生と死
“蛇の王”は携えていた長大な剣を構えた。
あたかもそれ自体が蛇のように、奇妙な曲線を描く剣。
それから、まるで子供の練習相手でも務めるような風情でルフリーと向かい合う。
ルフリーの槍が、その巨体を襲った。
二度、三度。
その二つ名どおりの電光のような突きを、“蛇の王”はこともなげにさばいた。
剣と槍がぶつかるたびに、激しい火花と煙が上がる。
「いけ、ルフリー!」
二人の戦いの邪魔をさせぬよう、周りの傭兵を薙ぎ払いながら、レイズは叫んだ。
「“槍の王”になれ」
「おお」
ルフリーが咆哮のような叫びで応じた。
槍が、さらに速さを増す。
“蛇の王”は突きをさばき続けるが、その速さはもはや剣一本でさばくことのできる水準を越えていた。
槍が緑の鎧をかすめて鋭い音を立てる。
「おお」
デラクが声を上げる。
「こりゃあもしかすると」
その瞬間、“蛇の王”が笑った。
表情は、兜に遮られて見えない。
だが、“蛇の王”は確かに低く笑った。
「強き者よ」
その言葉に、思わずルフリーも槍を止める。
「出会えて嬉しいぞ」
“蛇の王”が前に出た。
その乗馬が一歩踏み出した瞬間。
ざわり、と世界の揺れる感覚。
空間が歪む。
レイズは目を見張った。
その時には“蛇の王”はもうルフリーの前にいた。
そこはすでに槍の距離ではない。
剣の距離。
ルフリーが驚愕の目を見開く。
剣が、一閃した。
ルフリーの身体が、枯れ枝のように弾き飛ばされて緑の鎧の群れの中に落ちた。
蛇骨傭兵団の傭兵たちが、そこに無言で群がっていく。
「ルフリー!」
レイズは叫ぶ。
返事はない。
ダメか。
レイズは歯ぎしりした。
歴戦の傭兵の死。
だが、それ以上にレイズの心を捉えていたことがあった。
怒り。
くそが。
レイズは思った。
あれは、闇だ。
闇じゃねえか。
ルフリーが斬られる直前の、あの感覚。
“蛇の王”が一歩踏み出すと、空間が歪んだように見えた。
レイズは、それをかつて見たことがあった。
若き日の、あの恐怖と憤怒。
その場になってみなきゃ分からねえ。
おお、そのとおりだ。
この目で見るまで、久しく忘れていた。
この怒り、この屈辱。
やってくれやがったな。
戦場が神聖な場所だなどと言うつもりは、毛頭ない。
だが、ここは俺たちの仕事場だ。
俺たちがそれぞれに誇りだの欲望だのを持ち寄って、生命を燃やす場所だ。
そこにその汚ねえ足で、また踏み込んできやがったな。
レイズの目は怒りに燃えた。
てめえらは、許さねえ。
ここで叩き潰す。
ここが俺の最後の戦場だ。
レイズは目の前の傭兵に、力任せに剣を叩きつける。
その傭兵が弾き飛ばされた先に、“蛇の王”はいた。
意外なほどの素早さで“蛇の王”は左手を伸ばしてその傭兵の身体を受け止めると、無造作に脇に放り投げる。
兜の奥の冷たい目が、レイズを捉えた。
俺が見えたか。
次の相手は、俺だ。
見せてやる。
北の傭兵の意地を。強さを。
“蛇の王”が笑う。
来い。
そう言っている。
「いけねえ」
突然後ろから強く引っ張られて、レイズは我に返った。
「旦那、怒りに身を任せちゃいけねえ」
デラクが必死の形相で叫んでいた。
「止めるな、デラク」
「盟約を」
デラクは叫んだ。
「蠍の盟約を忘れたんですかい。レイズの旦那!」
蠍の盟約。
絶対に侵すことのできない、その響き。
いいか、お前ら。
レイズの心に蘇る、懐かしい声。
忘れるな。いつかまた、こいつらが現れたら。
その時は。
「くそっ」
レイズは“蛇の王”に背を向けた。
「撤退だ、デラク」
そう叫んだ時には、すでにレイズに付き従う戦士は7騎に過ぎなかった。
迅雷傭兵団の戦士は、一人も残っていない。
「へい」
デラクが泣き笑いのような顔で頷く。
それと同時に、背後からすさまじい圧力がのしかかってきた。
「どこへ行く」
“蛇の王”が、再びその巨体をみしりと動かしていた。
「来い、強き者よ」
とても逃げ切れるはずもない、すさまじいまでの殺気。
いや、これは瘴気か。
「ちっ」
レイズは“蛇の王”に向き直る。
怒りのせいで、判断を致命的に誤った。
逃げるなら逃げる。戦うなら戦う。
この歳で、まだそれができねえとは。
その一瞬の判断の遅れが、どちらをするにしてもその好機を既に奪ってしまっていた。
死ぬしかねえか。
レイズは覚悟を決める。
それなら、前だ。
戦士レイズは、前を向いて死ぬ。
「旦那、ダメだ!」
デラクの声。
レイズが馬を進めようとしたときだった。
くすんだ緑の傭兵の群れの中から、ボロ切れのようになった血まみれの戦士が飛び出した。
「“蛇の王”!」
そう叫んで“蛇の王”に飛びかかるその戦士の手に握られた槍を見て、レイズはそれがルフリーであることに気付く。
「行け、レイズ」
ルフリーが真っ赤な口を開けて叫んだ。
「俺はお前に借りを作ったままじゃ死なねえ」
“蛇の王”が煩そうに槍をさばくと、無情な剣を一閃する。
ルフリーは肩口から切り下げられながら、それでも絶叫した。
