(閑話)白狼の咆哮(後編)
弾き飛ばされるようにして尻もちをついたデリが、言葉を失った。
「な、ななな」
マーゴットの嵌めた石の指輪。それが低く唸り続けている。
異形。
黒いずんぐりとした不格好な人型のものが、マーゴットの前に立ちはだかっていた。
足が極端に短く、その分腕が長い。左右の腕の長さはばらばらだ。
全身が墨で塗られたように真っ黒で、目も鼻もないが、口を開けるとずらりと並んだ不揃いの歯が覗いた。
「なんだ、そいつは」
デリが剣を握り直して立ち上がった。
立ち上がると、デリのほうが頭一つ分以上も背が高い。
「魔術師を怒らせたな」
マーゴットが叫ぶ。
「思い知らせてやる」
「ふざけるなよ」
デリが剣を構える。
「俺も舐められたもんだ。小鬼の魔法か。こんなもんで俺がびびると思ったか」
デリは剣を振りかぶると、黒い鬼に叩きつけた。
がきん、という鈍い音。
「ぐあっ」
悲鳴を上げたのはデリの方だった。
剣を打ち込んだ自分の手が痺れてしまい、デリは剣を取り落とす。
黒い鬼は、何事もなかったように一歩、前に出た。
「よ、よせ」
デリが後退る。
黒い鬼が長い腕を伸ばした。
「ひっ」
デリが自分を守るように腕を前に出す。
黒い鬼の手が、まるで鋭利な刃物のようにその腕を切り裂いた。
血を撒き散らして、デリが倒れた。
黒い鬼は、なおも前に出る。
「もういい」
ダニーが叫んだ。
「もう十分だ。それくらいにしておけ、マーゴット」
マーゴットの返事はなかった。
アルマークはマーゴットの方に目を走らせる。
マーゴットは真っ青な顔で石の指輪を指から抜こうとしていた。
「もういい、もういい」
そう呟いているが、黒い鬼の動きに変化はない。
「レネイさん、指輪が抜けないみたいだ」
アルマークはレネイに叫んで、自らは腰の剣を抜くと黒い鬼に向かって走った。
こいつはなんだ。闇の眷属か。それとも何か別のものか。
「こっちだ、化け物」
倒れているデリに向かって腕を振り上げる黒い鬼にアルマークは叫んだ。
しかし鬼はアルマークの方を見向きもしない。
くそ。
アルマークはそのまま鬼に飛びかかって、剣を頭に叩きつけた。
またも、がきん、という鈍い音。
岩でも叩いたかのような感触。
公演用の剣は、脆くも折れて弾け飛んだ。
だが、鬼はその一撃でようやくアルマークの方に向き直った。
「ダメだ、アルマーク」
レネイの声。
レネイはマーゴットの指から石の指輪を抜き取ろうと必死の形相だった。
「抜けねえ。これは、ただきついからとかそんなんじゃねえ」
魔法だ。
瞬間的に、アルマークは悟る。
石の指輪の持つ禍々しい力を、マーゴットが怒りにかられて解放してしまったのだ。
この黒い鬼は、きっとその産物だ。
事実、このときのアルマークには知る由もなかったが、その推察は正しかった。
マーゴットが魔女のところから盗み出した石や指輪のほとんどは、魔法具と呼ぶのもおこがましい、魔女自作の粗末なものだったが、唯一、この石の指輪だけは違った。
他の石や指輪がマーゴットとともに消え失せているのに気付いても、魔女は眉一つ動かさなかったが、石の指輪までもがなくなっているのが分かると、烈火のごとく怒り狂った。
古代の魔術師の手により作られたこの指輪は、魔女の持つ数少ない本物の魔法具の一つだった。
本来は、今アルマークたちの目の前にいる出来損ないなどよりも、もっと遥かに強力な魔法生物を生み出す力を有していたが、魔術の基礎もろくに知らないマーゴットに作り出せたのはこれが限界だった。
それでも、黒い鬼のようなこの魔法生物には、簡単に人間を殺せる程度の力は備わっていた。
黒い鬼の振るった腕が空を切り裂く。
アルマークはとっさに横に飛んでそれをかわした。
鬼の口元から醜い歯が覗く。
と、不意に鬼が身を翻した。
「マーゴット! レネイさん!」
アルマークは叫んだ。
鬼が向かっていったのが二人の方だったからだ。
「うわ、来るんじゃねえ」
レネイがマーゴットの腕を引っ張って逃げようとした時、鬼が長い腕を振り上げて飛びかかった。
