龍
北。
クワッドラドの大河。
向こう岸も見えないような大河の中央で、龍が身体をくねらせる。
それに合わせて水面が大きく波打つ。
「あれが龍」
アルマークは呟いた。
まるで嵐の後ででもあるかのように、河の水が馬の足元まで溢れ出してきて、慌ててアルマークは父に従いさらに上へと逃れる。
「考えようによっちゃ、ここで出てきてくれてよかった」
レイズは言った。
「渡河の最中に出くわしたら目も当てられねえ」
「父さん」
アルマークは龍から目を離さず尋ねる。
「龍は人を襲うの」
「龍は魔物じゃねえからな」
レイズは答える。
「人を食いはしねえ。理由もなく人は襲わねえよ」
「そうか」
アルマークは頷く。
「どうりで。さっきから目が合っている気がするんだけど、僕らを襲ってこないから」
アルマークは、龍の深く沈着した赤色の目が、何度も自分たちの方を向くのを感じていた。
宝石のようなその目には、何の表情も浮かんではいないのに、なぜだか引き込まれそうな深い感情を湛えているようにも見えた。
「襲わねえさ」
レイズは笑う。
「お前だって遠くの地面に虫が這っていたからって、いちいち踏み潰しにはいかねえだろ」
レイズの言葉はいつでも明確だ。
「龍にとって、俺たちなんてそんなもんだ」
「そうか。あいつにとって僕らは虫みたいなものか」
龍が身体をくねらせるたびにその鱗が輝くのを、アルマークは見た。
舞い上がる水しぶきとともに、太陽の光に照らされて鱗の色は無限の変化を見せる。
龍は、この世の他の生物とは一線を画したかのような美しさを具えていた。
それは、夜の森を跋扈する闇の魔物どもとは対極の姿だった。
「アルマーク」
レイズが息子の名を呼ぶ。
「美しいと思っただろう」
その言葉に揶揄するような響きを感じて、アルマークは父を振り返る。
「えっ」
「お前、今、龍を美しいと思っているだろう」
戸惑いながらアルマークは頷く。
「うん」
レイズは目を細めて、ほんの僅か、普段は見せない優しい表情を浮かべたあとで、首を振った。
「それじゃだめなんだ。俺たち傭兵は」
レイズは水面を自在に舞う水龍を指差す。
「傭兵なら、こう考える。こいつを狩るには、一体どうすればいいのか」
狩る。
アルマークは虚を衝かれた気がした。
狩るのか。
あの巨大な、神々しく美しい生物を。
「狩ったことがあるの、父さんは」
「ある」
レイズは頷く。
「もちろん一人じゃねえ。龍狩りってのは、戦士百人でかかって、五人生き残れば上出来な作業だ」
それはそうだろう。
だが、父は龍を狩ったことがあるのか。
アルマークは改めて父の横顔を見る。
父は横目でアルマークを見た。
「お前ならどうする。どう狩る」
その問いに、アルマークは龍に目を戻す。
水面を自在に舞う龍に、剣や槍では戦えない。
「矢だね」
アルマークは答える。
だが、あの水晶のようにきらめく鱗はとても矢を通すようには見えない。
とすれば、狙うのは。
「目だ」
アルマークは、自分が先程心を惹かれた美しい赤い瞳を指差す。
「矢で、あの目を狙う」
「そうだな」
レイズは頷く。
「目を潰すのは龍を狩るときの定石だ」
だが、とレイズは続けた。
「それだけじゃ足りねえ。目を潰しただけじゃ龍は死なねえ」
「でも、あとは」
アルマークは龍の身体を見る。
「どこを。矢の通るところなんて口の中くらいしか」
「よく見ろ」
レイズは言った。
「美しい、とか、恐ろしい、とか、戦う時にはそういう感情は不要なんだ。ものを見る目が曇る」
レイズは厳しい目で龍を見ていた。それは、戦士の目だった。
「目を凝らせ。頭を使え。戦場では、考えるのをやめたやつから死ぬぞ」
「うん」
アルマークは龍の身体に目を凝らす。
湧き上がってくる感情を抑えて、アルマークは努めて冷静になろうとした。そして。
「あっ」
「気付いたか」
レイズは微笑む。
「うん」
アルマークは頷いた。
「鱗に、ところどころ抜けが」
龍のきらめく鱗のところどころに、輝きを発していない場所があった。
目を凝らさなければ見落としてしまうほどの、ほんの僅かな隙間だが、鱗が剥がれ落ちているのだ。
「そうだ」
