河
「あれは、龍だ」
アルマークの脳裏に、父の声が蘇る。
「よく見ておけ」
父はその時、アルマークに言った。
「お前自身の目で」
アルマークはマルスの杖をそっと実践場の床に置いた。
レイラがちらりとアルマークを見る。
そちらに小さく頷き、アルマークは、ふう、と息を吐いた。
「石と同じようにやってはだめよ」
レイラがアルマークを覗き込み、そう忠告する。
「石なんかより遥かに魔力を通しやすい杖だということを考えて、慎重にやらないと」
「うん」
アルマークは頷く。
「少し、龍のイメージをするよ」
「分かったわ」
レイラはそっと後ろに下がった。縛った黒髪が、尻尾のように揺れる。
アルマークは目を閉じた。
それから、ゆっくりと思い出していく。
初めて龍を見た日のことを。
北の初夏。
母隊を連れての行軍中、黒狼騎兵団は大きな河に差し掛かっていた。
クワッドラドの大河。
もやに霞んで対岸が見えないほどの、巨大な河だ。
「河沿いに半日も進めば渡し場だ」
移動や補給の全般を取り仕切るモルガルドが言う。
「どれくらいの船がまだ動いているのかは分からんが」
「この大河だ」
団長のジェルスがそう言って、河を見はるかす。
「母隊まで全部渡らせるとなると、二三日がかりになるぜ」
「両岸に分かれての野営になるな」
副官のレイズが言った。
「そういうときが一番危ねえんだ」
「ああ」
ジェルスは頷く。
「周りの警戒を怠るなよ。敵だけじゃねえ。魔物にも注意しねえと」
アルマークは、父レイズの後ろで、その会話を聞くとはなしに聞いていた。
その頃には、もう一端の戦士のつもりだった。
戦としては五度。
一つの戦で戦場が五回は変わるので、細かい小競り合いを含めればすでに三十回を超える戦場を経験したアルマークは、大人の傭兵の中に混じって戦い、やけに強いガキが黒狼騎兵団にいると噂になるようにまでなっていた。
「父さん」
アルマークは父の背中に声をかけた。
「僕は母隊の後ろを警戒するよ」
レイズが顔をしかめて何か言おうとするのを遮って、モルガルドが頷いた。
「アルマークは目がいいからな。やってみろ」
そう言って、片目をつぶる。
「遠くにちらりとでも影が動いたら、すぐに知らせろよ。絶対に自分でどうにかしようとするな」
「分かった」
アルマークは頷く。
レイズは無言で左の脇腹をぼりぼりと掻いた。
モルガルドがそれを見てにやりと笑う。
「父さん」
アルマークはもう一度レイズに呼びかけた。
「ああ」
レイズは頷く。
「いいよ、行け。遊びじゃねえからな、真剣にやれよ」
「うん」
アルマークは勢い込んで馬首を返した。
ちらりと後ろを見ると、レイズが十人組長のデラクを呼んで何か言っているのが見えた。
アルマークは本隊の後に続く母隊の馬車の脇を駆け抜け、最後尾へと馬を走らせる。
「アルマーク!」
聞き慣れた声がアルマークを呼び止めた。
そちらを見ると、アルマークと同い年の少年が馬を寄せてきていた。
斧の名手“黒戦斧”ゲイザックの息子、ガルバだ。
「どこに行くんだ」
まだ初陣をしていないガルバは、アルマークを羨ましがって、ことあるごとに彼のすることについて来たがった。
「後方の警戒さ」
アルマークは答える。
「そりゃいいな。俺たちも一緒に行く」
「俺たち?」
ガルバの言葉を聞き咎めたアルマークは、ガルバの後ろから妹分のメリーがひょいっと顔を出すのを見て慌てて首を振る。
「だめだ、だめだ。遊びじゃないんだ」
「そんなことは分かってるよ」
ガルバは言い返す。
「後方の警戒なら、一人でやるより三人でやるほうがいいだろ」
「それはそうだけど」
「邪魔はしねえよ」
ガルバが強引に自分の馬をアルマークの馬の横に並ばせる。
「アルマークお兄ちゃん」
メリーが笑顔で手を振る。
「そっちの馬に乗せて」
「だめだ」
アルマークは首を振る。
「遊びじゃないって言ってるじゃないか」
「そうだぞ、メリー」
ガルバはメリーを振り返った。