軽業師のレネイは、とっさにマーゴットから手を離してぎりぎりで身をかわしたが、その頬から血が舞う。
「くそ、マーゴット!」
レネイが叫ぶ。
「違う」
声を上げたのは座長のダニーだった。
「レネイ、マーゴットから離れろ!」
「え?」
レネイは一瞬呆気に取られるが、すぐに鬼がまた自分に腕を振り上げたのを見て、素早い身のこなしでマーゴットと鬼から離れる。
鬼はマーゴットを守るようにレネイを威嚇すると、倒れているデリに再び身体を向けた。
「こいつは」
レネイはダニーを振り返る。
「ああ」
ダニーは頷いた。
「あいつには、指輪を抜こうとしているお前が、マーゴットの邪魔をしているように見えたんだ」
ダニーは言う。
「あいつは、マーゴットに害をなした者を殺そうとしているんだ」
「ひっ」
鬼に迫られ、腕から血を流したデリが後退る。
「よせ。来るな」
「待って、もういい!」
マーゴットが声を上げた。
「もう十分だから!」
だが、鬼は止まらない。
「マーゴットには過ぎた魔法だったようだ」
ダニーが険しい顔で言う。
「あいつはマーゴットを護ろうとしてはいるが、マーゴットの命令は聞かない」
「どうすんだよ。あれじゃデリのやつ、殺されるぜ」
レネイが声を上げる。
「どうしようもねえクソみてえな酔っ払いだが、それでも目の前で死なれたら後味が良くねえよ」
「そうは言ってもな」
ダニーが唇を噛んだその時、アルマークがマーゴットに駆け寄った。
その腕を掴み、デリとは逆方向に走っていく。
鬼が向きを変えた。
足を曲げて身体を沈めたかと思うと、驚異的な跳躍力で宙を舞った。
そして、先回りするようにアルマークとマーゴットの前に着地する。
「うまい、奴をデリから引き離したぞ」
ダニーが裏方の男たちを振り返る。
「お前ら、デリの野郎をこっちへ引っ張ってこい」
頷いて、男たちが恐怖でうずくまっているデリに駆け寄る。
「でも座長、あれじゃアルマークが」
レネイがうめく。
とっさに鬼の攻撃を避けきれず、アルマークの衣装の肩が切り裂かれた。
「アルマーク、もういいから!」
マーゴットが悲鳴のような声を上げた。
「私から離れて」
「そうはいかない」
アルマークは首を振る。
「そうしたら、こいつはレネイさんのほうに行くかもしれないし、それに」
アルマークは言いながら鬼の腕をかわす。
「君を一人にしておけるか」
その時。
「アルマーク!」
アイカの声が響いた。
その手に、アルマークの相棒の長剣を持っていた。
「アイカさん!」
アルマークは身をよじって鬼の攻撃をかわすとアイカに叫んだ。
「投げて!」
アイカが、長剣を重そうに下から掬い上げるようにして投げる。
アルマークは大きく跳躍して空中で剣を受け取ると、そのまま鞘を払った。
「アルマーク、そいつに剣は効かねえって!」
レネイが叫ぶ。
しかしアルマークは着地すると、剣を振りかぶって鬼に飛びかかる。
レネイさん。剣で斬るときはね。
アルマークの体が回転し、剣が唸りを上げる。
全部刀身に乗っけるんだ。自分の速度と体重と、それから。
剣への信頼。
鬼の振るう腕とアルマークの剣がぶつかる。
岩が砕けるような音がした。
鬼の右腕が地面に転がる。
「うおお」
レネイが歓声を上げる。
「すげえぞ、アルマーク」
「な、なんだ、あのガキは」
裏方の男たちに救い出されたデリが、うめいた。
「なんなんだ、あいつは」
「お前が抜けたあとに入った剣士だよ」
「剣士だと?」
レネイの答えにデリは目を剥く。
「剣士、の意味が分かって言ってんのか。見世物にするような剣じゃねえ。あれは、本物の」
その時、悲鳴が上がった。
マーゴットだった。
石の指輪の発する重低音が大きくなっていた。
「腕が」
レネイがうめく。
地面に落ちた鬼の腕と、本体の切られた断面とがねっとりとした油のようなもので繋がり始めていた。
「私の魔力が、指輪に吸い取られる」
マーゴットが喘いだ。
身体が震え、その顔がたちまち蒼白になる。
「アルマーク、その鬼を傷つけたらダメだ」
ダニーが叫んだ。