レイズは頷く。
「龍の鱗は何年周期だか知らねえが順番に剥がれて、そこに新しい鱗が生えてくる。だがたまに鱗が早めに抜け落ちて身体が剥き出しになるところがあるんだ。そこが狙い目だ。そこなら、身体に届く」
「あれだけ激しく動く龍の、あんな小さな鱗の隙間に矢を」
アルマークは目を見開く。
それは不可能に近い難事だった。
「弓の練習はしているか」
レイズの問いに、一応は頷く。
「うん。なかなか上達はしないけど」
「弓は練習しておけ」
父は言った。
「だが、矢だけじゃねえ。もっと重さのある銛なんかを、近づいてぶっ刺すんだ」
「あの龍に、近付くのかい」
「命懸けだろ」
レイズは笑う。
「龍狩りってのはそういうもんだ」
言葉を失うアルマークの眼前で、まるで大河を水遊びの小川のようにして、龍が舞う。
「いいか、アルマーク」
レイズは言った。
「命のある生き物は、必ず死ぬ。死ぬってことは、殺す方法があるってことだ」
それは、とレイズは言う。
「あの龍だって例外じゃねえ」
「うん」
アルマークは頷いて、自分も龍を狩るさまを思い浮かべようとした。
けれど、どうしてもアルマークには、眼前の龍の身体に輝く鱗を、その瞳を、優雅に舞うさまを、美しいと思う気持ちが抑えられなかった。
思わず龍から目をそらすと、父と目が合った。
その時の父のなんとも言えない不思議な表情。
アルマークは急いで口を開く。
「父さん、僕もいつか龍を狩るよ」
父は低く笑って、何も答えなかった。
やがて龍が水の中に姿を消すと、河はまるで何事もなかったかのようにもとの穏やかさを取り戻した。
水位もたちまちのうちに下がっていく。
静かになった河に、歓声を上げて母隊の子どもたちが駆け込んでいった。
「アルマーク!」
メリーが満面の笑顔でアルマークを呼ぶ。
メリーはその両手に誇らしげに、輝く薄い板のようなものを掲げていた。
「龍の鱗だ」
レイズは言った。
河の中に、まだほかにもきらきらと輝く鱗が見える。
子どもたちが歓声を上げてそれを拾い上げる。
「龍はああやって古い鱗を脱ぎ捨てる。龍の鱗は貴重品だ。高く売れる」
レイズがそう言うと、いつの間にか後ろに戻ってきていたガルバが声を張り上げた。
「すげえ、じゃあ俺が龍を狩ったらあの鱗全部俺のものになるのかよ」
「ああ」
レイズは笑う。
「そうだな」
父のその笑顔に、アルマークは言葉を失う。
「自分の目で見て、感じたことを大切にしろ」
レイズはアルマークの肩を叩いた。
「アルマーク。今日見たものを忘れるな」
アルマークは目を開いた。
「うん。イメージはできた」
心配そうに覗き込んできたレイラに、アルマークは笑顔で頷く。
「やるよ」
「ええ」
アルマークはマルスの杖に、魔力をそっと注ぎ込んでいく。
ウェンディの心配。試験の不安。
余計なことは頭から追い出す。
父の言葉通り、今はそういう感情は不要だ。
龍のしなやかな身体。輝く鱗。深い感情を湛えた瞳。
その、神々しいまでの美しさ。
代わりにそれらを丁寧にイメージしていく。
龍は、美しい。
そう思うことに、罪悪感のようなものがあることを否定はできない。
父さん。僕には、龍は美しく見えたんだ。
どうしても、美しく見えてしまったんだ。
ゆっくりと、ゆっくりと、魔力を注ぎ込む。
長い時間をかけて、マルスの杖が形を徐々に変えていく。
レイラが息を呑んだ。
龍狩り。
だが、自分にはあれを闇の魔物と同じように狩れる気がしなかった。
アルマークは、自分の目に焼き付けた龍の姿を杖に投影していく。
父と並んで見た、龍の姿を。
「これが、龍」
レイラが呟いた。
「すごい。本で見るのとは、まるで違う」
アルマークは、すっかり変化を終えた、マルスの杖だったものに手を伸ばす。
その小さな神々しい生き物が、アルマークの腕にゆっくりと絡みつくように身体をくねらせた。
「きれい」
レイラが呟く。
「龍って、こんなに美しいの」
そうだよ。
アルマークは、自分の作った龍を見た。
レイラが、これを美しいと言ってくれてよかった。
「君もそう思うんだね」
アルマークはレイラを振り向いて微笑む。
「レイラ、龍は美しいんだ」




