自分の気持ちもどう表現していいか分からないんだ」
「あなたは難しく考え過ぎなのよ」
ノリシュは明るい表情で言った。
「自然に話しているときの言葉こそ、あなたの本当の言葉なんだから」
そう言って、優しい目でアルマークを見る。
「あなたの言葉には、力があるわ。みんながあなたに惹かれるのも分かる。無理に力む必要なんてない」
ノリシュは微笑んだ。
「今日の練習だって同じよ。肩の力を抜いて。そうすれば、あなたの本当の力が出せるから」
「うん」
アルマークは頷いた。
「ありがとう、ノリシュ」
「どういたしまして」
そこで会話が途切れた。
だが、それは気まずい沈黙ではなかった。
しばらくアルマークとノリシュは会話の余韻を楽しむかのように無言で歩いた。
やがて寮が見えてきた頃、アルマークはノリシュに聞いておきたかったことを一つ思い出した。
「そういえばノリシュ」
そう言ってノリシュを見る。
「結局、君は劇の後に港でネルソンのお父さんになんて言われたんだい」
「明日はピルマンが来るわ」
ノリシュは聞こえないふりをしていたずらっぽく微笑んだ。
「急ごう、夕食が終わっちゃう」




