鍵
学院長室の奥の大きな暖炉の中で、ぱちり、と薪が爆ぜた。
二人が学院長室に来てから、もう随分時間が経っていた。
「マルスの杖は」
ヨーログが言った。
「門を開くための鍵だ」
「鍵」
アルマークは呟く。
「あの人もそう言ってました」
「門は、その鍵がなければ決して完全に開くことはない。封じられた魔力の真の力を得るには、鍵が必要不可欠なのだ」
ヨーログの言葉に、アルマークはライヌルがマルスの杖を操ったときのことを思い出す。
突如、爆発的にウェンディの身体に流れ込んできた膨大な魔力。
「だが、マルスの杖については謎が多い」
ヨーログは言う。
「かつて善き魔術師たちは、暗き淵の君の魔力を封じ込めるために異界との通路を開いた。その際に用いたのがこの杖だったと言われている。長らく所在が不明だったが、数十年前にこの学院に現れたのだよ。そして、不思議な巡り合わせで、君はこの杖に所有者として認められた。奇しくもこの学院に、門と鍵、そして鍵の所有者が揃ったことになる」
「僕は、この杖をどうすればいいんでしょうか」
アルマークは言った。
手の中にあるマルスの杖は、今はまるで森で拾ってきたただの木の棒のようにしか見えない。
だが、この杖は間違いなくウェンディの命を一瞬で危険に晒すだけの力を秘めている。
先日放ったすさまじい光を、アルマークははっきりと覚えている。
こんな杖を持って、僕はどんな顔でウェンディの隣にいればいいのか。
「所有者に選ばれたということは」
アルマークは言った。
「僕はいつかウェンディを。ウェンディの、門を」
アルマークはそこまで言って、言葉に詰まった。
ヨーログは無言でアルマークを見つめる。
アルマークは意を決して口を開いた。
「僕はいつかウェンディの門を、開いてしまう運命にあるのですか。このマルスの杖で」
アルマークの言葉に、ウェンディが小さく首を振った。
そんなはずはない、と言っているようでもあった。
けれど、門を開く鍵の所有者であるということは、そういうことなのではないか。
すなわち、門を開く役目を負う者。
だとすれば。
だとすれば、僕はこの学院にいることはできない。
このマルスの杖とともに、どこかウェンディから遠く離れた土地へ去るしかない。
「勘違いしてはいけない」
ヨーログは静かに言った。
「全ての事柄には二つの側面がある。本質が変わることはないが、見る角度を変えれば全く正反対のものにも見える。表と裏、正と邪、光と闇」
アルマークは言葉の意味を掴みかねてヨーログを見た。
ヨーログは、マルスの杖をじっと見つめ、言った。
「鍵にも二つの役割がある。分かるだろう。鍵は閉ざされた扉を開けるためだけのものではない。開いた扉を閉めるのもまた、鍵の役目」
ヨーログの言葉に、アルマークも手元のマルスの杖に目を落とす。
「ウェンディの門を開けようとする者がいたならば、君がその門を閉ざせばいい。鍵の所有者として、ウェンディの門が決して開くことのないよう、堅く鍵を閉ざせばいい」
「鍵を、閉ざす」
「そうだ」
ヨーログは頷いた。
「君が、門を護るんだ」
門を開くための鍵ではなく、門を護るための鍵。
それは単なる言葉遊びではないのか。
「そんなことができるんでしょうか」
「できるとも」
ヨーログは頷いた。
「だが、そのためには、所有者でもないライヌルに杖の力を操られているようではダメだ。君がその杖の力を全て飼いならすくらいにならなければ」
杖の力を飼いならす。
アルマークは、マルスの杖をゆっくりと持ち上げた。
手にしっくりと馴染んだ感触。
最初からそうだった。
だから、少し安心していたのかもしれない。
この不思議な杖は、もう僕のものだと。
「君の旅の相棒の、長剣」
ヨーログは言った。
「あれは、最初から今のように自在に使いこなせたのかね」
違う。
アルマークは思い出す。
常に、ともに死線をくぐり抜けてきた、長剣。
だが、最初に持ったときは、両手で持ち上げるのがやっとだった。
それを毎日、毎日、振った。
手にまめができて、それがたちまち潰れて、そこが固くなったと思ったら、またその固くなったまめごといっぺんに潰れて。