「お前は俺の後ろに乗ってろ」
「えー」
メリーが不満そうに口を尖らす。
「せっかくアルマークお兄ちゃんの馬に乗れると思ってついてきたのに」
「とにかく二人とも、来るなら真面目にやってくれよ」
仕方なくアルマークはそう言って、二人を連れて母隊の最後尾に回る。
それまで後方の警戒に従事していた髭面の傭兵が、おう、交代は坊主どもか、と笑みを見せる。
「陸のほうは何もねえ」
髭面の傭兵はアルマークの肩を叩いた。
「出るとすりゃ、河のほうだぜ」
もやに煙る河を顎でしゃくってそう言うと、傭兵は前方に戻っていく。
「河だってよ、アルマーク」
ガルバがそう言って笑う。
「それじゃあ、俺とメリーは河を見張るぜ」
「河から来るなら、きっと魔物のたぐいだぞ」
アルマークは答えた。
「気をつけろよ。僕は陸を見張る」
それから三人はしばらく後方の警戒に専念した。
しかし、何もない時間が過ぎていくと、だんだんと二人の気がそれ始める。
ガルバはアルマークの戦場での話を聞きたがったし、メリーはもっと他愛のない話をアルマークとしたがったが、アルマークはそれに取り合わなかった。
「二人とも、遊びじゃないって言ってるだろ」
「分かってるよ。でもよ」
笑いを帯びたガルバの声が不意に途切れた。
その不自然さに異変を感じてアルマークは振り返る。
「どうした、ガルバ」
「いや、あれ」
ガルバが河のはるか先を指差す。
「なあに、あれ」
メリーも息を呑んだようにそちらを見つめていた。
アルマークも、二人の見つめる先に目を向ける。
はるか向こうで、水面が大きくうねった。
そこから、魚のようなものが姿を見せる。
水に濡れた鱗が太陽の光を反射した。
魚ではなかった。
それは、蛇のようにも蜥蜴のようにも見えた。
だが、おかしい。
どう考えても、距離感が合わない。
あんなに遠くにいるのに、こんなに大きく見えるはずがない。
「お子さん方」
突然背後から声をかけられて振り向くと、歴戦の十人組長デラクがいつの間にかそこに控えていた。
「警戒は終わりだ。すぐに河から離れなきゃ危ねえ」
「デラク、あれは」
「話は後だ。さあ」
デラクはそう言って、三人を先導して河岸から引き離す。
河の中の巨体は、もう母隊や本隊でも見付けられていたようで、急げ、岸から離れろ、という戦場のような緊迫感のある声が飛び交っていた。
母隊の馬車の群れが河原の石を巻き上げて河から離れていく。
その時、河の水が嵩を増し始めた。
まるで大雨の後のように、急激に水位が上がってくる。
さっきまでアルマークたちが馬を走らせていた場所も、たちまちのうちに河の中に姿を消していった。
「アルマーク」
レイズが矢のような勢いで駆けてきた。
「レイズの旦那」
デラクが声を上げる。
「世話をかけたな、デラク」
「いえ、これしきのこと」
レイズはアルマークたち三人の子供を見て、全員無事だな、と呟く。
「ガルバとメリーは母隊に戻れ」
ガルバは一瞬不満そうな顔をしたが、レイズの厳しい顔つきに、黙って頷くとメリーを乗せた馬を駆って母隊のほうへと戻っていく。
「デラク。二人を頼む」
「へい」
デラクが頷き、二人の後から馬を走らせる。
「父さん」
アルマークは父を振り返った。
河の中で、それが跳ねた。
水の勢いが、嵐のように増していく。
「あれは何」
「あれは、龍だ」
父は答えた。
龍。
「あれが」
アルマークは呟く。
まだ河のずっと向こうにいるはずなのに、まるで目の前にいるかのような巨体。
その迫力。
河がうねる。
太陽の光を浴びた鱗の一枚一枚が、磨かれた水晶のように輝く。
生物としての、絶対的な格の違い。
理屈や常識を遥かに越えたものがそこにあった。
アルマークは唾を飲み込む。
レイズはアルマークを促して、さらに河から距離を取る。
「よく見ておけ」
龍から目を離さない息子に、レイズは言った。
「龍ってのがどんなもんなのか、お前自身の目で」