「マーゴットの魔力を吸い取って再生しているぞ」
マーゴットがふらりとよろけるのを、駆け寄ったアルマークが支える。
鬼の腕は、もうほとんど繋がりかけていた。
「くそ」
アルマークは歯噛みした。
こいつを斬ればマーゴットが。斬らなければレネイや一座の人が命を落とす。
どうすれば。
「切って」
マーゴットが言った。
その身体が苦しそうに震える。
「私の指ごと、指輪を切り落として。そうすればあいつはもう再生できない」
マーゴットが右手をアルマークに差し出す。
その人差し指に嵌った石の指輪がアルマークの目の前で、ぶるりと震えた。
鬼が、腕の再生を終えてゆっくりと振り向く。
「お願い、アルマーク。早くして」
マーゴットが喘ぐ。
その瞳から、涙がこぼれた。
「あなたを、みんなを、傷つけたくない」
アルマークはためらった。
鬼がアルマークたちに向かってくる。
「アルマーク!」
レネイが叫ぶ。
その時。
アルマークが吼えた。
その場の誰もが息を呑むような、叫び声。
鬼が、びくりと動きを止めた。
「嘘だろ。この声はまるで」
ダニーが目を見開く。
「あのときの白狼じゃないか」
「分かった」
アルマークがそう言って、マーゴットから身体を離した。
「マーゴット、少し我慢して。動かないでいて」
マーゴットが頷いて右手を伸ばす。
アルマークが剣を構えた。その顔から、表情が消える。
「アルマーク……!」
アイカが息を呑んだ時、アルマークの剣が一閃した。
レネイが顔を背ける。
アルマークは、流れたマーゴットの血に、少し悲しそうな顔をして鬼に向き直った。
「ごめん、マーゴット」
魔力の源を失った鬼に向けて、アルマークの剣が再度唸りを上げた。
夜が明け、到着した衛兵隊にデリは引き渡された。
デリの腕の傷はそれほど深くはなかったし、酒の抜けたあとは別人のようにおとなしくなっていた。
ダニーによれば、素面のときのデリは無害でおとなしいのだという。
「アルマーク」
馬車に凭れかかり、折れてしまった装飾剣を残念そうに眺めていたアルマークに、マーゴットが声をかけてきた。
「ああ、マーゴット」
アルマークは身体を起こす。
「もう治療は済んだのかい」
「治療なんて大げさなもんじゃないわ」
マーゴットは肩をすくめて、アルマークに自分の右手の人差し指を立ててみせる。
指の中ほどに、簡単に包帯が巻かれていた。
「少し皮が切れて血が出ちゃっただけだから」
そう言うマーゴットに、アルマークは首を振ってうつむく。
「指輪だけを切るつもりだったのに、君を傷つけてしまった。公演でアイカさんの頭の上の果物を掬ったときはうまくいったのに」
「かすり傷よ、こんなの」
マーゴットは言った。
「私はこの指一本なくす覚悟をしたんだもの。失敗のうちに入らないわ」
それでも浮かない顔をしているアルマークを見て、マーゴットは笑った。
「自分の剣に、誇りを持っているのね」
自分の努力で得た力だから、とマーゴットは呟く。
「私の魔法とは違う」
「え?」
アルマークが顔を上げる。
マーゴットは、アルマークに手を差し出す。
その手の中に、断ち切られた石の指輪があった。
「レネイもアイカも言ってた。こんなことできる剣士は見たことないって。二人とも、アルマークに残ってほしくてたまらないみたいよ」
もちろん座長もね、と付け加えるマーゴットの顔をアルマークが困ったように見る。
「でも、私には分かったわ。昨日のことで、逆に」
マーゴットは微笑んだ。
「あなたは、白狼一座とか、そんな狭い世界に留まる人じゃないのね。どこか、もっともっと広い世界に行くのね」
そう言って、頷く。
「次の街で別れたら、私達の道はもう交わらない」
心なしかマーゴットの目が潤んでいるように見えて、アルマークは戸惑う。
「でも、もしもなにかの拍子に道が交わって、また出会うことがあったら」
アルマークの鼻先で不意に火花が散り、アルマークはのけぞった。
マーゴットはいたずらっぽく笑い、言った。
「その時は、もっとすごい魔法を見せてあげるわ」




