君
「暗き淵の君」
アルマークは呟く。
この世界の事象を司る小なる16の一柱にして、全ての闇の眷属の故郷である暗き淵を支配する君主。
暗き淵の君。
ウェンディに流れ込む膨大な魔力が尋常なものではないことは、無論アルマークにも分かっていた。
だがそれにしても、ここで出てくるにはあまりにも唐突で、あまりにも大きすぎる名前に思えた。
「話が、大きすぎて」
ウェンディが言った。
「すみません。頭が、追いつかない」
「無理もない」
ヨーログは頷く。
「だからこそ、君にはまだ伝えたくなかった」
「いえ、いいんです」
ウェンディは気丈に首を振った。
「いつか知るのなら、今知りたい」
だが、その手は小刻みに震えていた。
「学院長先生」
アルマークが声を上げた。
「先生は、前におっしゃっていましたね。暗き淵の君は、神にも等しい存在だと」
アルマークは言った。
「それじゃあ、ウェンディに流れ込んでいるのは、神の力なんですか。神がウェンディに力を注いでいるってことなんですか」
神の力。
その言葉に、ウェンディが不安そうにヨーログを見た。
「そう簡単な話ではない」
ヨーログは、アルマークを見て、ふとまた柔和な顔を見せた。
「少し昔話をしよう。ずっと昔の話だ」
そう言って、二人に傍らの椅子を示す。
「長くなるかも知れないからね。座りなさい」
二人は頷いて、並んで椅子に腰を下ろした。
膝に置いたウェンディの手がまだ震えていた。
アルマークはその手に自分の手を重ねる。
ウェンディは緊張した顔を、それでもしっかりと上げてヨーログを見た。
その強い視線を受け止めて、ヨーログが話し始める。
「ずっと昔のことだ」
そう、前置きした。
「かつて、闇の力を操る強大な魔術師がいた。数多くの闇の眷属を従えた彼は、それでも飽くことなく闇の力の研究を突き詰め、ついに一つの計画にたどり着いた。それは、原初の闇である暗き淵の君を、現世に迎え入れること」
「迎え入れる」
アルマークが要領を得ない顔をする。
「それは、どういう」
「この世に、暗き淵の君そのものを直接呼び出すことはできない」
ヨーログは言った。
「暗き淵の君は、我々人間とは存在の概念そのものが異なる高次元の存在だからだ。そのために魔術師は、この世界における暗き淵の君の肉体を用意した」
ヨーログはそう言って、眉をひそめる。
「その呪わしい肉体を作り上げるために、どのような汚らわしい儀式が繰り返され、どれだけの犠牲が払われ、どれだけ複雑で入り組んだ魔術が用いられたのか。今となっては知る者もいないが、とにかく、魔術師は作り上げたのだ。暗き淵の君の魂を受け入れることのできる肉体を」
神の魂を受け入れることのできる肉体。
それがどんなものなのか、アルマークには想像もつかなかった。
「だが、その企てに気付いた善の魔術師たちもいた。彼らは知っていた。暗き淵の君が現世に現れるということ、それはすなわちこの世界が終わるということであると」
世界が終わる。
あまりに現実味のない言葉。
だが、アルマークもウェンディも黙ってヨーログの話に耳を傾ける。
ヨーログの静かな声だけが、室内に響く。
「その肉体に魂が入ってしまえば、どのような魔術でも、どのような武器でも、もはや傷一つつけることはできない。善き魔術師たちは、闇の魔術師とその勢力が暗き淵の君の魂をその肉体に降臨させる前に企てを阻止しようと戦った。多くの仲間が倒れたが、善き魔術師たちは間に合った。暗き淵の君の魂が肉体に入らんとする瞬間に、その肉体を引き裂くことに成功したのだ」
古の、恐ろしい戦い。
その様子を想像しようとしてみたが、アルマークにはまだとても思い描けなかった。
「善き魔術師たちは、命と引き換えに封じた。暗き淵の君の魂を、南の地に。引き裂いた肉体を、北の地に。そして、魂とともに訪れた膨大な魔力を、別次元の異界に」
「それで暗き淵の君は滅びたのですか」
アルマークが尋ねる。
ヨーログは首を振った。
