(閑話)一匹狼
身体も凍りつきそうなほどに寒い明け方。
アルマークたちはいきなり乱暴に叩き起こされた。
「起きろ。敵襲だ」
隣で寝ていた男が、嘘だろ、こんな時間に、とぼやく。
アルマークは手探りで自分の剣を掴むと、粗末なテントを出ながら、寝る時に緩めていた革鎧の紐を素早く締め直した。
「1番隊はこっちだ」
「急げ、3番隊」
すでに起き番だった傭兵たちが大声を上げて部隊を集めている。
アルマークはテントから這い出してきた他の傭兵たちとともに、隊列につく。
「2番隊、敵に当たるぞ。西の山の方角からだ、すぐに来るぞ」
隊長が声を張り上げる。
「まだ半分も集まってねえぞ」
誰かが叫んだ。
「残りは3番隊に入れてもらえ。行くぞ」
「くそっ。早く来るんじゃなかったぜ」
別の誰かが舌打ちする。
だがその時にはもう、凍った草と霜柱を踏み砕きながら迫ってくる敵軍の足音が聞こえてきていた。
「仕方ねえ。生きるか死ぬかだ」
シンプルな解答。傭兵はいつもそこに行き着く。
アルマークは、仲間の傭兵たちと走りながら、朝靄の向こうの敵軍に目を凝らした。
アルマークがこの傭兵団に合流したのは、十五日も前のことだ。
冬とはいえ、まだ断続的に戦の続く地域。
敵の傭兵団と小競り合いを繰り返しながら行軍するこの傭兵団の行き先がちょうどアルマークの向かう方角と一致していた。
冬の野宿が身体に堪えていたアルマークには、粗末なテントとはいえ夜露に濡れずに眠れるのはありがたかった。
父の名も黒狼騎兵団の名も出さなかったが、団長はアルマークの剣のひと振りを見て、即座に合流を承諾した。
裂陣傭兵団という、名前だけはたいそう勇ましいその傭兵団は、指揮官、兵士ともに黒狼騎兵団のような一流の傭兵団とは比ぶるべくもなかった。
合流して三日。
こちらが有利な状況で仕掛けたはずの野戦で、裂陣傭兵団は敵の反撃を支えきれずに脆くも崩れた。
「いったん森へ。森へ退け」
その命令に、傭兵たちが一斉に目の前に広がる森へと駆ける。
アルマークも駆けた。
隣を走っていた男が、不意に声も出さずに倒れる。
その背に矢が突き立っていた。
アルマークたちの背後から、十数騎の騎馬兵が弓を構えて猛然と迫ってきていた。
アルマークは頭を低くして斜めに走った。
その後を追うように地面に次々に矢が突き立つ。
森へ向かって駆ける仲間の傭兵たちが、矢を受けてばたばたと倒れていく。
森までは、逃げ切れない。
誰も、殿を務める人間がいないからだ。
アルマークの目の前で、また一人傭兵が倒れた。
戦場では、使えるものは何でも使う。
アルマークはその傭兵を飛び越すと、反対から肩を掴んで身体を起こした。
まだかろうじて息があるその傭兵が低く呻く。
悪く思うな。
アルマークは傭兵の身体を盾にしてその陰に隠れると、剣を構えた。
たちまち傭兵の身体に数本の矢が突き立つ。
傭兵の最後の痙攣を感じながら、アルマークは息を整えて傭兵の腋の隙間から敵を見た。
もう少し。
真正面から向かってくるのは、弓を下ろして剣を抜いた二人の騎兵。それに、弓を持ったままでアルマークの側面に回りこもうとする騎兵が一人。
アルマークは五感を研ぎ澄ませてその一瞬を待つ。
馬の蹄の音が近づいた。
今だ。
アルマークは身を低くして傭兵の身体の陰から飛び出した。
地面を蹴って大きく跳ぶ。
目を見開いて剣を構えた騎兵に向けて、長剣の一撃を見舞う。
かろうじて自分の剣で受けたその騎兵が、衝撃を殺しきれずに馬を転げ落ちた。
アルマークは空中で身体を伸ばして手綱を掴み寄せると、空になった馬の背にしがみつく。
もう一人の騎兵がすぐさま馬を寄せてくる。
アルマークが振り向きざまの一刀を浴びせると、剣の砕けるような激しい音がして、受け止めたその騎兵も顔色を変えて手綱を引いた。
