闇の魔術師
暗き淵の君がこの世に蘇る。
あまりに不穏な言葉だった。
アルマークには、高次元の存在である原初の闇、暗き淵の君というものが結局はどういうものなのか、はっきりとはわからない。
神に等しい存在と言われても、今ひとつぴんとこなかった。
アルマークの知る北の神々は、アルマークたち北の民の前に姿を見せることはない。
その命と引き換えに世界を遍く照らした英雄神ハーディカも。
最北の空の果てに留まり、人々に道を指し示し続ける気高き女神ルベニクも。
神の存在を確かに感じることはあっても、それは親や友人や敵のようにこの目で見えるものではなかった。
無論、神々に実際に出会ったことがあるという人間もいない。
神々とは、遙か天の高み、人間など手の届かないところにおわしますものなのだ。
だから、神をこの世に蘇らせる、と言われても、アルマークには、何をバカなことを、という気持ちが強い。
学院に入る前のアルマークならば、一笑に付していただろう。
しかし、魔術師の世界の入り口に立ち、深遠な魔法の一端を垣間見た今となっては、それも荒唐無稽な夢物語とは言えなかった。
古の大魔術師と呼ばれる人々ならば、それくらいのことはやってのけるかも知れない。
そう考えるくらいのことはできた。
だが、それにしてもだ。
先程、古の魔術師たちの戦いの話の折に、ヨーログは、暗き淵の君がこの世に現れれば、それは世界の終わりを意味すると言わなかったか。
世界が滅びてしまえば、欲も望みももはや何の意味も持たない。
そんなことを本気で画策しようとする者がいるのか。
アルマークはヨーログを見返した。
「そんなでたらめなことを考えているんですか、闇の魔術師たちというのは」
「はっきり、そうと決まったわけではない」
ヨーログは首を振った。
「だが、彼らの中には、どうもそうとしか思えん動きをしている者がいることも事実だ」
「あの人のことですか」
「ライヌルかね」
アルマークが渋い顔でそう口にするのを見て、ヨーログは目を細めた。
「ライヌルの目的がそこにあるのかどうかは、はっきりとしない。だが、彼などよりももっとはっきりとした意思を剥き出しにして動いている者もいる。君たちの前に現れた闇の魔術師はライヌルだけだが、世界には彼以外にも何人もの闇の魔術師が蠢いているからね」
「何人もの」
アルマークは、夜の闇の中に蹲って目だけを光らせている何人もの黒いローブの魔術師を想像した。
彼らの身体から、夜の闇よりもなお濃い闇が染み出し、やがて一人の大きな人物の影を形作るさまを。
世界は広い。
「夏の休暇に、君たちが危険な目にあったということは私も承知している」
ヨーログは言った。
「君たちが帰ってきた頃は、私はちょうど別の用件で不在にしていたが、別の方面から耳に入っていた。ミレトスの、冬の屋敷……だったか。その時にも少し門が開いたそうだね」
「……はい」
答えないウェンディの代わりに、アルマークは答えた。
「あのときも、ウェンディの身体からすごい魔力が湧き上がって……僕らはそのおかげで助かったんです」
「そうか」
ヨーログは頷く。
「『門』に選ばれた者は、自らを護るために、必要に迫られたときは不完全ながら門を開くことができると聞いたことがある」
自らを護るために。
そうだっただろうか。
あの時、ウェンディは自分を護るために魔力を振るったわけではなかった。むしろ、自分なんてどうなってもいいというくらいの勢いで使用人の分身を作っていた。
それに。
アルマークはヨーログに尋ねた。
「でも、夏の休暇にウェンディが冬の屋敷に行ったのは、いろいろな偶然の結果です。僕とモーゲンがそこに行ったのも」
アルマークは慎重に言葉を選んだ。
ウェンディは、襲撃してきた傭兵たちを斬ったのは警備員たちだと思っている。
うかつなことを言って、これ以上ウェンディを動揺させてはいけない。
「でも、傭兵たちは本当にウェンディの命を奪うよう命令されていたようでした。あれじゃあウェンディの命を危険に晒すどころか、本当に殺してしまいかねなかったと……」
「君の疑問はもっともだ」
ヨーログは頷いた。
「私は、冬の屋敷の件はライヌルとは別の一派の仕業と見ているがね。相手にもおそらく……」
ヨーログの青い目が不意に光る。
「多少は、先の見える者がいる」
アルマークはその青い目に、月影通りの老人を思い出す。
先の見える者。
それは、学院長やあの老人のような星読みということか。
それとも、また別の能力を持つ者なのか。
そして、その敵はアルマークとモーゲンが冬の屋敷に行き、ウェンディを守ってギザルテたち北の傭兵を撃退することまで計算ずくだったということなのか。
それとともに、アルマークは思い出していた。
冬の屋敷のある、ミレトスまでの白馬車の運賃を無心しにモーゲンと二人、この学院長室へ来た時。
ヨーログは細かいことは聞かず、子供に持たせるには大きすぎる金額の金貨をぽんと出してくれた。
あれも、本当は分かっていたのではないか。
この青い目で、見通していたのではないか。
アルマークとモーゲンが、ウェンディの命を救うために欠かすことのできないピースであるということを。
「怖いかね」
ヨーログの言葉に、アルマークは我に返った。
ヨーログは、ウェンディを見つめていた。
アルマークは隣を見て、言葉を失う。
ウェンディの頬を涙が伝っていた。
「自分の背負うものの大きさが、怖くなったかね」
ヨーログは穏やかに尋ねた。
ウェンディは答えない。
その頬を、ただ涙が伝う。
アルマークの手の下で、ウェンディの硬く握った手にさらに力が入るのが分かった。
アルマークにも掛ける言葉が見つからなかった。
ウェンディは無言で、しばらくの間、涙を流し続けた。
どれくらいそうしていただろうか。
ようやくウェンディは、いえ、と答えて小さく首を振った。
「怖くないわけではありません」
ウェンディは言った。
「でも、この涙は違います」
ウェンディは涙も拭かず、ヨーログの顔を見返した。
「思い出していました」
その目に浮かんでいるのは、恐怖や怯えではなかった。
怒り。
静かな、けれど深い怒り。
「そんなことのために、命を落としてしまった人たちのことを」
ヨーログが目を見開く。
アルマークもはっとしてウェンディの顔を見た。
冬の屋敷で命を落とした、警備員たち。
かつてウェンディの身代わりになるようにして命を落としたという、ウェンディが姉と慕っていた使用人の少女。
ウェンディは、今でも彼らの命を背負っていた。
彼らの命を奪った者たちの目的が、ウェンディにも分かったのだ。
「彼らは、試したのですね」
ウェンディは言った。
「私が本当に『門』なのかどうか。私の命を危険に晒すことで、魂を揺さぶることで、『門』を開こうとしたんですね」
ヨーログは答えなかった。
だが、その厳しい表情が、ウェンディの言葉が正しいことを物語っていた。
「そんなことの」
ウェンディの声が震えた。
「そんなことのために、犠牲になったんですね」
ウェンディの頬を、新たな涙が伝った。
アルマークには、膝の上で震えるウェンディの手に重ねた自分の手に力を込めることしかできなかった。