「滅びはしない。魂、という言葉を使ったが、高次元の存在にとって、それは所詮この世界に来るための分身のようなものに過ぎない。暗き淵の君は、変わらず今も暗き淵にいる」
「たくさんの犠牲も無駄だったということですか」
「無駄ではない」
ヨーログは答えた。
「暗き淵の君は、少なくとも現世に現れる手段を失った。いかに高次元の存在といえど、一つの世界に全く同じ魂が二つは存在できぬからだ。現世でその魂が封じられている以上、暗き淵の君はもうこの世界に現れることはできない」
それから、ヨーログはウェンディを見た。
「この世界に残ったのは、封じられた魂と肉体。そして、膨大な力が封じられた異界へと続く通路」
膨大な力。
それこそが、つい先日アルマークも目の当たりにしたウェンディに流れ込む奔流のような魔力なのか。
「私の魂に」
ウェンディが言った。
「その異界への通路を開く力があるということですか」
「うむ」
ヨーログは頷く。
「その力を持つ者を、闇の勢力どもはこう言い習わしてきた」
ヨーログは、アルマークとウェンディがもはや聞き慣れたあの言葉を口にする。
「門」
「私が、門」
ウェンディが呟く。
「私は門なんだ」
確かめるように、もう一度。
「私は、暗き淵の君の力を封じた、異界への門なんだ」
「ウェンディ」
アルマークはウェンディの手の上に重ねた自分の手に力を込めた。
「大丈夫だ」
口にしながら、空しい言葉だと思った。
それでも、アルマークは言わずにはいられなかった。
「大丈夫だよ」
「ありがとう」
ウェンディは答えた。
「きちんと聞くわ。自分のことだから」
気丈なその言葉に、アルマークの胸は押しつぶされそうになる。
ヨーログはそんなウェンディの様子にちらりと痛ましそうな表情を見せたが、それでも淡々と言葉を続けた。
「君が多くの敵に狙われてきたのも、それが原因だ。君のその力は、闇の勢力にはあまりにも魅力的なのだ。古の魔術師たちがその膨大な魔力を封じるためだけに開いた異界だ。そこに充満した無限に近い魔力はいつでも出口を求めている」
「じゃあ、もしもその力を自由に使うことができるとしたら」
ウェンディがそう言ってヨーログを見た。
ヨーログは頷く。
「そんなことができたなら、その人間はあらゆる望みを叶えることができるだろうな」
それほどの力だ、とヨーログは続けた。
「しかも、闇の力とは切り離された、純粋な力としての魔力なのだから」
「それなら、どうして闇の魔術師がウェンディを狙うんですか」
アルマークは尋ねた。
「異界の魔力が闇の力ではないのなら」
「闇の勢力といえども、一枚岩というわけではない」
ヨーログは言った。
「邪悪な連中だけに、その思惑は様々だろうが、理由は大きく分けて二つだろうな」
「二つ」
「一つは、この伝承が一般に流布されていないこと」
そう言って、ヨーログは二人を見る。
「闇の魔術師と、善なる魔術師たちとの戦いは、ほとんどの人々に知られることなく歴史に埋もれてしまった。現に、君たち二人も今初めてこの話を聞いただろう」
そう問われて、アルマークとウェンディは顔を見合わせた。
「……はい」
アルマークが返事をし、ウェンディも頷く。
「だから、この秘められた力の存在を知っているのは闇に連なる者たちに限られるのだ。自らの歪んだ欲望を叶えるためにその力を狙う輩のほとんどは、闇の勢力ということだ」
ヨーログは言った。
「そしてもう一つの理由。こちらのほうが厄介かも知れないが」
ヨーログが少し言い淀み、ウェンディが小さく唾を飲む。
「この力は、暗き淵の君をもう一度現世に蘇らせるためには不可欠だということだ」
「もう一度」
アルマークは目を見開いた。
「暗き淵の君を現世に」
「うむ」
ヨーログは重々しく頷く。
「引き裂かれた肉体を繋ぎ合わせ、そこに異界からの魔力を注ぎ込んだ上で、封じられた魂を解放すれば、理論上は暗き淵の君は現世に蘇る」
そう言って、二人の顔を見た。
「古の闇の魔術師の望んだ、そのままの姿でな」




