欲
草原を吹く、身を切るような風。
昨日舞っていた雪は積もることなく風とともに吹き去っていったが、寒さに雪の有無は関係ない。
ここは北でも相当に中原よりの地域だが、それでもやはりこの季節の厳しさは格別だった。
太陽の照る昼間であっても、それは変わることはない。
その冷気の底を、静かに駆けてくる一団がある。
馬上に鈍く輝く漆黒の鎧。
黒狼騎兵団。
母隊を後方の街に残して、契約主の正規軍との合流地点を目指しての行軍だった。
その先頭に立つ精悍な男が、不意に右に目をやった。
まるでそれに合わせでもしたかのように、視界を遮っていた小さな丘の陰から、別の一団が現れた。
「おう」
男は、それを見て声を上げる。
「“雷光”のルフリー。久しぶりじゃねえか」
それを聞いて、新手の一団の先頭の男が、手に持っていた長い槍を振り上げる。
「そっちこそ。生きてやがったか、“影の牙”」
そう言うと、部隊の先導を隣の男に任せて馬を寄せてくる。
「いや、今は“マビリオの単騎駆け”か」
「それは別に俺の名乗りじゃねえ」
アルマークの父、レイズはそう言って首を振った。
「分からねえもんだな。まさか、一緒に戦うことになるとはな」
レイズは、ルフリーと同じように部隊から離れ、馬をルフリーに並ばせる。
「お前ら迅雷傭兵団と」
「次の戦場じゃまた敵かも知れねえ」
ルフリーはそう言って笑った。
「その時はまた、一騎討ちでもしようや」
「気が向いたらな」
レイズはそう答えて、ふと表情を改める。
「“槍の王”が討たれたってな」
「ヒニアスか」
ルフリーはただでさえ糸のように細い目をさらに細めた。
「相手は“蛇の王”だろ。ヒニアスの野郎、俺がやる前にやられやがって」
ルフリーは槍を軽々と頭上に持ち上げ、ぐるりとひと回しする。
「面白くねえ話だ」
「全滅だってな」
レイズは言った。
「ヒニアス戦闘傭兵団がそっくりと。そんなやわな連中じゃねえのによ」
「お前んとこのジェルスは何て言ってるんだ」
ルフリーは、静かに並走する黒狼騎兵団の隊列に目をやる。
「あのおっさんにしちゃ、今日はやけに静かじゃねえか」
「それなりの戦が控えてるときは、よくこうなるのさ」
レイズはそちらに目をやるでもなく答える。
「時々夜に星を見る以外は、ずっと難しい顔で考え込んでる」
「相変わらずだな。“黒狼”は」
ルフリーは肩をすくめる。
「そのおかしな癖がなきゃ、とっくに騎士にでもなれてたんじゃねえのか」
「結局、柄じゃねえのさ」
レイズは答えた。
「こうやって戦から戦へ、駆け回ってるほうが性に合ってるんだろ」
「俺は星なんて北極星くらいしか見ねえがな」
ルフリーはそう言って空を見上げた。
青く澄んだ空には、太陽と色褪せた月以外の星は見えない。
「俺だってそうだ」
レイズは答える。
「ジェルスも、ヒニアスのところが全滅した話には関心を持ってる。なにせ、俺たちが駆け出しの頃からずっと聞いてた名前が一つ消えたんだからな」
「ヒニアスの老いぼれめ」
ルフリーはもう一度罵った。
「蛇に咬まれて死ぬたあな」
「お前にとっちゃ特にそうだろうな」
レイズはルフリーが持つ黒ずんだ槍を見た。
「ここに来る前に、もうさっそく名乗ってる奴の噂をいくつも聞いたぜ。我こそが“槍の王”だとよ」
「へっ」
ルフリーは鼻で笑う。
「名乗るだけなら、ただだからな」
そいつらの気持ちも分かる、とルフリーは言った。
「俺だけじゃねえ。槍使いなら誰だって心穏やかじゃいられねえだろう。長いこと、槍といえばヒニアスだった。そこがぽっかりと空いたんだ。誰だってそこに自分が座りてえと思う。傭兵だったらな」
「じゃあ名乗れよ」
レイズがさらりと言う。
「お前が“槍の王”を」
「俺は“雷光”のルフリーだ」
ルフリーはそう言ってレイズを見た。
「北にその名の轟く迅雷傭兵団のエースだぜ」
「知ってるよ」
「そういう人間は、火事場泥棒みてえなせこい真似はしねえんだ」
ルフリーの挑戦的な目が、レイズを捉える。
「自分で名乗るんじゃねえ。人に呼ばせるんだ」
「お前の好きにしな」
レイズは肩をすくめる。
「俺は、ヒニアスのいなくなった北じゃあ、お前が二番目に“槍の王”に近いと思うがな」
「一番じゃねえのかよ」
ルフリーがそう言って殺気のこもった笑顔を見せた。
「誰だ、一番は」
その問いに、レイズはふと空を見上げ、それからぽつりと答える。
「“陸の鮫”」
「見る目がねえな」
ルフリーは呆れたようにため息をついた。
「あいつが一番かよ。あいつの首だったらいつだって獲れるぜ」
「戦ったことはあるのか」
「ねえ」
ルフリーは首を振る。
「だが、見たことはある」
「見るとやるとじゃ大違いだ」
レイズは言った。
「甘く見たら咬みちぎられるぜ」
「へっ」
ルフリーはまた鼻で笑う。
「いずれにせよ、俺は“陸の鮫”なんて眼中にねえ」
ルフリーはそう言うと、自らの馬をレイズに思い切り寄せた。
レイズの馬が、不快そうに低くいななく。
「次の戦がちょうどいい機会だ。そうだろ」
ルフリーの囁きに、レイズは眉を上げる。
「蛇骨傭兵団か」
「ああ。ついてるぜ。三日前だったか?」
「それくらいだったな」
レイズは頷く。
敵の軍勢に、ノルンへ向かう途中でいったん南下してきた蛇骨傭兵団が合流したという情報は、レイズたちも得ていた。
「ヒニアスを倒した“蛇の王”を俺が討てば、誰も文句はねえだろう」
ルフリーは言った。
「そうすりゃあ俺が正真正銘の“槍の王”だ」
「確かにな」
レイズは頷いた。
「それなら、俺も文句はねえ」
「お前も手伝え、レイズ」
ルフリーはそう言って口角を上げた。
「一瞬でいい。お前の突破力で“蛇の王”までの道を開けてくれ。そうすれば後は俺が奴の首を獲る。礼ははずむぜ」
「今回は味方同士だ。手伝うのはやぶさかじゃねえが」
レイズはそう言ったあと、にやりと笑った。
「勢い余って俺が“蛇の王”の首を獲っちまうかもな」
「そうしたら俺がお前の首を獲るぜ」
冗談とも本気ともつかない口調で、ルフリーは言った。
「うちの団長にも話はつけとく。頼むぜ」
そう言うと、ルフリーは手綱を引いた。
「また、戦場でな」
「ああ」
レイズはそちらを見もせずに手を挙げて答えると、自らも並走する仲間たちの方へと馬首を返していく。
「蛇骨傭兵団、か」
レイズは呟いた。
“蛇の王”。
当代最高の傭兵団長の称号。
ふと、レイズの心にも欲がうずく。
「本当にジェルスを王にするのも、悪くねえかもしれねえな」
ルフリーにゃ悪いが。
レイズは、隊列の中段あたりに馬を乗り入れた。
「ジェルス。いつまでぼうっとしてやがる。そろそろ目を覚ませ」




