風曲げ
実践場に現れたノリシュは、ネルソンと軽妙なやり取りを交わすいつものノリシュではなかった。
真剣な顔で、小脇に何枚かの板を抱えている。
それを見て、ラドマールが、また何かおかしなのが来たと言わんばかりに顔をしかめる。
「ノリシュ、今日はよろしく」
アルマークが言うと、ノリシュは真剣な表情を崩さないままで頷いた。
「アルマークに魔法を教えるのは、正直プレッシャーなのよ」
「どうしてだい」
「だって、あなた何でもできるから」
ノリシュはため息をつく。
「私が偉そうに教えられることなんて本当は何もないのよね」
「何でもできたら、こんなにみんなのお世話にはなってないよ」
アルマークはそう言って両手を広げる。
「みんなの教えてくれることなら、なんでもいいんだ。何でも吸収したいんだ」
「まあ、結局私に教えられることなんて」
ノリシュはうつむく。
「風の魔法くらいしかないけど」
「君は風の魔法の名手じゃないか。ぜひ頼むよ」
「名手とか、そんな呼び方やめて」
ノリシュはますますうつむいて首を振る。
「全然、レイラやウェンディに比べたら」
「でも君の風便りの術はすごいじゃないか。ウェンディだってびっくりしていた」
「あれは中等部で習う術だから。今勉強しても試験には使えないわ」
「そうか」
「というわけで」
ノリシュは顔を上げて微笑んだ。
「付き合ってくれてありがとう。謙遜はこれくらいにして、始めるわね」
「え? あ、ああ」
アルマークは急なテンポの変化についていけず目を瞬かせる。
「今のも必要な段取りだったのかい」
「だって、いきなり先生みたいな顔して教え始めたら、偉そうでしょ」
「そういうものかな」
アルマークは首を傾げる。
「僕は気にしないけど」
「自分で嫌なのよ。もぞもぞする」
ノリシュは眉をひそめてそう言うと、ぱっといつもの明るい表情に戻る。
「で、今日はこれにしたのよ」
そう言って、ノリシュはアルマークに板を一枚手渡した。
「これは?」
「裏返してみて」
言われたとおり、アルマークは受け取った板を裏返す。
板が床に立てられるように木片が打ち付けてある。
「前に練習用にネルソンが作ったのを借りてきたの」
ノリシュはそう言うと、自分の持った板を実践場の適当な場所に立てる。
「こうやって、床に立てるでしょ」
「なるほど、分かったよ」
アルマークは声を上げた。
「風の術で、あの板を倒すんだね」
「惜しいけど、ちょっと違うわ」
ノリシュは微笑む。
「アルマークは、風の術と風曲げの術、どちらが得意?」
「風の術と風曲げの術か」
アルマークは考える。
どちらも似た名前の魔法だが、使い方はやや異なる。
風の術は自分の手や杖から風を起こす術だが、風曲げの術は、吹いている風の向きを変える術だ。庭園や泉の洞穴で、いろいろなクラスメイトが使うのをアルマークも目にしてきた。
「風の術のほうが、得意と言えば得意かな」
「そうでしょ」
ノリシュは頷く。
「風の術は、自分次第だから自分の魔力のことだけを考えればいいの。でも、風曲げの術は吹いている風の性質を考えて、それに合わせなきゃいけないから、地味だけど難しいのよ」
「なるほど」
「だから今日は、風曲げの術の練習をします」
「分かった」
アルマークは頷き、それから実践場の入り口のほうを見た。
「でも、それなら外でやったほうがいいかい。外なら自然の風がたくさん吹いてるじゃないか」
「そう思うでしょ」
ノリシュはにこりと笑う。
「自然の風を自在に曲げたほうが練習になるって」
「うん」
アルマークはノリシュを見る。
「違うのかい」
「確かに、外の自然風を曲げるのは練習になるわよ」
ノリシュは言った。
「でも私はその程度のこと、わざわざアルマークに教えない。外の風を使った練習なら一人でもできるでしょ」
「おお」
アルマークは微笑む。
「わくわくするよ。何を教えてくれるんだい」
「外の風は、いろいろな方向から吹いていて、不安定でしょ」
「うん」
「だから、曲げる方も曖昧になる。こっちの方から吹いてきた風を、あっちの方に曲げた、みたいにね」
「それじゃだめなのかい」
「もう少し上の話をするわ」
ノリシュはアルマークに笑い返す。
「一つの風を正確に、望む方向にきちんと曲げる技術。今日はそれを練習します」
そう言って、ノリシュは床に置いた板を指差した。
「風は私が起こすから、アルマークにはそれを曲げてあの板を倒してもらうわ」
「なるほど」
アルマークは頷く。
「僕のこの板は?」
「好きなところに置いていいわよ。それも続けて倒してもらうから」
「分かった」
アルマークはノリシュの置いた板から離れたところに自分の板も立てる。
「板はあと3枚あるから、最終的には全部倒せるようになったら合格」
ノリシュの言葉に、アルマークは頷く。
「分かったよ。楽しみだ、早くやろう」
それからアルマークは、ノリシュの指示で実践場の中央に立つ。
アルマークの正面、十五歩程度の位置に立ったノリシュは、アルマークに杖を振ってみせた。
「ここからアルマークの方に風を起こすわ。それを」
そう言いながら、杖でアルマークの右側の床に立てられた板を示す。
「あっちに曲げて、あの板を倒すの。用意はいい?」
「うん」
アルマークもマルスの杖を掲げて答える。
「いつでもいいよ」
「じゃ、いくわよ」
ノリシュが杖をアルマークに突き出した。
吹き付けてきた風は、予想よりもずいぶん弱い。
ノリシュ、遠慮してるのかな。
そう思いながら、アルマークはマルスの杖に魔力を込めると、イメージの手で風を掴み、右側に投げるイメージとともに杖を振る。
風が板の方向に向きを変える。
「よし」
アルマークは頷く。
だが、板は倒れなかった。
それなりの重さのある板だ。この弱い風では倒れない。
「ノリシュ、風が弱すぎるよ」
アルマークは言った。
「遠慮しないで、もっと強い風を吹かせても大丈夫だよ」
「違うのよ、アルマーク」
ノリシュは微笑んで首を振る。
「あの風力で板を倒せなければだめなの」
「え?」
「思ったとおりだわ」
ノリシュは満足そうに頷いた。
「アルマーク。まだあなたは風の芯を掴むことができていないのね」