毎日血まみれの痛みと戦いながら、手のひらが文字通り石のように固くなるまで、剣を振り続けてきたのではなかったか。
そうして初めて、長剣はアルマークのものとなった。
アルマークの相棒となった長剣は、戦場でも、魔物との戦いでも、決してアルマークを裏切ることはなかった。
「先生のおっしゃるとおりです」
アルマークは言った。
「僕とこの杖の間には、まだ信頼が足りなかった」
だから、杖は僕の言うことを聞かなかった。
僕も実力行使で黙らせるしかなかった。
「そういえば、あの人も言っていました」
アルマークは、別れ際のライヌルの言葉を思い出す。
「もう少し、杖の使い方を練習しておきたまえって」
「うむ」
ヨーログは頷いた。
「善悪はともかく、ライヌルのその言葉は正しい」
アルマークは、もう一度マルスの杖を見た。
ウェンディのあまりにも重い運命。
力になることのできない自分をもどかしく、ふがいなく思った。
何かをしなければならないのに、それが何か分からない。
けれど、今、やることが見えた。
やるべきことは、シンプルならシンプルなほどいい。
僕は、それに向かってまっすぐに走ることができる。
「鍛えます」
アルマークは言った。
「剣と同じように、この杖も。決して僕を裏切ることのないように」
アルマークの心の中には、まだどこか、結局最後に頼りになるのは剣だという意識が残っていた。
魔法も習ったし、杖の使い方も分かった。だが、それでもいざとなれば僕は剣を振るうのだろう。
そういう確信があった。
傭兵への未練。
剣への甘え。
それが、今回ウェンディを傷つけた。
「ウェンディ。僕は君の門を閉じる」
アルマークは言った。
「そのために、君のそばにいるよ」
「分かってる」
ウェンディは頷いた。
「でも理由なんていらないわ。だって、そういう約束をしたんだもの」
学院長室を出ると、もう外はすっかり真っ暗だった。
アルマークとウェンディは、並んで校舎を出た。
白い息を吐いて月を見上げながら、アルマークは、そういえば自分の名前については話さなかったことを思い出す。
けれど、今日はもう頭がいっぱいだった。
「寒くないかい、ウェンディ」
アルマークはそう言って隣を見た。
と、不意にウェンディがアルマークの肩に顔をうずめてきた。
「ウェンディ?」
驚いて声を上げるが、すぐにその肩が震えていることに気付く。
「ごめんなさい」
ウェンディは顔をうずめたまま、くぐもった声で言った。
「一度だけ。もう言わないから、一度だけ」
肩が、涙で湿ってくるのが分かる。
アルマークはおずおずとその肩を抱いた。
「どうして」
ウェンディが呟いた。
「どうして私なの」
しゃくりあげるように肩が揺れた。
「どうして私がそんなものに選ばれなきゃならないの」
アルマークの胸はまた押しつぶされそうに痛む。
やるべきことは見付かった。
けれど、かけるべき言葉は見付からないままだった。
ウェンディの嗚咽が漏れる。
アルマークは唇を噛んで立ち尽くす。
やがて、真っ赤な目で顔を上げたウェンディは、少し恥ずかしそうにアルマークに微笑んだ。
「ごめんなさい。恥ずかしいところを見せて」
ウェンディの言葉に、アルマークは首を振る。
「いや。恥ずかしくなんてないよ」
「私の弱音は、今ので最後」
ウェンディは言った。
「だから、さっき言った言葉は忘れて」
「分かった」
アルマークは頷く。
ウェンディが先に歩き始める。
「寒いね」
ウェンディはアルマークを振り返った。
「早く帰ろう」
そう言って穏やかに微笑む。
「なんだかみんなの顔が見たくなっちゃった」
「きっと談話室にモーゲンとバイヤーがいるよ」
アルマークはそう言いながら、隣に並ぶ。
「夕食を食べそこねてしまったから、お菓子を少し分けてもらおうよ」
「そうだね」
ウェンディが頷く。
「モーゲンのおすすめのお菓子をもらっちゃおう」
「賛成だ。きっと張り切って並べてくれるよ」
アルマークも笑う。
まるで、何事もなかったかのように。
それでいい。
アルマークは思った。
自分たちの背負うものの大きさに、足がすくみそうになるけれど。
それでも僕たちは。
アルマークは強く自分に言い聞かせる。
こうして並んで歩いていくんだ。




