遠慮
その翌日の放課後。
教えに来てくれるはずのバイヤーがなかなか来ないので、アルマークは手持ち無沙汰でラドマールの瞑想を眺めていた。
ネルソン、レイドー、レイラ。
クラスメイトたちが順番に補習を手伝ってくれて、今日のバイヤーで4人目だ。
日程的には、クラスの15人全員がぐるりと一周して、二周目の半分くらいのところで冬の休暇に入ることになる。
レイドーやレイラの言っていた、また次回、というのはそれを見越してのことだろう。
冬の休暇に入った後も、クラン島へ行く日までは補習が続くので、もしかしたらそこまでクラスメイトたちは付き合ってくれるつもりなのかも知れない。
アルマークを驚かせるためなのか、それとも余計な気を使わせないためか、彼らの順番や補習の内容は発案者のネルソンたちによって伏せられていた。
だから、アルマークには今日バイヤーが来るということ以外、何も分からない。
アルマークはラドマールを見る。
壁際に座り込み、眉間に皺を寄せて目を閉じているラドマールの瞑想は、瞑想と言うにはあまりに苛立ちが前面に出すぎていた。
それは、うまく魔力を練ることのできない自分への苛立ちなのか、それとも周囲の人間に対してのものなのか、はっきりとは分からない。
けれどアルマークにも、ラドマールの身体の中でろくに練られていない尖った魔力が不安定に澱んでいるのが分かった。
あれでは、とても魔法を使うことはできない。
先生が、補習を行動模写の問答に切り替えたのも分かる。
アルマークは、まるで悪夢を見てうなされているかのような険しい顔で瞑想をするラドマールを見て、もどかしさを感じた。
一言、声をかけてやろうか。
そんな苦しそうな顔で瞑想していては、練れる魔力も練れなくなるよ、と。
いや。
アルマークは首を振る。
人の悪いところ、足りないところはよく目に付くものだ。
そんなことは僕に言われなくとも、先生がとっくに分かっているだろう。
ましてや僕の言うことにはいちいち反発するラドマールだ。アドバイスは逆効果にしかならないかもしれない。
アルマークはイルミスのほうにちらりと目をやる。イルミスは実践場の中央で腕を組んでラドマールを見つめていた。
イルミス先生もアドバイスをする様子はない。
それならば、僕が言うことではないのだろう。
アルマークがそう思ったときだった。
「ごめんごめん、遅くなった」
大きな声を上げてバイヤーが入ってきた。
その声に、ラドマールが苛立たしげに舌打ちして目を開ける。
「せっかく集中してきていたのに」
その言葉が聞こえているのかいないのか、ばたばたとアルマークに駆け寄ってきたバイヤーは、ちょっと準備に手間取って、などと言い訳がましく言った後でイルミスに頭を下げる。
「先生、今日は僕がお邪魔します」
イルミスはバイヤーにちらりと頷き、それからまたラドマールに目を戻した。
「ラドマール。瞑想の時間はまだ終わっていないぞ」
「あんなに大きな声を上げて入ってこられたら」
ラドマールは不満そうに言った。
「瞑想できるわけがない。集中も途切れます」
「おや」
バイヤーはちらりと気まずそうな顔を見せる。
「僕のことかな」
「バイヤー、気にすることはない」
イルミスは言った。
「ラドマール。自分が至らない理由を常に外に求めていたら、君は永久に成長しないぞ」
「先生、僕が人のせいにしていると言うんですか。今のはどう考えたって」
ラドマールが気色ばんだ。
「ラドマール?」
バイヤーが怪訝な顔をする。
「ラドマールだって。そうか、君がラドマールか」
バイヤーは満面の笑顔でラドマールに近付いた。
「3年2組のバイヤーだ。君とは一度話をしたいと思っていた」
「な、なんだ」
ラドマールが出鼻をくじかれて後退る。
「僕はお前なんか知らないぞ」
「僕のことなんかどうだっていいんだ」
バイヤーは首を振った。
「だけど僕にとって君は英雄だ」
「なんだって」
ラドマールは困惑した顔をする。
「誰が、何だって」
「君が、僕の英雄なんだ」
バイヤーはラドマールの表情などお構いなしに、もう一度そう言った。
「聞いたよ。飲んでいるんだろ? 闇払いの薬湯を」
バイヤーの目は輝いていた。
「それも、毎日」
「それがどうしたんだ」
ラドマールはバイヤーを睨みつける。
「飲んでいたら、なんだというんだ」
「闇払いの薬湯は、僕の知る限り、この世で五本の指に入るまずい薬湯だ」
バイヤーはなぜか嬉しそうに言った。
