学院長室
ノックして、学院長室の大きな重い扉を開けると、ヨーログはいつもの柔和な笑顔で二人を出迎えた。
「二人とも、よく来たね」
そう言うと、ヨーログは二人を自分の机の脇に手招いた。
「こちらに来なさい」
今日は、イルミスの姿がなかった。
「イルミス先生はいらっしゃらないんですか」
アルマークが尋ねると、ヨーログは頷く。
「ああ。今回はイルミス先生には外してもらった」
「そうですか」
確かに、ライヌルはイルミスの元同級生だと言っていた。今日はイルミスの前では言いづらいこともあるのかも知れない、とアルマークは考えた。
「さて、まずはいつもの儀式だ」
ヨーログは冗談めかしてそう言うと、ウェンディと並んで立ったアルマークの右手を取った。
「蛇はどうかね」
そう言って、手から淡い光を放つと、アルマークの手がたちまち透き通り、その中に一匹の黒い蛇がまだとぐろを巻いているのが見えた。
ウェンディが眉をしかめて辛そうな顔をする。
「憎たらしい蛇」
そう言って、蛇をにらみつける。
「早く、アルマークの手から出ていきなさい」
すると蛇はまるでその声が聞こえたかのように鎌首をもたげ、ウェンディのいる方向に威嚇してみせた。
「大丈夫。いるだけだ。今はこいつには何もできん」
ヨーログは言った。
「しかるべき時が来たら、力を持つのだろう。といっても、せいぜいが闇を君の方へとおびき寄せる役割程度」
「はい」
アルマークは頷いた。
今までの闇の罠でも、右手の蛇が何か悪さをすることはなかった。
右手が震えて、闇の罠が発動したと分かる。
せいぜいがその程度だ。
「これについては、もうそんなに気に病んではいません」
アルマークは答えると、手をそっと引っ込めた。
「やるべきことをやれば、蛇は消えると分かっていますから」
「うむ」
ヨーログは頷く。
「最後の一つ。イルミス先生と君たちの見立てでは、剣、だったかな?」
「はい」
アルマークは返事をする。
「当たっているかは分かりませんが」
「そうだとしたら、君の得意分野だな」
「そうですね」
答えてから、やはり首を振る。
「でも、そんなに単純な罠だとは思えません。剣が効く相手かどうかも分からない」
冷静にそう答えるアルマークの様子を見て、ヨーログは目を細めた。
「アルマーク。君はいっそう逞しくなったね。ここに来たときから精悍だったが、今はしなやかさも加わった」
「自分では分かりません」
アルマークは微笑んだ。
「でも、もしそうだとしたら、ここの先生方や生徒のみんなのおかげです」
そうか、とヨーログは頷いた。
「それはいいことだ」
「はい」
一瞬の沈黙。
本題に入る時間だ。
「そういえば、ライヌルが来たそうだね」
ヨーログはそう言って、二人を見た。
「戦いになったと聞いたが」
アルマークとウェンディは顔を見合わせる。
「はい」
アルマークが代表して答えた。
「あの人は闇の魔術を使って、ウェンディの身体にどこからか魔力を流し込んだんです」
「ふむ」
ヨーログは頷く。
「それから?」
「あの人は、どうにかして僕からマルスの杖を奪おうとしました。マルスの杖を僕が自分であの人に渡すようにと仕向けてきました」
「だが結局、マルスの杖は無事だったのだね」
「はい」
アルマークは答えて、持っていたマルスの杖をヨーログに見せる。
「でも、あの人が杖を操って光らせたら、ウェンディの身体からものすごい量の魔力が」
「それを、どうやってしのいだのかね」
「杖を止めました」
「どうやって」
「殴りました」
アルマークは答えた。
「手で殴って、止めました」
ヨーログは目を見開く。
「殴って止めた」
そう呟き、それからアルマークの顔をまじまじと見た。
「その方法は、自分で考えたのかね」
「自分で……そうですね」
アルマークは頷いた。
「父さんの言葉を思い出したんです。言うことを聞かねえやつは、ぶん殴って黙らせろって」
「お父上の。そうか」
ヨーログはそう言うと、しばらく黙ってアルマークの顔を見つめた。
やがて独り言のように、そうか、そういうことか、と呟いた。
