失敗
ノルク魔法学院の冬。
一大行事であった魔術祭が終わった後は、学院は試験前の慌ただしい雰囲気一色になった。
試験自体があるのは冬の休暇が明けてからだが、休暇に入るまでに試験の範囲を総ざらいしなければならない。
初等部の学生たち、特に中等部への進級のかかった3年生は、魔術祭のときの華やいだ雰囲気はどこへやら、目の色を変えて勉強に取り組み始めた。
ここまでかなり無理をして知識や技術を詰め込んできたアルマークにとっては、さらにペースを上げての学習は、もはや限界と紙一重だった。
とにかくやることが多すぎて時間が足りない。
時間が足りないのなら、眠る時間を削るしかない。
日に日に顔色の悪くなっていくアルマークを、ウェンディやモーゲンをはじめとする友人たちは心配そうに見守った。
とはいえ、卒業試験は彼らとて気を抜けば落第してしまうほど厳しいものだ。アルマークの心配ばかりもしてはいられない。
アルマークにとっては毎日がまるで嵐のようだった。
やることに追われ、息をつく暇もない。
ああ、もう今日が終わってしまう。まだこれしかできていないのに。
あれにも、これにも、まだ手を付けていないのに。
イルミス先生は明日までにあれを終わらせておけと言っていなかったっけ。
くそ、時間が足りない。
もう日が昇ってしまう。
アルマークは毎日をそんな焦りとともに過ごした。
そのせいもあったのだろう。
ある日の放課後。
イルミスの補習で、アルマークはひどい失敗をした。
その日、イルミスに課題として言い渡されたのは、石を小鳥に変化させる術。
変化の術は、アルマークが初等部で修めるべき魔法の中でもひときわ高度なものだ。
ゆえに、その使用には他の魔法以上の集中力を要する。
アルマークは石を手の上に載せて、集中した。
魔力が十分に練れたと判断したところで、その魔力をゆっくりと石に移していく。
小鳥の形状。身体の構造。その身体を流れる魔力の向き。そういったものをしっかりとイメージしながら、繊細に魔力を流す。
しかし、アルマークはイメージがうまく描けなかった。
連日の疲れのせいだろうか。普段なら細部まで思い描くことのできるはずの小鳥の姿が、今日はどこか曖昧模糊としている。
くそ。
固まらないイメージに、アルマークが苛立ったその時だった。
「あっ」
アルマークは小さく声を上げた。
繊細に注がなければならないはずの魔力が、一気にまとめて石に注入されてしまった。
石は見る間に膨れ上がり、人の頭部と同じくらいの大きさの、鶏の心臓のような、胎動を繰り返す奇妙な物体に変化した。
「しまった、魔力を」
アルマークの言い終わらないうちに、その奇妙な物体がアルマークの手の上から飛び出し、唖然としているラドマールの方へと転がりだす。
「うわ」
ラドマールが悲鳴を上げた。
それに追い打ちをかけるように、その物体に奇怪な口のようなものが浮き出し、けたたましく笑い出す。
「アルマーク、貴様」
慌てて走って逃げながら、ラドマールは叫んだ。
「わざとだな。僕に対する嫌がらせか」
「ごめん。違うんだ」
アルマークも慌てて、その物体を追いかける。
「そもそもなんだ、これは。気味が悪い」
「なんでこんなものができたのか、僕にも分からない。失敗したんだ、鳥を作ろうと」
「どこが鳥だ」
ラドマールは、転がりながらミミズのような触手まで生やし始めたその物体を見て叫んだ。
「北ではこんなものが空を飛んでいるのか」
「いや、そんなことは」
「とにかく止めろ」
ラドマールの叫びはすでに悲鳴に近い。
「なんでこいつはさっきから僕ばかり追いかけてくるんだ」
「君のことが気に入ったのかな」
「ふざけるな。早くなんとかしろ」
「分かっている」
しかし、触手の生えたその物体は、意外な敏捷さで床を跳ね回る。
アルマークも追いかけるが、下手な小動物よりもすばしこく動くので、なかなか捕まえられない。
「気持ち悪い」
ラドマールが叫ぶ。
「どうにかしろ。早く」
「おかしいな」
アルマークが首をひねったときだった。
「ふむ」
急にその物体が浮かび上がったかと思うと、そのまま宙を舞ってイルミスの手に収まる。
「これは、ひどいな」
イルミスは顔をしかめて、けたたましく笑いながらぐねぐねと触手を動かすその物体をしげしげと眺めた。