「僕もセリア先生に頼み込んで、一口だけ舐めさせてもらったことがある。いやあ、強烈だった。舌が木の皮になったかと思った。あれを小瓶とはいえまるまる一本。それも毎日。どれだけの覚悟を決めればそんな苦行に耐えられるんだろう」
バイヤーはまくし立てた。
「実は僕もいつか、あれをまるごと一本飲むことに挑戦したいと思っていたんだ。そのためにこっそり薬草の準備も進めてるんだけどね。でもセリア先生お手製の薬湯を毎日一本。ああ、素晴らしい。おぞましくも羨ましい」
堪えきれなくなったようにバイヤーはラドマールの手を握る。
「聞かせてくれ。闇払いの薬湯はどんな味なんだい。いつ頃から、もう耐えられると思えるようになったんだい。それは何本目くらいからなんだろう。まさか、今では薬草の成分が舌で感じ分けられたりするのかい」
「離せ」
ラドマールはバイヤーの手を邪険に振り払うと、アルマークを睨んだ。
「アルマーク。お前のクラスメイトはおかしなのばかりだ」
「そんなことはないよ」
アルマークは答える。
「バイヤーは僕らのクラスの誇る薬草博士だ」
「ラドマール。君に聞きたいことはたくさんある。なんなら僕は君になりたい」
バイヤーはそう言ったあと、名残惜しそうにアルマークを振り返った。
「でも、今日はアルマークの補習に来たんだった。仕方ない、また今度にしよう。ラドマール、また話を聞きに来てもいいだろう?」
「二度と来るな」
ラドマールは答えた。
「今日も今すぐ帰ってほしいくらいだ」
「分かった。薬湯のことは次の機会にゆっくり話そう」
バイヤーは頷いた。
「おい、僕の言うことが聞こえたか」
ラドマールは焦った顔を見せる。
「僕は二度と来るなと」
「今日持ってきたのはこれだ、アルマーク」
バイヤーはもう既にラドマールに背を向けてアルマークに向き直っていた。
懐から青い液体の入った壜を取り出してアルマークに見せる。
「これを君に見せたくてね」
置いてきぼりを食った形になったラドマールは、唖然とした表情でバイヤーの背中を見つめる。
「バイヤー。君は薬草の話になると本当に一直線だね」
アルマークが苦笑する。
「好きなことには遠慮しないことにしてるんだ、僕は」
バイヤーは答えた。
「ほかのことならいくらでも遠慮するけど。好きなことまで遠慮したら、生きてる意味がないだろ」
「君らしいよ」
アルマークは微笑む。
バイヤーの背後で、ラドマールが諦めたように首を振って瞑想を再開する。
「そんなことより、これがなんだか分かるかい」
バイヤーはアルマークの目の前で壜を揺らした。
壜の中で青い液体が揺れる。
「もしかして」
アルマークには、その壜と液体の色に見覚えがあった。
「セリア先生の献上薬湯かい」
「正解」
バイヤーは頷く。
「僕が作ったんだ」
魔術祭の初日。ライヌルとの戦いで傷つき、医務室で一晩を過ごしたアルマークとウェンディは、翌朝セリアから青い透明がかった薬湯を飲ませてもらった。
苦味のない、海の深い場所の水のような味わい。
バイヤーいわく、それは王族などに献上される、苦味を徹底的に取り除いた献上薬湯と呼ばれる最上級の薬湯だったのだという。
「君が、自分で作ったのか」
それを作れる魔術師は何人もいないと、バイヤー自身も言っていた気がしたが。
「ああ。壜も、あのとき君にもらったやつを使ってみた。飲んでみてよ」
バイヤーはアルマークに壜を押し付ける。
「君の感想が聞きたい」
「僕には、味とかはよく分からないけど」
「君は少なくとも僕らの学年で一番薬湯を飲み慣れている」
バイヤーは言った。
「それに、献上薬湯の味を知っているのは君とウェンディだけだ。彼女にも頼んでみたけど、断られた」
「もう頼んだのか」
アルマークは目を見張る。
「本当に遠慮しないんだな」
「だからそう言ってるじゃないか」
バイヤーは笑って、両手を振ってアルマークに飲むよう促す。
「さあ、飲んでみてよ」
「それじゃあ」
アルマークは頷くと、壜の蓋を開けた。
一息に薬湯を飲み干す。
「どうだい?」
「うん」
アルマークは頷く。
「僕は別に平気だけど、断ったウェンディの判断は正しかったんじゃないかな。見た目はセリア先生の献上薬湯に似ているけど、味は苦味ばかりの普通の薬湯だ」
「やっぱりそうか」
バイヤーはがっかりした顔をする。
「難しいな」
「でも見た目はそっくりだったよ」
アルマークの言葉に、バイヤーはにやりと笑う。
「まあ、何事も見た目からだからね。まずは第一歩というところさ」