次の瞬間、アルマークは馬上で身をよじった。
耳元すれすれを風切り音とともに矢がかすめていく。
側面に回りこもうとしていた騎兵だった。
もう既に次の矢をつがえ始めている。
アルマークは馬に残された敵の騎兵の弓を手に取ると、素早く矢をつがえて射た。
狙いもつけずにでたらめに射ったように見えたその矢は、しかしまっすぐに騎兵の身体に吸い込まれていった。
肩を貫かれた騎兵がうめいて弓を取り落とす。
他の騎兵たちが、気圧されたように馬を止めた。
その間に仲間の傭兵たちが森へと駆け込んでいく。
アルマークは自分でもそのまま馬を森へと駆け入れながら、舌打ちした。
頭を狙ったのに。
やっぱり、弓は苦手だ。
敗走した兵士たちを結集して戦力を立て直した裂陣傭兵団の団長に、その日の夜、アルマークは呼び出された。
「聞いたぜ」
団長のグレッサーは、古傷だらけの顔を歪めて笑った。
「すげえ活躍だったそうじゃねえか。敵の騎兵を3騎もいっぺんに倒して、悠々と退却してきたってな」
「悠々と、じゃないな」
アルマークは首をひねった。
「大げさだ。こっちも必死だったし、それに3騎とも退けただけで倒してはいない」
「お前、いいな」
グレッサーは笑った。
「普通なら初陣もまだの年齢だ。それでその強さ。何よりもガキのくせにいきがらねえところが実にいい」
そう言って、革袋をアルマークの目の前の木の台に置く。
ごとん、と重い音がした。
「銀貨だ。50枚ある」
数えてみてもいいぜ、とグレッサーは言った。
「お前、正式にうちに入れよ。それは契約金だ。何回か戦場に出たらすぐにエース扱いで二つ名を名乗らせてやる」
「申し訳ないけど」
アルマークは首を振った。
「目的の街が近くなったら離れる約束だ。行くところがあるから、ここには入れない。それに、食事と寝床があるだけで十分ありがたいから、これは要らない」
そう言って、銀貨の袋には手もつけなかった。
「ふうん」
グレッサーは笑いを引っ込めてアルマークを見た。
「どうしてもか」
「ああ」
アルマークは頷いた。
グレッサーから目をそらさない。
いきがる必要はないが、舐められるのは危険だ。
歴戦の傭兵団長に張り合うように、アルマークはその目を見つめ返した。
「ま、いいだろう」
ややあって、グレッサーは言った。
「うちも楽じゃねえ。うちに入らねえやつに銀貨はやれねえ」
そう言って、革袋を引っ込める。
「ああ」
アルマークは答えた。
「さっきも言ったように、飯と寝床があるだけで十分だ」
「へっ」
グレッサーは笑った。
「欲のねえガキだ」
それから今日までの間にあった二度の小競り合いで、アルマークは大人の傭兵たちに混じって見事な戦いをしてのけた。
そして、今日。
アルマークの目的地が近づき、この傭兵団に同道するのも今日が最後だろうか、などと思っていた矢先の明け方の奇襲だった。
「2番隊、防げ」
隊長の号令一下、傭兵たちが敵兵を迎え撃つ。
アルマークも先頭に立って剣を振るった。
相手の強烈な斬撃を受け流し、その首に剣を叩き込む。
振り向きざまに次の相手に飛びつき、脇腹に剣を突き刺す。
そうやって、数人の敵を倒したその時だった。
アルマークの鼻腔を刺す、焦げた鉄の臭い。
危ない。
アルマークの勘が、瞬時に危険を告げた。
戦場で、強い傭兵はいつも鉄の臭いとともにやって来る。
それは武器や鎧を打ち砕く鍛えられた鋼の臭いであり、それとともに舞い散る血の臭いでもあった。
アルマークの側面で、味方がどっと崩れた。
振るう得物の音が他とはまるで違う。
アルマークにも、決して戦ってはいけない相手の区別はついた。
戦場の風に揺れる長い銀色の髪。血に染まった二本の剣。
「"双剣”のアーウィンだ!」
誰かの悲鳴。