「忘れるな、レイズ。借りは返したぞ。俺は迅雷傭兵団の“雷光”」
ルフリーの最後の声は、殺到する蛇骨傭兵団の傭兵たちに阻まれて聞き取れなかった。
すまねえ、ルフリー。
レイズは再度身を翻していた。
「全力で撤収だ」
「へい」
レイズは先頭に立って傭兵の群れを薙ぎ払い始める。
マビリオの単騎駆け。
その伝説に近い武名は嘘でも誇張でもなかった。
マビリオ平原で、レイズは確かに雲霞のごとき敵軍の真っ只中をただ一騎で駆け抜けた。
だが、今はマビリオとは状況が違う。
あのときは、退路など考えていなかった。
そして事実、退路を断たれる心配もなかった。
敵の総大将を討ったその時点で、戦う意味を失った大半の傭兵が戦闘を放棄したからだ。
だが今、後ろから迫ってくるのは、人智の力を超越した“蛇の王”だ。
逃げ切れるか。
進むより、退くほうが遥かに難しい。
生死の境目。
レイズは愛馬の首を叩く。
頼むぞ。もってくれ。
「俺について来い。遅れるなよ」
背後の部下に向かって叫ぶ。
「へい」
デラクの返事だけがかろうじて聞こえた。
「生きろよ」
レイズは剣を縦横無尽に振って、血路を開いていく。
鬼神のような剣の冴え。
群がる敵兵も、誰一人近寄ることができない。
だがそれでも個人の力には限界があった。
一人、また一人と黒狼の戦士が討たれていく。
そして緑の鎧の傭兵たちは、まるで無限に存在するかのようにレイズたちの目の前に立ちふさがる。
「くそっ」
きりがねえ。
ダメか。
レイズの脳裏を一瞬、弱気がよぎる。
そこに、一筋の矢のような戦列が切り込んできた。
騎兵の突撃が、蛇骨傭兵団を一気に切り裂いていく。
「カーン!」
レイズは声を上げた。
すでに顔面を血で真っ赤に染めた迅雷傭兵団の団長“閃雷”のカーンは、レイズの姿を認めると、大きな口を開けて笑った。
「おう、レイズ。てめえ生きてやがったか」
「すまん、ルフリーは」
「分かってる」
カーンはすでに左目を失っていた。
「伝えろ、黒犬に。うちは今日で店じまいだってな」
「カーン、あんた」
「おめえらは約束を守った。礼ははずむって言っただろ」
カーンの残った右目はもう敵兵しか見ていなかった。
それは、北の戦士が真の戦士となる瞬間。
レイズも、いずれ自分にもその瞬間が訪れるであろうことは分かっていた。
だが、それは今じゃねえ。
今は、生きる。
俺は生きる。
「すまねえ」
「言っとけ、ジェルスに。“閃雷”のカーンは最後まで義理を通したってな」
言いながら、カーンが部隊の進む先をレイズたちの後方に向けた。
今にも追いつきそうになっていた緑の鎧の傭兵たちが、カーンたちの攻撃に突き崩され、引き離されていく。
レイズにも振り返る余裕はなかった。
目の前に立ちはだかる傭兵を、斬り捨てる。
カーンたち迅雷傭兵団の最後の閃光のような戦列も、やがて緑の波に飲まれて見えなくなった。
最後の敵兵を打ち砕き、囲みの外に出たレイズは、ようやく後ろを振り返った。
付き従う戦士は、すでにデラクただ一人になっていた。
「デラク、無事か」
囲みを出るまでの間に、デラクの剣が何度も自分の背後を守ってくれたのを感じていた。
「助かったぜ」
そう言って、レイズは馬の速度を少し緩める。
だが、デラクもすでにその全身を己の血でびっしょりと濡らしていた。
モルガルドに持たされた黒狼の旗もいつの間にかちぎれ、なくなっていた。
馬の手綱から、デラクの手がゆっくりと離れる。
「旦那、俺はここまでだ」
「ばかやろう」
レイズがとって返そうとするのを、デラクは手で制した。
「いけねえ。旦那はまだこんなところで死んじゃいけねえお人だ」
デラクは、最後に笑顔を見せた。
「旦那がいなきゃ、とっくにマビリオで失ってたはずの命だ。最後に旦那のお役に立ててよかった」
デラクの身体が、力を失いずるずると馬からずり落ちる。
「いただいた命、お返ししやす」
「デラク」
「どうか、ご武運を」
地面に倒れたデラクの姿も、すぐに緑の波に飲まれて見えなくなった。
レイズはそれに背を向けて、馬を走らせる。
デラク。すまねえ。
俺もじきにそっちへ行く。
それまでもう少し、ヤーガスと酒でも飲んで待っていろ。
ただ一騎となって駆けるレイズの目の前に、黒い鎧の軍団が姿を現した。
「レイズ!」
先頭に立っていたジェルスが叫ぶ。
「お前だけか。デラクは。迅雷の連中は」
「来るな、ジェルス!」
叫びながら、レイズは大きく手を振った。
「闇だ」
その言葉に、ジェルスの顔色が変わる。
「ここは、もうだめだ」
レイズは叫んだ。
「一度退け。ここでは勝負にならねえ」
遙か後方に、緑の波がじわりと見える。
ジェルスが目を見開く。
「招集を」
レイズは叫ぶ。
この屈辱。
この憤り。
必ず、返す。
“蛇の王”。
俺たちの仕事場に足を踏み入れたことを、必ず後悔させてやる。
「蠍の盟約に従い、戦士の招集を」
レイズは叫んだ。
「ジェルス。これは、俺たちの戦争だ」