「失敗するにしても、失敗のしかたというものがある」
「すみません」
アルマークはイルミスに駆け寄った。
「魔力の調整を間違えました」
「間違えた、ではあるまい」
イルミスは言った。
「制御できなかったのだろう、魔力を」
イルミスが手に力を込めると、奇妙な物体はたちまちもとの石に戻る。
「だいぶ、無理を重ねているようだな」
イルミスは、アルマークの顔色を見て言った。
「君ほどのタフな生徒がこれほどの疲れを見せるのだからな。毎日寮でも必死でやっているのだろうな」
「はい」
アルマークは頷く。
「でも、まだまだやることがあって。とても追いつきません」
そう言って、唇を噛む。
「眠る時間が惜しいです。身体さえ持つなら、睡眠の時間なんて要らないのに」
「殊勝な心がけだが」
イルミスは、石をアルマークに手渡す。
「一日や二日の無理ではないからな。この程度の魔力も制御できないほどの疲れを抱えたままでは、訓練を続けても効果よりも害のほうが大きい」
そう言うとイルミスは、アルマークに背を向けた。
奇妙な物体が消え去ってほっとした顔をしているラドマールの方へと歩き出しながら、背中越しにアルマークに告げる。
「アルマーク。君は今日は帰りたまえ。明日と明後日は補習に来なくていい」
「そんな」
アルマークは声を上げた。
「先生。とてもそれでは間に合いません。どうか、明日からも補習を受けさせてください」
「アルマーク」
イルミスは、はっきりと厳しい声を出した。
「君は何をそんなに焦っているのかね」
「それは焦りもします」
アルマークは答える。
「だって、もうすぐ卒業試験なんですから。僕は中等部に上がれずに帰されるわけにはいかないんです」
しかし、その言葉にイルミスは首を振った。
「違うな」
「え?」
「君の焦りは、試験のせいではない」
イルミスは、アルマークの顔を厳しい表情で見つめる。
「先日の学院長の話だ。それが原因だな」
まるで心を見透かすかのような言葉に、アルマークは表情を強ばらせた。
「自分の背負いきれぬものを背負わされ、それでもなんとか背負おうとあがいている。それが今の君だ」
イルミスの指摘に、アルマークには返す言葉もない。
「君には、少し時間が必要だ」
イルミスは言った。
「背負わされたと思っているものをいったん下ろして、周りをよく見てみることだ。そうすれば、聡明な君のことだ。気付くことができるはずだ」
そう言って、少し表情を緩める。
「あれもこれも、全部背負う必要はないのだと。本当に背負うべきものは、そう多くはないのだと」
要領を得ない顔のアルマークに、イルミスは宣告した。
「焦りも時には必要だが、君の目を曇らせているその種の焦りは害にしかならない。今日から明後日まで、君が魔術の訓練をすることを禁ずる」
「そんな」
アルマークが絶望的な顔をする。
「先生は、僕に落第しろとおっしゃるんですか」
「そう思うことが、すでに焦りなのだ」
イルミスは言い放つ。
「さあ、帰りたまえ。私はラドマールを見なければならない。君は寮に帰ってさっさと寝るなり、もう少し前向きになれることをするなり、好きにしたまえ」
「前向きになれること」
アルマークはつぶやく。
「それは、たとえば何でしょうか。僕は、何をすれば」
「自分で考えたまえ」
イルミスは取り付く島もなかった。
「とりあえず、今日は眠ることだ。眠りの足りない頭でいくら考えようとしたところで、君の頭は考えたふりをするだけだ。いい考えなど出るはずもない」
それだけ言うと、イルミスはもう、捨てられた子犬のような目で自分を見るアルマークに一瞥もくれなかった。
ラドマールの練習の邪魔になってはいけない。
仕方なくアルマークも、しょんぼりと魔術実践場を後にする。
外に出ると、まだ西の彼方に残光が残っていた。
こんな早くに寮に帰るのは、久しぶりだ。
アルマークは、寮への道をゆっくりと歩いた。
何をすればいいんだろう。
頭の中で、途方に暮れる。
道をしばらく歩くうち、アルマークの心には自然とウェンディの顔が浮かぶ。
ああ、こんな日はウェンディに会いたいな。
けれど、アルマークは自分の前を歩く人影に気付いてしまう。
あれは。
うなだれて、ずいぶん元気がなさそうだ。
その姿に、思わずアルマークは声をかけた。
「ザップ。どうしたんだい」