凶虎傭兵団のエースの一人として名を馳せた一流の傭兵が、どうしてこんな場末の戦場に。
敵は凶虎傭兵団でもなんでもないのに。
「アルマーク!」
隊長が叫んだ。
「お前が防げ、側面から援護させる」
防げと言われて防げる相手ではない。
だが、誰かが防がなければならない。
「もって3合だ」
アルマークは答えて前に出た。
いずれにせよ、このままでは一気に切り崩される。
この場で多少なりともアーウィンの相手ができるとすれば、それは自分しかいない。
舞うように目の前の傭兵を斬り倒したアーウィンの切れ長の目がアルマークを捉えた。
アルマークは覚悟を決めて、自らその間合いに飛び込んだ。
アーウィンの二本の剣が音もなくアルマークの首と腕に伸びる。
アルマークはそれを紙一重でかわして長剣を叩き込んだ。
斬ったつもりだったが、アーウィンは難なく身をかわしていた。
アルマークの左脇に滑るようにして立ったアーウィンの口元が微かに綻んだように見えた。
次の瞬間、強烈な一撃をなんとか受け止めたものの、左腕を浅く斬られてアルマークは飛びのいた。
先程かわしたつもりだった首からも、血がにじんでいた。
とても相手にならない。
だが、側面から仲間の援護を受ければまだ多少は持ちこたえられる。
そう計算しながら剣を構え直す。
ここで飛び込んでこい。アーウィンの注意をそらせ。
しかしアルマークの期待した側面からの援護は来なかった。
代わりに聞こえてきたのは、背後へと走り去っていく足音。
アルマークがアーウィンの相手をしているうちに、味方の傭兵たちは一斉に引き上げ始めていたのだ。
捨て石にされた。
瞬時にアルマークは悟る。
どうせこの先で別れて、もう味方にはならないガキ一人の命など、“双剣”のアーウィンを少しでも足止めできるなら安いものだ。
冷徹な命の計算で、弾き出された犠牲。
一瞬の動揺が顔に出たのだろう。アーウィンが端正な顔をはっきりと歪めて笑った。
「哀しいな」
アーウィンは言った。
「群れだったつもりが、いつの間にやら一匹だ」
そう言いながら、間合いを詰めてくる。
その脇から、アーウィンの仲間の傭兵たちが殺到してきた。
アルマークは他の傭兵には構わずアーウィンの動きにだけ集中した。
他の傭兵たちもアーウィンの獲物に手を出すつもりはないようで、アルマークを一顧だにせず駆け抜けていく。
二本の剣がゆらりと揺れる。
こちらの一本の剣で、どちらか一本だけを押さえてもダメだ。
生き抜け。
父の力強い言葉を思い出す。
これくらいの修羅場は、もうくぐってきたはずだろう。
アルマークが、先に動いた。
一撃に、命を込めろ。
その速さに、アーウィンが意外そうな顔をした。
自らの長剣が空を切ると同時に、アルマークは脇の茂みに身を躍らせた。
背中を斬りつけられて、革鎧が弾け跳ぶ。
鋭い熱を伴う痛み。
大丈夫だ。身体には届いていない。
そう自分に言い聞かせて、そのまま茂みをでたらめに走る。
硬い枝や棘に引っかかり、身体に無数の傷が付く。
どれだけ走っただろう。
アーウィンは追っては来なかった。
半ば凍りかけた川のたもとに出て、ようやくアルマークは足を止めた。
戦いの喧騒はもう聞こえない。
背中がぐっしょりと濡れているのが分かる。
汗か、それとも血か。
大丈夫だ。
アルマークは自分に言い聞かせた。
視界がぐにゃりと歪み、その場でへたりこみそうになるのを、かろうじてこらえる。
大丈夫だ。
南へ。
僕は、南へ。
虚ろになりかけた心に、呪文を唱えるように繰り返した。
そうすることで、生き抜く力がどこからか湧いてくるように感じた。
南へ行くんだ。
アルマークは思った。
僕は、生きて、南へ。
川の下流に向かって、アルマークは足を踏み出した。
よろよろと頼りなく、それでも確かに一歩ずつ。
南へ。