ヨーログは首を振って穏やかに続きを促す。
「それから、どうしたのかね。ライヌルはそれくらいでは諦めなかっただろう」
「はい。いろいろなことを言って僕を不安にしようとしましたが、僕も杖を振り回して、近寄らせませんでした。それに、後から分かりましたが」
アルマークはライヌルの言動を思い出して、言った。
「あの人も、そこまで本気ではなかった」
「ふむ」
「それで、ウェンディが目を覚まして、睨み合っているところにイルミス先生が助けに来てくれたんです」
「なるほど」
ヨーログは頷いて、アルマークを見た。
深く青い目が、一瞬きらめいたように見えた。
「ライヌルが学院で闇の魔術を行使して生徒を襲ったことについては、すでにガライの王宮に報告を済ませた」
ヨーログは静かに言った。
「王宮の返答は簡単なものだったよ。元宮廷魔術師ライヌルは、数ヶ月前に王宮から許可なく行方をくらましたままだと」
「元、宮廷魔術師」
ウェンディが声を上げた。
「それじゃあ、あの人はもう宮廷魔術師じゃないんですか」
「そういうことだろうな」
ヨーログは頷く。
「武術大会に、彼がウォルフ王太子のお付きとして来ていたと言ったね。それからしばらくして、ライヌルは王宮を去ったようだ」
「そう、ですか」
ウェンディは拍子抜けしたように言った。
「自分で宮廷魔術師と言っていたから、私はてっきり王家が」
そこまで言いかけて、思い直したように首を振る。
「いえ、なんでもありません」
「王家が背後にいると思ったかね」
ヨーログは穏やかに言葉を継いだ。
「いえ、その」
ウェンディが顔を赤らめる。
「すみません。考えすぎました」
「さて。そうとも限らないがね」
「あの人は」
アルマークは口を挟んだ。
「この杖を鍵だと。ウェンディを、門だと言っていました」
そう言って、ヨーログの青い目をまっすぐに見る。
「それは、どういう意味なんですか」
ライヌルの行方も確かに気になる。
だけどあの人は、また会おう、と言った。
それならば、またいつかアルマークたちの前に立ちはだかるのだろう。
だから、今はいい。
その時までに、自分たちが力を蓄えて、今度こそ返り討ちにすればいいだけのことだ。
それよりも気になるのは、やはりあの言葉の意味だった。
「門、か」
ヨーログはそう言って、息を吐いた。
「これは、君たちには相当厳しい話になる。だからもう少し、君たちが受け止めるのにふさわしい力をつけるまでは黙っておくつもりだったのだが」
その言葉に、アルマークの隣でウェンディが息を吸った。
「君たちの先輩が乱暴にばらしてしまったからには、これ以上、黙っておくこともできまい」
ヨーログの顔から、いつの間にか笑顔は消えていた。
顔に刻まれた深い皺の一本一本にくっきりと陰影が現れ、彫刻めいた表情の中で、青い目だけがまるで別の生き物のように光を帯びていた。
「ウェンディ。君は、門だ」
ヨーログは静かに言った。
「無尽蔵に近い膨大な魔力が封じられた異界。そこと、現世とを繋ぐ門」
「無尽蔵に近い、魔力」
まるで覚えたての言葉のように、ウェンディがおぼつかなく繰り返した。
「それはいったい何ですか。どうして封じられているんですか。誰が封じたんですか。異界って何ですか。どうして、どうして私が」
ウェンディの口から、とめどなく疑問があふれる。
「どうして私が、門なんですか」
「君が門として選ばれた理由は、私にも分からない」
ヨーログは表情を変えずに言った。
「だが、他の疑問には答えることができる」
そう言って、ウェンディの不安そうな瞳を受け止める。
「封じられた魔力には、本当の持ち主がいる」
「本当の持ち主」
ウェンディは呟く。
「誰ですか。大昔の大魔術師ですか」
「いや」
ヨーログは首を振った。
「魔力の持ち主は」
その声が、誰かに聞かれることを警戒するかのように低くなる。
「原初の闇だ」
原初の闇。
その言葉に、アルマークはよく暖められたこの部屋の気温が急に下がったような錯覚を覚えた。
「またの名を」
ヨーログは低い声で、その名を告げた。
「暗き淵の君」




